フーコー・ブッダ・グッドマン (7)

namdoog2010-04-10

 仏説とりわけ唯識に「唯心論」のラベルを貼るのはどこまで許されるのか。西洋哲学史においてspiritualism(この語を日本人は「唯心論」と訳してきた)といえば、何よりもmaterialismつまり「唯物論」に対立する存在論的見地を意味した。唯物論とは、精神とか心とか呼ばれる存在領域や存在者を物質やその働きに解消してしまう考え方だ。このように、「唯心論」の背景にはspiritとmatterという二つの異種な存在者を対立させる想念がある。

 心と物質を対立させる捉え方は哲学者の専売ではない。それはふつうの人々がいだく世界観の要素でもあって、これを間違えと決めつけるわけにはゆかない。ところが、いわば厳密な哲学理論のなかで「唯心論」をきっちり規定しようした途端、この観念に対するわれわれの理解は曇らされる。

 例えば、有名なデカルト心身二元論をすこしだけ吟味してみよう。デカルトは古代以来ひとびとが持ち伝えてきた精神と物質の対立を「実在的に区別された」「二つの実体」の対立として洗練した所産として心身二元論を提唱した。〈精神〉はあらゆる物質じみた要素をすべて除去され純化された(逆に〈物質〉も同じように純化された)。

 ところが心身二元論があやういバランスでかろうじて立っているヤジロベイのような哲学であることがすぐに判明する。思惟という属性だけで成立する〈精神〉という実体はどこまでも能動的であって(神以外の)何ものにも制約されない。とするなら、精神に対して無制約性や能動性を認める限りで、デカルト存在論は唯心論と択ぶところがない。あやういバランスは実は精神へと大きく傾いている。(後のバークレイの唯心論、またヒュームの観念論、そしてヒュームを介してカントの主観主義哲学まで――この経路がデカルト哲学の中にひそかに設けられていたとも言える。)

 西洋哲学史の文脈で造語され使用されてきた「唯心論」をただちに古代東アジアの仏説にあてはめることは、フーコー流の考古学的見地をとるまでもなく、常識に照らしても不可能である。せいぜい転義(trope)の資格でだけこの語の適用は許される。念のため専門辞書を参照してみよう。そうすれば、この解釈の間違えでないと見当がつく。

 岩波哲学・思想事典(1998年刊)の項目「唯心論」の「2.インド」の個所に古代インドならびに仏教における「「唯心」思想」について記載を見出すことができる。ところがどこにも「唯心論」の語句が見当たらないのだ。使用されているのはつねに「「唯心」思想」なる表現である。これについて注意すべき点は、第一に、それが唯心論ではなく、唯心思想だということ、また第二に、「唯心」と見出し語の主要部分が括弧づきであることであろう。これらの事実は――忖度するに――執筆者(丘山新―仏教学者)が、古代インド思想には字義的な「唯心論」の主張がなかったと解していることを強く示唆している。

 ブッダは、ものごとの善し悪しや苦楽はおのれの心に淵源すること、結局これはあらゆるものごとが心に由来すること――ブッダが、現代人からすれば不可解かつ魔術的なこうした思想を説いたことはまず間違えないところである。仏教学者はこの教説を「唯心論」と規定するが、われわれはこれを肯定することができない。なぜならこの種の解釈は、概念の帰属する時代と地域を無視しているという意味で、アナクロ-レギオ二ズム(anachro-regionism)とでも呼びたい暴論だからである。ちなみに、「唯物論」あるいは「実在論」という哲学説に関しても事情はまったく同じである。ある哲学理論について、それが「唯物論」だとか「実在論」だとか、あるいはそうではないとかいう類の議論は、アナクロ-レギオ二ズムの罠にはまっていることがしばしばである。

 前掲の『ダンマパダ』や『華厳経』の一節が、後に唯識思想の経典上の裏付け(教証)としてしばしば言及された事実はよく知られている。こうしてわれわれは、唯識思想と記号主義の関係を考察すべき動機を抑え込むことがもうできなくなる。この課題をしばらく追究することにしたい。毎度の科白をまた繰り返すようだが、唯識思想そのものの考究をここで企てるつもりはない。小文の標的は、記号主義と唯識思想が思想的資質を同じくすることを明らかにし、そのためには近代思想の通念を克服すべきことを述べることに絞られている。

 「唯識」とは「あらゆるものはただ識である」ことを言う。「識」は漢訳仏典で最も多用された仏教用語のひとつだが(「意識」、「認識」、「知識」などの哲学用語は、後に日常語となるがもとは漢訳仏典からの造語である)、[S]vijnana(vijna)を漢訳したもの。ものを認識する働きのことであるが、ひろく感覚、思考、感情などあらゆる心の作用をいった。

 「唯識」の原語はvijnapti-matra。二つ目の語要素matraとは、「ただ……のみ」をいい、漢訳の「唯」の部分に相当する。問題は最初の語要素である。これはvijnaの使役形からつくられた名詞であって、基本的に「表わすこと(もの)」の意味になる。抽象的な言い方だが、現代語では「標識」とか「記号」となるだろう。(服部正明「瑜伽行としての哲学」、服部正明・上山春平『認識と超越』(仏教の思想4)、角川書店、1970年、p.26.;横山紘一『唯識思想入門』、第三文明社、1976年、pp.91-93.)

 ふつうの〈記号〉の捉え方だとそれは記号の外部にある何かを表わすものなのだが、しかし唯識派の場合、記号は「心に映じ出された表象をあらわす」に過ぎない(服部正明、ibid.)。簡単にいえば記号の外部はない。つまり唯識とは、「ただ表象があるのみで、外界の存在物はないという思想」である(ibid.)。もうひとつ引用をしておこう。唯識とは「客観と主観との両方を含めたあらゆる存在はすべて、ただ表わされたもの、知らされたものにすぎない」ことを主張する思想である(横山紘一、ibid.)。――彼らが気楽に使用する「外界」、「客観」、「主観」などの用語を鵜呑みにしてはいけない。しかしながら、ここには唯識思想のじつに簡明で的確な定義的説明が与えられている。これが記号主義の主張と瓜二つであることは明白である。

 vijnaptiとの関連で一言述べておきたい。現代哲学において「表象主義」は否定的な用語、いや侮蔑の用語にさえなっている。もちろん理由があってのことだが、だが「表象」なる概念をそのあらゆる含意とともに放棄してしまえるだろうか。「表象」についての考え方は一通りではないし、それの原語も単一ではないようだ。しかし基本的に[E]representation, [D]Vorstellung [L]repraesentatio を我が国では「表象」と訳してきた。ドイツ語は別として、他の語がre +presentから派生した名詞であり、〈ふたたび/新たに〉+〈表わす〉ということから、「何かを表わす心的表現」と了解されてきたのはよく知られている。この語が観念論によって台無しにされてしまった経緯はともかく、問題は由緒ある用語を使い捨てにすることではなく、新しい意味を吹き込むことではないだろうか。

 この点で、記号主義を標榜するパースが記号をrepresentatumと術語化した事実は示唆的である。一般論になるが、各々の用語は体系――テクストとインター・テクスト――の中ではじめて意味をなすのであって、個別的な用語の善し悪しを判定するのはまず不可能である。  (つづく)

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仏教の思想 4  認識と超越<唯識> (角川文庫ソフィア) 唯識思想入門 (レグルス文庫 66)