フーコー・ブッダ・グッドマン (6)

namdoog2010-03-21

 一般に仏説は〈自己〉という問題群をめぐる倫理学説(その基礎としての存在論を含んだかたちでの)の色彩に色濃く染められている。その証左の一端をあげよう。例えば、最古の経典のひとつである『法句経(ダンマパダ)』はブッダその人の教えを伝えているとされるが、その冒頭にこうある。


 ものごとは心に支配され、心を主(あるじ)とし、心より成っている。…もし善い心で語り、また行えば、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形にそうようなものである。
 ものごとの主人と名指されたこの「心」が西洋哲学史にいう「自己」におおよそ相当すると見なしてもいいだろう。逆に言えば、この「自己」なる語もじつは仏典に由来するのではないか――そう目星をつけて資料にあたってみると、果たしてそうであるようだ。中村元『佛教語大辞典』(東京書籍、1981)における「自己」の項目には、「【自己】じこ 自分自身のこと。本来の自己。生まれながらにして仏性をもっている自己の意。(S) ātman…」とある。さらにこの辞典の他のいくつかの項目を調べると、この語はとりわけ禅宗に好まれたことがわかる。
 引用した文にもどる。ブッダは「人の行為の善悪やその人がこうむる苦楽はもっぱらその人の心のあり方次第だ」という。だがこのブッダの言葉を近代人の言語感覚で解してはいけない。それではブッダの言葉を曲解することになる。われわれにはこれを古代人の言葉としてそのまま聴き取ることが求められている。実際これは容易なことではない。なぜだろうか。
 日本でいま行われている仏教学研究は、聖書学の水準に比較して遅れているのではないか。筆者は仏教学の門外漢にすぎないが、多少その種の研究に触れてみた感想である。仏説は古代思想に属するのであって、現代人の思想枠組み(フーコーなら「エピステメー」と言うだろう)を適用するのは無理なのだ。しかし、歴史感覚を欠いた仏教学者の文章を読むことがしばしばある。
 仏教学はさておき、経典をひもといたことがある人ならそこにおびただしい神話的表象があるのに気づくはずだ。仏説から神話を取り除けば仏説そのものが消えてしまうと言っても過言ではない。例えば、輪廻の教えによれば、衆生(生きとし生けるもの、とくに人間)は、おのれの善悪の業によって、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六つの世界(六道)に赴くという。この教えが本来の仏教には属さないという議論がある。だが「本来の仏教」とは仏教学者のさかしら(近代的思惟)の所産であって、幻影に過ぎない。
 ほかの例をあげておく。『倶舎論』で記述された仏教の宇宙観によれば、宇宙開闢のそのとき虚空に一陣の風が吹き渡り、風から火、火から水、水から地、地から須弥山と四つの州が形成されたという。須弥山世界が出来上がっていく――神話学や文化人類学の教えるところでは、この種の宇宙開闢論(cosmogony/cosmology)をもつ多くの文化がある。(聖書学が隣接する種々の学問と交流しているのに、仏教学が文献学的方法に固執するのはなぜか、門外漢には不審なことである。)、
 世界の脱魔術化の一面としての〈主観−客観の二分法〉がわれわれの認識空間を覆いつくしたのはほんの数百年前の出来事であり、古代から以降の歴史的世界では「主観的世界」ないし心意の世界と「客観的世界」が浸透しあっていた。(もちろん「浸透」とは比喩であり、真の問題はこの「浸透」を形而上学的表現にもたらすことにある。)例えば主観に醸された楽しい感情はそのまま世界の属性と了解されていたのであって、双方の世界をつなぐ「感情移入」といった迂遠な操作の余地はなかった。
 この「そのまま」のロジックを了解するためには、近代的な知のあり方を踏み越えてゆかなくてはならない。20世紀中頃以降にそうした試みが各方面から盛んにおこなわれるようになった(ユクスキュルの環世界論、ハイデガーの実存哲学、メルロ⁼ポンティの身体性の現象学ギブソン生態学的心理学、オートポイエーシス論、プラグマティズム哲学などである)。なにやら大仰な言い方になったが、言いたいのは、そんなに難しいことではない。ひとつの例解を用いて説明しよう。
 知覚心理学の実験で「視覚的断崖」(visual cliff)という仕掛けが使われることがある。床がある場所で終端に達していて、そこが断崖をなしているように見える。しかし実は硬化ガラスがそこより前方の空間にもさし渡されているので、たとえ人がその先に足を踏み出しても落ちることはない。つまり「視覚的断崖」は単なる見かけ上の断崖でありニセモノの断崖(=非断崖)なのだ。さて、幼児がこの床を這い這いして「断崖」の際まで進んできたとする。幼児は眼で〈崖〉の情報あるいはアフォーダンスをキャッチし・危険をおぼえて戦慄し・前進するのをやめるだろう。――このように、ことがらを記述するには、全体としての事態に三つの分節をもちこまざるを得ない。言い換えると、ひとつの出来事を、知覚・感情・行動にばらしてしまうのだ。(画像を参照。)
 まず〈感情〉(具体的には、幼児を襲った恐怖感)の契機に注目したい。幼児が怖がっているのだが、それは危険な〈崖〉が怖いからだ。とするなら、怖いものとして出現しているのはこの崖だと言うことができる。(同様に、ユクスキュルが、子供が暗い森の中で樫の樹の幹に恐ろしい悪魔の顔を見てしまうという例をあげている。)この場所に立ち上がるこの恐怖感には、怖がる幼児と怖い崖との二つが含まれてはいないだろうか。感情価をおびた全体としての幼児-崖のペアの現出とは、ひとつの知覚の成立そのものである。この限りで、感情はそのまま認知価を担っている。感情と知性の絶対的二分法は克服されなくてはならない。
 身体として具現された主体が環境の要素としての対象を認知する――この事態は、メルロ=ポンティが繰り返し述べたように、経験主義と合理主義の対立を離れて独自に理解しなくてはならないが、この独自な道の先をたどる試みは別の機会に行うとして、話を本題に戻すためにわれわれの論点を強調しておこう。すなわち、古代思想としての仏説にアプローチするためには、「合理化」や「脱魔術化」などの概念に依拠する合理化理論(M.ウェーバーの系譜)ではなく、上記の諸学派――少し乱暴だが、これらの学派に共通する特徴を「生態記号学的」と呼ぶことにする――から学ぶべき点が多いということである。(反対から言うと、「脱魔術化」などは擬似概念にすぎない。)

 仏説における〈自己〉をいましばらく追いかける。とはいえ、先行研究を踏まえた「研究」を企てるつもりはないしその力量もない。それに仏教学において自己という主題に関するモノグラフがあるかどうかも知らない。(仏教概論や解説書にはきまって、〈アートマン〉=実体としての自己を仏教は全面的に否定したという記述がある。だがこれだけでは、何も言われていないにひとしい。) 
 先に引用した『法句経』のブッダの言葉は、善悪・苦楽などは心の持ちようによるものだ、という思想を語っているように見える。だがこれが誤解であることをすでにわれわれは跡づけた。古代思想/生態記号学的観点によれば、心とものの単純な二分法は成立しないからである。心の持ち方次第で人の感受する苦しさや楽しさが左右されるなどという平凡な(そして事実に反する)教えをブッダが説いたとは思えない。仮に説いたとしても、そのどこが有難い教えなのだろうか。
 三世紀ころに成立した『華厳経夜摩天宮品のある頌にはこうある(漢訳に従う)。

 心如工畫師 畫種々五陰 一切世界中 無法而不造
 
 大意をとれば、あたかも画家がさまざまな絵画を描くように、心が世界中のあらゆるものを制作する、というのである。この頌を、一般には、唯識瑜伽行派唯識の見解――すなわちあらゆる存在は単に識すなわち心にすぎないとする見解を打ち出す以前に、それを先取りした典拠(これを「教証」という)と解されている。そして「心がすべてである」という主張であることを理由に、唯識に「唯心論」のレッテルを貼ることが行われている。
 しかし果たしてこの解釈は正しいだろうか。 (つづく)

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ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)