「不変項」の相対性  ――グッドマンのギブソン批判から

namdoog2009-11-08

 生態学的心理学の創始者ギブソン(J.J.Gibson)を知る人がしだいに増えつつあるようだ。現象学への関心から哲学研究に着手した経歴を持つ者の目から見て、ギブソン心理学と現象学的知覚論および運動論の親和性は一見して明らかである。

 そればかりではない。哲学史への縦断的アプローチからもたらさえるひとつの帰結も、ギブソン研究の重要性を示唆している。すなわち(ごく大まかな見取り図に過ぎないが)古代から近代に至る形而上学の鍵概念が<形相>ないし<イデア>といったいわば客観的存在者にあったのに対して、「偉大な世紀」にその内在化という出来事が生じ、ここに主観的な<観念>なる存在者が誕生した。

 ところが、20世紀を通じて哲学における実質的言説から形式的言説への転換が徹底化され、ある種の言語中心主義が哲学の常識となった(言語哲学の成立はその果実である)。このことの悪しき面についてはいま措くとして、いっそう重要なのは形而上学の基礎概念としての<記号>あるいは<表象>が発見されたこと、いや発明されたことだ。この動向を推進した代表者が周知のようにソシュールとパースにほかならない。ちなみに、<記号>が主観-客観の存在論的枠組みを離れた独自な存在者、いわば<メタ存在者>である点に十分留意しなくてはならない。

 以上の歴史的背景を背にしながら、この場を利用してギブソンにかかわるいくつかの資料を紹介することにしたい。今回の資料に加えてさらに今後別のドキュメントを披露することもありうる。ところが目下、筆者の資料整理の問題のせいで、これらの作業が必ずしも資料の発表された年代順(降順)には対応していない。この点をあらかじめお断りしておく。

 さて今回の資料は、グッドマン(N.Goodman)がギブソンの心理学へ寄せたコメントである(Leonardo, vol.12, 1979, p.175)。グッドマンの見解に関する筆者のコメントは引用の後に付け加えたい。

 絵画の知覚に関する適切な理論を長年にわたり探究してきたジェームズ・J・ギブソンは、ごく基礎的な信念さえも変革するための比類ない能力を示した。結果として新しい証拠と洞察が導かれたのである。彼はかつて光線の束の厳密なマッチングに依拠していたが、いま彼は、そうしたマッチングがせいぜい制約された視野を伴う観察の固定された視点から単眼で見る視覚に対してだけ、すなわち「覗き穴」が可能にする視覚に対してだけ生じることを認めている(The Ecological Approach to the Visual Perception of Pictures [Leonard 11, 227(1978)]言いかえれば、わたしが『藝術の言語』で書いたように[1968; 2nd ed.(Indianapolis; Hackett, 1976]:「画像は覗き穴を通じて、正面から、一定の角度と距離において、また単一の動かない眼によって、眺められるに違いない…。そのような例外的条件下で提供される光線のマッチングを忠実さの基準と解するために、どんな根拠がありうるのだろうか。」
 だがわたしは最新のギブソンの見解にはいくつか問題点があると思う。いまや彼の分析の基礎的要素となった「不変項」は――彼の曰く――「名称もなく形態もないものである」。彼は、ひとが知覚するものは事物そのもの(things-in-themselves)だと述べているのではないだろうか。だがそう言うことは、世界の種々の正しいヴァージョンによる寄与分をすべて除去した場合その跡に残る中立的世界を捏造することになる。その種の世界、そうした事物そのものは、わたしが最近刊行した『世界制作の方法』[Hackett, 1978;邦訳、ちくま学芸文庫、2008]で詳しく論じているように、つまるところあらゆる特徴を持たないものになってしまう。そうした世界は、実際、名称も形態もなく、意味がないのだ。
 ギブソンは自分の著作の中で、不注意にも、わたしの著作のひとつの側面に対する誤解を推し進めている。彼はこう書いている、「グッドマンは『藝術の言語』において、描写(depiction)は基礎的にいえば記述(description)であり、われわれが言語を習得するように、画像を読むことを習得するのだと想定している。また彼は、線遠近法を解釈するのにわれわれが習熟するやり方次第で、それをつごうよく逆転できると想定もしている」と。確かにわたしは、ひとは画像をテクストのように読まねばならないと論じた。言いたい点は、ひとは適切な記号系を習得し適用することを学ばなくてはならない、そして画像の場合、その記号系はおおはばな変化を容れるので、[通常の]遠近法が逆転することさえある、ということだ。だが描写が基礎的には記述だとはけっして言っていない。反対に、わたしは多くの頁を費やして、使用される記号系の様々な特徴によって、記述と描写の間の区別をはっきりさせようとしている。[試訳]

 筆者はここでグッドマンがギブソン心理学の基礎概念である「不変項」に根本的疑念をつきつけていることに注目せざるを得ない。そしてグッドマンの記号主義を真面目に受け取るなら、これは当然なされるべきギブソン批判だと思う。

 だからといって筆者は、グッドマンとともに、「不変項」という概念が全面的に妥当性を持たないときめつけるつもりはない。ここが肝心な眼目なのだ。グッドマンの矛先はギブソンとその学派が自ら称揚する「実在論」にそのまま突きつけられている点を看過してはならない。

 すなわち、ギブソン学派のいう「実在論」はどこまでも中間的な形而上学的身分あるいは中間的審級しか持たないのである。逆に言えば、彼らの実在論には絶対性がないのであり、最終審級には属さない。なぜなら、ひとが現に具えるような身体性と環境との相互性から現出する「不変項」は、それもまた、ひとつの構成された記号系に他ならないからである。
 このことをギブソン派は理解しない。彼らの(自然や物体に関する)知覚の分析が功を奏しているのに反して、言語や画像の知覚の分析が混乱に陥っているのは、そのためである。
   

ⒸSugeno_Tateki