の夢想とグッドマン・チョムスキー論争

namdoog2006-10-01

 トマセロ(Michael Tomasello)が、「どんな証拠ならUG仮設を論駁できるのだろう」(What kind of evidence could refute the UG hypotesis?)という短い論文を書いている。これはStudies in Language 28 (2004)に掲載されたもので、本来、同誌に寄せられたヴンダーリッヒ(Wunderlich)の論文への注釈として書かれた。ただその内容を読むとヴンダーリッヒ論文の議論を正面から取り上げたというより、UG仮設を支持する他の研究者の主張をまとめて論評した体裁になっている。
 事実この文章の末尾で、著者は自分の意見は単にヴンダーリッヒだけに向けられたのではなく、UG仮設のすべての主張者に対するものだと明言している。以下で、トマセロがUG仮設のどこに不備があると考えるかを見るために、彼の議論を筆者なりに整理してみたいとおもう。(上述の理由からヴンダーリッヒの論文は未見である。)
 まずトマセロの文章を摘要してみたい。

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 科学は一連の「推測と反駁」のプロセスからなりたっている。ポッパーの科学論が示しているように、最も有力な推測(conjectures)とは、観察によって容易に反駁(refute)がなされるよう明確に表現されている仮設である。こう考えると、UG(普遍文法)は極端に力が弱い。何故かというと、1)UGのなかみが何であるかについての精確な説明がほとんどないに等しく、また、2)精緻な推測が提示されたとして、それを検証するにはどうしたらいいかについて、提案が余りにも少ないからである。
 ふつう多くの研究者は、どういう意図でそうするかをはっきり言わずに、議論の際にUGを引き合いに出す。問題は、その際に各家がUGでどういうものを意味しているか、きわめてまちまちであるということだ。〔トマセロはここで7つの事例を列挙しているが割愛する。〕
 UGについてこんなに内容がまちまちであるのは、UGという同じものがあることを疑わせるに十分である。問題なのは、研究者の間のこうした不一致を調整し是正するための議論がなされていない、という点だ。例えば、についてそれがどういう意味での生得性なのか何の議論もない。
 生成言語学者の普通のやり方は、UGがあることを既定の事実とするか、それを確証する証拠を提示するか、どちらかである。証拠とされるのは、主として1) X-bar syntax, movement rules、等によってすべての言語を記述しうる可能性、2)刺激の欠乏といったある種の「論理的」議論〔注:チョムスキーは、子供が言語を獲得する際に行なう個別的な言語使用からの刺激では抽象的な文法を構成するにはまったく不足している、と論じる。〕、3)自前の言語を創造する聾唖の子供、文法にかかわる遺伝子に欠損がある(と想定される)人々、言語的サヴァン〔特異な言語能力を持つ知的障害者〕、失語症者における選択的な言語障害、などである。
 しかし、1)どんな言語でも(UGでなくとも)何か既定の記述システムに押し込むことは可能であるし(その昔、あらゆるヨーロッパ語をラテン語文法で記述したことがあった)、2)論理的議論は、前提が妥当な場合に限り妥当であるのだが、「刺激の欠乏」という前提は誤りである、3)UGの生得性のために持ち出されるあらゆる経験的現象は、トマセロが明らかにしたように、(文法よりさらに)一般的な認知とコミュニケーションの技能のための<生物学的適応>という概念と整合的である。
 しかし、こうしたやり方――仮設を確証しようとすること――はポッパーが強調したように、不毛である。むしろ反証可能性にそれが晒されるかどうかが問題なのだ。それでは、UG架設を反証する証拠とは何であろうか。すぐに分かることだが、基本的な文法カテゴリーが各言語で重大な差異があれば、UG仮設は反証されると考えられる。(各言語における文法カテゴリーの変異を説明する媒介変数のセットといったものを提案した研究はない。)しかしながら、明らかにそうした変異はない。一層重大なのは、「媒介変数で表現できない」基本的言語現象があらゆる言語に普遍的にないのなら、それはUGの部分をなさないだろうという点である。(例えば、movement rule は多くの言語にはない。その他の現象もUGの反証にはなりえない。)
 最後の論点であるが、UG仮設は言語獲得に関して具合が悪いのではないか。言語以外の認知領域に関して、子供が運用能力(competence)を獲得するのに類似の仮設は不要である。例えば、音楽や数学は、言語同様、人間に固有であり人間集団に普遍的に認められるが、それぞれに変異がある。しかし誰も二重のUM(つまりUniversal Music , Universal Mathematics)を提案してはいない。そして通文化的な変異(例:ある文化では、+/−という変項を使用するが、他の文化ではそうしない)を説明するために、それらの能力の媒介変数を提案しようとするものする者はいない。音楽や数学の能力には確かに生物学的根拠がある、だがUMという仮設には生物学的な根拠がない、と心理学者は考える。
 このようにして、UG仮設を反駁するための証拠は何か(そんなものはないのではないか)と、私は問いたいのである。(それに対する明確な解答がない限り、UG仮設は無内容である。

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 前回にこの日記で、グッドマンによるチョムスキー批判をとりあげた。その際、直接、チョムスキーのテクストに言及することなく、いわば一方的にグッドマンの見地だけに耳を傾けた格好になった。(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060925 を参照)そこで今回、トマセロのゆきとどいたUG(普遍文法)批判と協同するかたちで、先の論争のなかみを、今度はチョムスキーの言い分にも耳を傾けながら、再考してみたい。
 参照した文献は、チョムスキー『言語と精神』(川本茂雄訳)、河出書房新社、1980、である。訳語にはわれわれの判断で変更したものがある。グッドマン批判の議論は、同書のpp.129-133とpp.263-273あたりに二度にわたって繰り返されている。
 しかしわれわれの見るところでは、奇妙なことに、二つ目の箇所でチョムスキーは複数の論点を展示しているが、本質的論点が何かをわれわれは判然と把握することができなかった。明らかに読み取れるのは――後でも述べるが――「第一言語の習得は、第二次の記号系の習得である」というグッドマンのテーゼへのチョムスキーの論難である。これは二箇所で同じように繰り返されるが、批判のなかみに違いはない。それゆえ、最初の箇所における批判だけを取り上げれば十分であろう。

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 チョムスキーは自分が提唱する普遍文法について湧き起こった論争にふれて、こう述べている。
「二人の卓越したアメリカの哲学者、ネルソン・グッドマンとヒラリー・パトナムが、この論議に貢献した。両人ともに、わたくしの意見では、誤ってはいるが、その露呈する誤謬のゆえに教訓的なのである」と。ここでは当面、パトナムの議論には触れずに、筆者の関心事である、チョムスキーによるグッドマン批判だけをとりあげることにしたい。
 グッドマンが、生得観念を批判した哲学者として歴史上に名高いロックの議論を誤って解釈しているという、チョムスキーの論点はいま脇におこう。そしてただちに、グッドマンが「実質的問題をも誤って解釈している」という二つ目の批判点を吟味することにしたい。
 まずチョムスキーはグッドマンの議論の運びを次のように要約する。――グッドマンは第一言語の学習が真の問題を提起することはない、なぜならば、幼児は環境とのふつうのやりとりのうちで記号系の萌芽をすでに獲得しているから、と論ずる。それゆえ、基礎的な第一歩はすでに踏み出されており、細部はすでに存在している枠組みのうちで練り上げることができる、という点で、第一言語の学習は第二言語の学習と事情が異ならない。
 しかしこの議論は(と、チョムスキーは反論する)、もしも文法の特定の性質がすでに獲得された<言語以前の>記号系に何らかのかたちで属していることが証明された場合にかぎり、少しは力を持つかもしれない。だがこれは事実に反しているので、グッドマンの議論は意味がない――こう、チョムスキーは言うのである。
 この問題についてグッドマンは時計の制作を例にあげて、記号系の生成に関するチョムスキーの基本的誤解を明らかにしている。われわれの判断では、チョムスキーにはまったく分がない。(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060925を参照のこと)(後の箇所でも同じ批判が多少装いを変えて蒸し返されている。)
 チョムスキーが持ち出す次の論点に目を転じよう。グッドマンによると、第二言語の学習の問題が、第一言語の学習の問題と異なる側面があるとすれば、それは「ひとたび一つの言語が使用可能になると」その言語が「説明や教示をするために使用できる」からである。ところが、他方でグッドマンは、第一次的な記号系を「身ぶりやあらゆる種類の感覚的・知覚的発現が記号として機能している」と見なす。ここに、チョムスキーはグッドマンの矛盾があるという。「明白に、これらの言語以前の記号系は、第一言語第二言語を教える際に使用されるやり方では、説明や教示を与えるために使用することができない」ではないか、と。
 第一次的な記号系が「言語」ではないのは明らかである。チョムスキーはどうやら「第一言語」と「第一次的記号系」とを同一視しているらしい。混乱はグッドマンではなく、チョムスキーの頭に中にある。なぜこの混乱が生じたかというと、言語以前の第一次的記号系が言語を準備したのであれば、後者に言語の本質的特長(とりわけ普遍文法の特性)がすでに具わるはずだ、とチョムスキーが根拠もなしに思い込んでいるからである。
 つまり、チョムスキーはグッドマンの論点に正面から向かい合うことを避けているのだ。グッドマンの主張――第一言語の習得は、第二次の記号系の習得である――には合理的な裏づけがある。人間は認知とコミュニケーションのために、旧い記号系を目的に応じて巧みに作り直しながら新たな記号系を産出するのである。この動きは、全体として、記号系の自己運動すなわち<再帰的動き>(recursive move)として概念化することができる。
 他方で、トマセロの文章が雄弁に語っているように、チョムスキー流の<普遍文法>という構想には多大な無理がともなっている。この両面を冷静に秤量したとき、われわれは、グッドマン的記号主義をチョムスキー的普遍主義よりすぐれた見地として受け入れざるを得ない。チョムスキーとグッドマンとの間に交わされた論争に対する、これがわれわれの裁決である。
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