ピンカー 対 トマセロ (4) 英語という災厄

namdoog2006-10-29

 ピンカーの指摘をまつまでもなく、どんな人間の文化にも言語がある反面、人間以外の動物の集団には、(人間言語に匹敵するような)言語が見当たらない。ただしこの普遍的な観察から、言語の基礎的構造が人間にとって生得的だという結論を導くのは――トマセロが言うように――論理の飛躍でしかないだろう。種にそなわる普遍性〔あらゆる人間が言語を有すること〕から、直接、この普遍性の根拠を種にそなわる遺伝子に求めることはできない(Bates, Thal & Marchmanの議論)。
 なくもがなのコメントを加えておく。遺伝子理論が確立される以前においても、「生得性」についての思弁はさまざまに展開されてきた。しかし「生得性」の実質が何に拠るのかは不明のままだった。しかし、個体に発現する形質が生得的であることの生物学的根拠が遺伝子ないしゲノムに他ならないことが立証された以後、「生得性」を遺伝子情報の話に翻訳することが可能となり、またそうしなくてはならない(科学的ではない)ことになった。
 あらゆる人間集団に言語が認められることは、世界中の人間がコミュニケーションに関する類似した問題状況に直面していること、そしてこうした問題を解決するために、類似した認知的かつ身体的資源を保有していること――単に、こうした見解と整合的であるにすぎない。
 Batesのよく知られたアナロジーを紹介しよう。あらゆる人間はたいてい手を使ってものを食べる、だからといって、手で食べるための遺伝子(an eating-with–the-hands gene)があるわけではないのだ。
 人間だけが言語を使用するためにそれを習得しなくてはならない。人間集団から隔絶して育ったために、言語を習得できなかった「アヴェロンの野生児」の例はたいへんに名高い。だからといって、この事実から、言語習得の能力を種にとって生得的なものと断定するわけにはゆかない。ある種にとって特有な行動で個体が習得する行動には多種多様なものがある。例えば、ひとり人間だけが料理をおこなうが、それが料理遺伝子(cooking gene)の結果だとは誰も考えないだろう。
 人間以外の動物は――類人猿でさえ――人間言語を十分に発達させてはいないし(この言い方が奇妙なことは筆者も認める。人間言語と言語とは違うのか。「言語」と言い得るほどに洗練された記号系は人間にしかない。それゆえ、事実上、言語とは人間言語以外ではない。これは経験的真理であり、アプリオリなそれではないだろう。「人間以外の動物」に西洋中世の人々が空想したように、<天使>を含めたとしたらどうだろう。その場合、天使も人間言語の持ち主になるはずだ。つまり人間言語は、知性の証なのである。)、集中的な訓練をもってしても人間言語を獲得できない。ピンカーにとって、この否定し難い事実は、人間と類人猿との根本的差異を意味している。たしかに差異はある。だが、「差異があること」から「この差異がどういう類のものかということ」を〔ピンカーがしたように〕ただちに導くことはできない。類人猿と人間のあいだに認められる多くの差異が、全体として、類人猿が言語獲得ではかばかしい成果をあげられないことを説明するだろう。(<唯一の決定的差異を追い詰める、割り出すことができる>という考え方は機械論的因果理論ではないだろうか。)
 人間に可能なあらゆる行動の能力と同じように、言語が人間のゲノムに根ざしていると言いたければ言ってもいい。とはいえ、種にそなわる普遍性ならびに種の特異性〔言語能力〕が、言語がゲノムをどういう仕方で基盤にしているのかをただちに語っているわけではない。当初から成人の言語がそなえる統語論的構造が生得的言語モジュールに含まれているのだろうか。それとも、子供は、比較的一般的な認知能力と文化学習能力のセットを身につけて誕生し、個体発生を通じて言語構造を作り出すのだろうか。〔言うまでもなく、トマセロは後者の立場にたつ。〕
言語普遍性(language universals)
 ピンカーの議論は、特定の言語構造が普遍的であるという想定におおはばに依拠している。問題は、この<言語普遍性>を論じることがたいへん難しいということだ。というのは、ことがらが、過度に専門的な言語的係争点にかかわるからである。(このように前置きして、トマセロは、この種の係争にここでは立ち入らないという。)
 基本的論点は次のことにある。生成文法は初め明らかに英語を記述するために案出された。しかしながら、英語に見出される生成文法的構造のある種のものは、生成文法論者に言わせるなら、他の言語にも見出されるという。ところが、理論的見地を異にする他の学派の研究者の目には同じ構造がみつからない。それというのも、構造が他のやり方で規定されているからである。逆にいって、他の理論では、生成文法が認知しない言語普遍性が同定されるという事態がもちあがる。
 すなわち、言語学においては、理論から中立な(theory-neutral)構造などはないのだ。したがって、言語普遍性は、理論に依存した現象なのである。
 現代の哲学史をいくらかでも知っている読者は、ここで例えば<データの理論負荷性>という概念を想いおこすかもしれない。すなわち、ある事態として記述されたものがデータ(所与)として受容されるかどうかは、じつはまさにその事態をそのようなものとして記述することを許す理論のおかげである。この限りで、データはつねに理論を背負ってしか(theory-laden)成り立たない。ところで、ここで<データ>と呼ばれたものはいくらでも一般化できる。すなわち、何かある名辞(a term)の意義は特定の理論の枠内でしか解釈できないのである。例えば、「内向的」という形容詞は現在では日常語になっている。しかし元来はその意義はユングの性格類型学の枠内でしか規定できないテクニカルな用語だったのである。
 にもかかわらず、ピンカーは理論負荷性を離れた絶対的な意味での言語普遍性を主張する。その議論にはいくつか難点がある。

1) ピンカーは、句構造統語論のX-barヴァージョンが人間言語において普遍的であるという。しかし、X-bar統語論に適合しない言語も存在しているのである。(一例として、オーストラリアの一言語であるDyirbalがある。)
2) ピンカーは、主語と目的語との文法的関係が普遍的だという。しかし、例えばTagalog(フィリピンの一言語)にはそうした関係が認められない。ついでに言うと、普遍性を主張する命題は、論理学的にいって、全称命題であるから、それを確証することはきわめて難しいが、反証することは簡単なことだ。つまり、一つだけでも、その命題を裏切る事例を見出せばよいのである。主語/目的語など正統的カテゴリーの代わりに、動作主(agent)/トピック(topic)/行為者(actor)などのカテゴリーを導入した言語理論が、この種の言語にはよく適合する。
3)ピンカーは、長い範囲をうごく「移動」の現象が普遍的だと見なしている。ところが、世界中のほとんどの言語にとって、「移動」という観念は不適切なものである。(例えば北京官話におけるように、話者が疑問文を作るときの方法は、単に、疑問視された要素を疑問語(a question word)に代置するだけだからである。)
4)多くの言語に、時制・相・法・格・否定などを表わすための文法的形態素がそなわっている。これはピンカーの指摘するとおりである。ただし、言語によって、これらのうちのどれを形態素として文法化(grammaticalize)しているか、どのようにそうするのか、については言語ごとに事情が異なっている。(北京官話ないし標準中国語にこの種の要素がきわめて少ないことは周知のことだ。)
5)普遍性の候補としてもっとも有力なのは――ピンカーによると――名詞/動詞への語彙の類別である。しかし、あらゆる言語において、ほんとうにこれが事実であるかは、必ずしも明らかではない(Maratsos)。さらに、Braineは、ピンカーがもちだす語彙の区別より基本的な認知的区別として、述語とアーギュメント(argument)を指摘している。また、Langackerは、名詞/動詞の区分が、対象/過程という認知的カテゴリーを基礎としてそこから派生すると見なしている。
 このように見てくると、「言語普遍性」の主張はきわめて不十分なものにすぎない。トマセロは特に強調していないが、なぜピンカーの議論が不首尾に終わったかというと、その真の原因はピンカーがとる理論的構えにある。彼は、生成文法を唯一妥当な言語理論ときめてかかって、これを基準にサンプルから<言語普遍性>を抽出する、という手続きをとっている。しかしこれが、基本的に誤りであるのは上述したとおりである。
 トマセロは過ちの原因をむしろピンカーが英語をモデルに言語理論を構想した点に求めている。英語はある意味で特殊な言語である。統語論的関係を表現するために、形態論的要素には重きをおかず、語順に大きな比重を置くような言語だからである。その他の印欧語も英語とこの点では多少とも似た側面をもつ(ラテン語などは語順がかなり自由であるが)。もし印欧語に属するのとは異なる言語を出発点として言語理論を構想したならば、まったく別種の言語普遍性が現れるだろう。
 多数の言語学者の見解では、言語的普遍性について確実なことがある程度言いうるのは、次の事実に基づくかぎりにおいてである。すなわち、人間のあらゆる集団は、世界を類似したやり方で認知し、類似したコミュニケーションの目的をたずさえ、言語のための身体性(感覚)にもとづく共通した媒体を所有しているのである。
 ここで読者は、トマセロによるピンカーならびに生成文法批判が、英語帝国主義批判でもあることに気づかざるを得ない。しかも問題は単に言語学には限られないのではないか。筆者の従っている哲学思想の分野にも、同じ批判的視点は必要ではないのか。じつは必要だと筆者は考え続けてきたのだ。 (つづく)