ピンカー 対 トマセロ (7) ピジン/クレオール・手話

namdoog2006-11-17

 引きつづき、ピンカーの生得説に対するトマセロの異議申し立てを見ることにしたい。
ピジンクレオール
 今回問題とされるのは、第一に、ピジンクレオール化という現象である。
 言語を学習するために著しく貧弱な環境に身をおく子供たちは、それではどのようにして言語を獲得するのだろうか。ピンカーは、クレオール言語が固有な構造をもって存在しているという事実から言語の生得説を導き出す。彼に言わせると、クレオール化とは「人間が、ほとんどゼロから複雑な言語を創造してゆく過程」にほかならない(『言語を生みだす本能(上)』、p.40.)。これはどのような事態なのだろうか。
 互いに異なる言語を話す人々が一緒になって特定の活動に従事しなくてはならないような文化的状況がままあるものだ。そうした活動のために、彼らは共通のコミュニケーション手段を所有しなくてはならない。こうした状況下で、しばしばピジン言語が生まれる。これは、自然言語統語論的特性の多くをいわば省略した簡素な言語である。
 さて、ピジン言語の環境に生まれてきた子供たちは、それを基礎にしてやがてクレオール言語を話すようになる。後者は前者にはない統語論的特性を豊かにそなえているのだ。
〔注を加えておく。クレオールとはピジン言語の発展した形態である。ジャマイカ、ハイチなどに見られるように、現地人たちはピジンをまさに自分達の母語として話している。すなわちクレオールである。creoleを動詞化してcreolizeとすれば「クレオール化する」という意味になる。当然この過程の反対の現象もありうるのであって、クレオールにふつうの自然言語が圧力を加えて、結果として脱クレオール化(decreolization)が生じることもある。〕
 どのようにしてピジン言語のクレオール化が起こるのか。そこで持ち出される説明は、子供たちは生得的な言語化のプログラムに基づいて、貧弱な「入力」を統語論的構造で補充する、というものである。(この考えは元来、Bickertonによる。)
 しかしBickertonの注釈者たちは、問題の子供たちが置かれた言語学習の状況に関して多くのことが知られていない点を問題にした。当然ながら、クレオール化はかなり昔に生じた出来事だ(Bickertonのハワイの事例では70〜100年以前)。従って、調査された子供たちがその昔のピジン言語についてよく知るわけではない。ピジンの大人の話し手は、ドミナントな(優勢な)言語を話す他の現地人と話すときには、定義上、自分もドミナントな言語を使用する。子供たちがこのドミナントな言語をどの程度耳にしているかについてのデータはない。
 Bickertonが報告しているクレオールに含まれた多くの言語的要素は、ピジンを生み出すもとにあったドミナントな言語の要素にすぎないことを、Maratsosが指摘している。また他の研究者によると、クレオールピジンについての人口統計学分析が示すのは、子供たちはBickertonが想像するよりずっとしばしば自然言語の刺激に晒されている事実だという。
 以上の観察からトマセロは次の結論を引き出す。要するに、貧弱な「入力」を子供たちの生得的な要素が補完するという考えについては、この「入力」が正確に分からないと何とも言えないのだ、と。
手話
 次にトマセロが俎上に載せる問題は<手話>である。トマセロによれば、<刺激の貧しさ>という論点にかかわりがあるのは、ピンカーはなぜか言及していないが、ある子供たちが発明した「家庭の手話」(home-sign)である。彼らの親は、世の中で行なわれている慣習的な手話を彼らのデフの子供たちに教えることができないと思っていたので、親子間で独特な手話のやり方を開発したのだった。
 ピジン/クレオールの事例に似て、この「家庭の手話」においても、子供たちは親の手話にはない統語論的特性を――恐らくは、生得的な統語論モジュールから引き出して――付け加えたのだと解釈しうる。
 確かに子供たちが示した創造性には目覚しいものがある。しかしトマセロに言わせるなら、だからといって、この事例から、生得的な統語論モジュールについて確たることは分からない。
 Batesの指摘によると、この特別あつらえの手話の統語論的特性を形式的に記述するときに、解釈上の問題が多数生じてしまうという。例えば、Susan/WAVE/Susan/Closeという一連の身振りを複合的な再帰文(complex recursive sentence)の証拠として解釈するかわりに、この身振りを(再帰的に関係してはいない)一対の二つの記号とみなすこともできる。
〔コメントを挟んでおきたい。ここでいう「再帰性」(recursion)は生成文法にとって鍵となる観念である。(筆者のいうそれとは――無関係とまでは言わないが――同音異義の関係にある用語である点に注意して欲しい。)文を生成するために繰り返し適用が可能である規則は、生成文法では「再帰的」だと言われる。例えば、英語の名詞の前にいくらでも形容詞を置いてもいい。すなわち、形容詞で名詞を修飾するという規則は再帰的であり、繰り返しには理論的には限界がない。この観念がなぜ重要かというと、生成文法論者が主張する言語の創造性を説明する、主要な形式的手段が、まさにこの再帰的規則だからである。従って、手話に関する上記の解釈の違いは本質的な事柄に関連しているのだ。〕
 慣習的な手話学習に関するPetittoの研究の重要さについて、トマセロは読者の注意を促している。(彼自身が、指さしの精緻な研究をおこなっている点を申し添えておこう。例えば、Behne, T., Carpenter, M., & Tomasello, M. (2005). One-year-olds comprehend the communicative intentions behind gestures in a hiding game. Developmental Science, 8, 492 - 499)デフの個人が表出する「自然な」身振りと彼らが作り出す真に言語的な記号(アメリカ手話;ASL)とのあいだには重要な違いがある。
 例えば、健常児と同じように、デフの児童も「自然な」指さしを習得する。しかし同時に、彼らは、言語システムにおける記号として、ASLによって指さすことを学ぶのである。初めから彼らはこの二つの指さしのタイプを区別している。(だからこそ、ASLによって、<私>と<君>に関してそれぞれを指さすことを間違えることが起こる。)
 ピンカーは、この事例からASLにおける純粋に言語的でおそらく生得的な要素が存在することの証拠を見出すのだが、「自然な」指さしには頓着していない。
 トマセロは次の論点を強調する。――指さし行動の指示的形態とASLにおける指示記号(これも指でなされる身振りには違いない)は区別しなくてはならない、と。この両方の身振りをデフの子供たちは学習するのである。この学習過程の違いが記号の使用と学習の上での数多くの違いに通じている。この微妙な違いを無視して、単にここに生得的な言語的ないし統語論的モジュールを見出すのは誤りである。
要約
 ピジン/クレオール問題ならびに手話問題から、生得説に関してトマセロは次にように結論する。
 子供たちはきわめて多様な状況のもとで言語的運用能力に基づく基本的スキルを獲得する。ここに認められるのは、とてもたくましくて(robust)一定の目的に方向づけられた<言語獲得>という発達現象である。しかしこのたくましさは、発達のメカニズムについて何も教えてくれない。
 歩行(walking)は言語よりずっと「たくましくて方向づけられた」発達現象であろうが、最近の研究によれば、特定の遺伝プログラムによって制御されているわけではない。子供は多くの資源――それ自身の発達史をもち、ある行動目標に役立つ――に整理をつけながら、骨格や筋肉の制約のもとで<歩行>という行動を発達させてゆくのである。
 さて以上でひととおり、トマセロが、ピンカーに代表される文法の生得説へぶつけた疑問や批判を見たことになる。なにぶん論点が多岐にわたっているうえに、生成文法の概念への理解が前提されているので、彼の言い分を評価するについて、ややおぼつかない点も残る。しかし完全さを律儀に求めることは、この種の問題ではそもそも無理だろう。
 とはいえ、トマセロの骨太の論点は終始一貫しており、これには何の紛れも無い。生得説の明確な否定、これが彼の言いたい点である。生得性に関する限り、生成文法は誤りであるという。 筆者の感触では、この言い分には相当の見込みがあるように思える。そう考えるゆえんは、生成文法なる形式的体系が、生物学的実質としてヒトの神経系に生得的に組み込まれているという想念が、あまりに奇怪だからだ。この種の直観をバカにしてはいけない。トマセロはさまざまな角度でこの直観を切り出し理論化しているのだとも言いうるだろう。
 それでは、ヒトにおける言語の成立を――生得説に代わって――どのように解明したらいいのか。次回はこの問題に関する積極的な議論の提示となるだろう。(つづく)