ピンカー 対 トマセロ (8) 言語観の更新

namdoog2006-11-24

 これからは、人間における言語の発生について、トマセロが考える学説を見ることにしよう。あらかじめ見通しを言えば、彼の考え方は、認知言語学ならびに機能言語学の見地をトマセロ自身の観察からおおはばに肯定したものとなっている。基本の問題は、言語の原イメージにあるのだ。
 さて、チョムスキー派は、言語理論を構築するにあたり言語についてある種のイメージを暗黙裡に形成している。あるいは、この言語イメージに厳しい反省的吟味を加えることなく、それを洗練して理論的構成物に仕立て上げている。
 こうした問題はチョムスキー派に限ったことではない。およそ何事かについて理論的検討を加えるとき、研究者が――自覚してか無自覚かは問わず――理論対象に関する先行的理解をあらかじめ形成していることがしばしば認められる。(フッサールが「事象そのものへ」のモットーのもとに現象学的還元を唱えたのも、解釈学派が<先理解>や<伝統>の重要性を強調したのも、同様の問題状況にかかわる話である。)
 トマセロは最初に、チョムスキー派の言語理論とは異なるべつの理論が複数あるという事実を指摘している。複数のべつの理論(alternative theories of language)がどうしてありうるのか。それはほかでもない、それらの理論が内包する<言語>の本性に関する理解がチョムスキーとは異なるからである。もっと平易に、言語の<原イメージ>が異なるからだと言ってもいいかもしれない。
 例えば、認知言語学(Langacker, Lakoff, Talmy, Croft)、機能言語学(Van Valin, Bates, Filmore, etc.)などが形成する言語の原イメージは、チョムスキー派のものとは異なっている。 チョムスキー派の言語イメージは、意識的に創出された形式言語(例えば、論理学のような形式的体系)のアナロジーのうえに成り立っているのだが、ここに名をあげた理論家たちは、カテゴリー、図式、イメージ、談話のパースペクティブなど、心理学的に有意味な構成物にもとづく言語イメージを形成している。
 チョムスキー派の理論的格率(行動の指針)は数学的エレガンスにあるが、後者の格率は心理学的リアリティ(psychological plausibility)なのである。
 つまり言語を新たに定義しなおすことから始めなくてはならない、とトマセロは宣言する。
〔これは、我が意を得た発言だと言わせて欲しい。この問題については、筆者は以前から何度も発言してきた。例えば、「「言語学はいかなる学問か」と問うことはどこまで正しいか」(http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/linguistics.pdf)あるいは、「言語はモノではない―あるいは、言語学が仮構する「言語」の非存在証明の試み」(http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/redefining_language.pdf)などを参照されたい。ハリスの統合主義はこの論点に果敢に踏み込んでいる。もう一つ予告しておこう。われわれの論文「言語音の機能的生成」(近刊)はまさに言語の再定義の問題を一つの主要課題として果たそうとする試みである。〕
 特に重要なのは、統語論と意味論の区別に関してである。というのは、生成文法では、自然言語を形式的体系と把握し、統語論と意味論を基本的に対立するものとして捉えるからである。
 しかし認知言語学や機能言語学では、統語論と意味論を二項対立的に峻別するやり方を全面的に誤りだと見なしている。あらゆる言語の構造は――最小の形態素からもっとも複雑な統語論的方略にいたるまで――意味を表すための記号的道具なのである。基本的対立は、統語論/意味論のそれではなくて、言語的記号/意味に横たわっている。
〔これこそ、ソシュールが明らかにした、記号構造の二重性(記号表現/記号内容)であると筆者は解釈している。〕
 認知言語学と機能言語学にとって、言語の創造性の源は、人間が言語を使用してカテゴリーを創出する性向にある。認知の働きはまさにカテゴリーの創出なのである。所与の言語において、これらのカテゴリーは一定のパターンをなすよう規則的に結合され、一定の典型的な文や談話のための図式を形成する(Van Valinのtemplates, Langackerの文のschemas, Fimoreの文法的constructionsといった概念を参照)。
 統語論が意味論と撞着しているために意味をなさない文としてチョムスキーがあげた次の例はあまりにも有名である。それは、’Colorless green ideas sleep furiously’(直訳すれば、「色のない緑の観念が猛烈に眠る」)というものだが、認知言語学の考え方に従えば、動詞sleepの意味論が一定の図式構造をともなっており、この図式において、動詞の前に位置するスロットには<眠る人>が入るべきなのであり、「色のない」や「緑の」という語は名詞を修飾するはずものであり…という構造全体のゆえに、この文は意味をなさないのである。同時に、ある発達段階を過ぎた話し手にとって、この文はある意味で「文法的」だと言いうることにもなる。
 言語の系統発生に関して、認知言語学/機能言語学は、言語普遍性を、人間の認知的および社会的普遍性ならびに言語が発達する様態に由来すると見なしている。あらゆる人間集団は、他者に伝えたい経験を有しており、そうするための慣習的記号を使用する能力を発達させている。
 このことが実現できるのは、第一に、あらゆる人間集団がこれらの記号をカテゴリー化したり組み合わせたりして図式的パターンを抽出し、これらのパターンを組織化できるからである。第二には、あらゆる人間集団がある種の社会的相互作用を営み他者の注意を惹くことができるからである。もちろん、こうした能力に身体的条件が要求されることは言うまでもない。
 トマセロはベイツなどに言及しつつ、以上の「制約」を基礎として、あらゆる人間集団は、経験をコミュニケートするために四つの言語的仕掛けを自在に使用しているという。すなわち、①個別的記号(語彙)、②記号標識(markers on symbols、つまり文法的形態学)、③記号順序のパターン(語順)、④談話のプロソディ変異(例:ストレス、イントネーション)、である。異なる言語では、これらの仕掛けを活用する異なるやり方を発達させているのがわかる。例えば英語は②の要素をほとんど失ってしまったが、その代わりに③を使用している。
 <言語普遍性>を認知言語学/機能言語学は否定するものではない。しかし、生成文法の絶対主義(何か個別的な特徴を言語普遍性に数えるという考え方)は覆されたのである。上記の4つの要素が言語の歴史に即して変異すること、この変異に規則性があることが<言語普遍性>の真の意味合いとなる。
 言語の個体発生に関していえば、認知言語学/機能言語学は、幼い子供たちの言語活動のうちに、大人並みの生成文法が隠されているといった受け取り方はしない。子供達は数年をかけ徐々にコミュニケーションの慣習(規則性)を獲得してゆくのだ。その際に彼らは、発達を遂げてゆくさまざまな認知的・社会関係的スキルを動員する。〔<社会関係的スキル>という言い方は曖昧だが、要するに、人間の社会関係を認知し理解する能力ないしその遂行方法のこと。例えば、幼児はごく初期から母親とその他の人間を識別しうるが、これも社会関係スキルの一つである。〕
 例えば、最初の語を学習するとき、子供たちは、概念形成の能力、大人の注意に追随する能力、そして適切な文脈で新たな語を再現する能力などを使用している(トマセロ自身の実験から)。トマセロは以後、語の獲得をスタート地点として、子供たちが次第に複雑な言語の構成をやり遂げてゆく様をひととおり記述しているが、ここでは割愛したい。
 要するにトマセロが強調したいのは、次の論点である。すなわち、言語以外の認知の領域が発達する場合と同じように、個人の発達を通じて、言語的スキルがモジュール化してゆくことを否定するわけではない、ということである。しかし、この発達上の事実(モジュール化の傾向)は、出来事の構造を理解することに関与する基礎的な認知過程や大人の意図の理解などに、言語の系統発生および個体発生のルーツがあることと矛盾しない。
 子供たちが言語獲得にしくじるケースには実にさまざまな場合――自閉症児が相当の割合で言語をまったく獲得できないという場合から、特定の言語障害をもつ比較的に小さな問題のケース、あるいは雑多な種類の談話の乱調を呈する子供の場合まで――がある。
 このことの含意をトマセロは次のように展開する。つまり、言語はさまざまなスキルからなるモザイク――Batesに言わせるなら、ふるい部分から作り出された新たな機能――なのである、と。そのなかには言語に特化されたスキル(例:話すこと)もあるだろうが、他の認知的・社会関係的な発達の領域で獲得されたスキルもあるに違いない。
〔再びコメントしておきたいのだが、この概念は筆者のいう記号系の<再帰的動き>によって解釈できるものである。〕
 これらのスキルの異種混合を子供は言語的コミュニケーションの目的で反復して使用する。それにつれて、これらのスキルはいっそうモジュール化した機能領域へ収斂してゆくのである。 (つづく)