ピンカー 対 トマセロ (3) 言語普遍性の捏造?

namdoog2006-10-19

 トマセロは次のように問いを立てる――厳密に言って、生成文法における生得的なものとは何なのか、と。ピンカーの考えでは、生得的なもののリストには4種類のものが含まれる。(もちろん、これらの特徴はあらゆる言語にそなわっており、生得的言語モジュールを構成するとされる。)すなわち、1)句構造規則、2)どの要素が文のどの位置へ移動するかを決定する、ロングレンジな依存関係(変形・移動規則)、3)時制・相・法〔可能性、必然性など話者の心的態度の表現〕・格・否定などに関して機能する要素(つまり、文法的形態素)、最後に、4)語彙カテゴリー(名詞、動詞など)、である。
 このリストで枚挙されたものは、①それらがすべて本質的に<統語論的>なものだということ、換言すれば、意味に依存していないし、個別的言語の特殊な文法的規約にも依存しない、という特徴がある。つけくわえるなら、リストを作成するときに、チョムスキー派は、<数学的優美>という基準を重んじているとは言えるだろう(とりわけ、移動規則を見よ)。
 ②もう一つの共通点は、これらの普遍的要素が特殊でテクニカルな(技術的な)言語学用語で記述されているために、それらを心理学の他の領域における認識と関連づけるのが難しいということだ。例えば、<名詞>や<動詞>という術語はたんに統語論的分布状態(ないし分類)によって定義されているに過ぎず、<対象>や<行動>の概念と理論的に関係するわけではない。
 素朴な言語感覚から判断すると、文の主語は談話(discourse)の話題であったり、注意の焦点であったりするのだが、生成文法においてはこの種の感覚は排除されている。(筆者がおもうに、じつは理論はこうした感覚を密輸入しているのだろう。そうでなくては、まともな<文法>が記述できるはずはない。言語理論に関するこの種の批判はつとにメルロ=ポンティがおこなっている。)
 チョムスキー=ピンカーの言語普遍性(language universals)の議論は――トマセロによると――あまり言語学者の賛同を得られてはいない。だからといって――ピンカーはそう決め付けるのだが――多くの言語学者が、言語を生物学的現象とはべつものと見なしているわけではない。問題は単に、言語を準備する生物学的基礎なるものが、生成文法が想定するものとは違うという点にある。言語普遍性に関して、チョムスキー派に異を唱える研究者がすべて一致しているわけではない。しかし、以下の諸点では意見の一致を見ているといっていいだろう。
 子供が言語を獲得するときに、同時に子供は多くの能力を身につけている、ということだ。それらの能力を列挙してみよう。それらのうちには、少なくとも、a)対象・行動・特性を知覚し概念化する能力、b)言語の習熟した者との相互行為をつうじて、a)であげたものやその他の存在者のための記号を獲得する能力、c)記号のカテゴリーを構成する能力、d)記号を結合して単一な発話を作る能力ならびに記号カテゴリーを使用して記号が発話の中で果たす役割を表わす能力、e)抽象的な記号図式やテンプレートを構成する能力、f)多種多様な言語音を識別し産出する能力、が含まれる。
 トマセロが言うには、自分たちとチョムスキー派との論争は、人間が言語を獲得するについて、生物学的基礎があるかないかという論点をめぐるものではない。子供ははたして、生成文法論者が大人の話者に認定する言語モジュールを生得的にそなえた状態で生まれてくるのか、これが問題なのだ。トマセロはそうした生得的言語モジュールはないという。ピンカーはあるという。そこで次に問題になるのは、生成文法の生得説を支持する経験的証拠があるのかないのか、あるとしてそれらは信頼できるのか、ということだ。
証拠は何なのか
 ピンカーが生得説のために持ち出す議論には、5つのタイプがある。1)言語とは、人間という生物種の普遍性であり、種に特有な特徴である、という議論。2)特定の生成文法の構造が普遍的である、という議論、3)特定の言語能力損傷、言語的サヴァン、大脳への局在性などを含んだ、言語のモジュール性の議論(modularity arguments)、 4)多数の言語獲得の現象が、伝統的な学習理論では説明できない、という議論、5)一定の特殊な環境における言語獲得は生得説でしか説明できない、という議論――これらである。
種的普遍性と種的特異性
 こうしてターゲットを見据えた上で、トマセロはそれぞれの議論に論駁を加えようとする。彼自身が明言しているように、一編の論文で委細を尽くした議論を展開することなど無理な話であろう。トマセロの文章に関して読者の目のつけどころは、彼の言うように、生成文法の生得説が決定的に誤りであることを証明できているかどうかではない。そうではなく、むしろ、上記の五点にわたる議論について、道理のある代案(reasonable alternative)があることを、トマセロが少なくとも相当の説得力をもって示すことができているかどうかである。
〔ここで余談をひとつ。最近、Geoffrey Sampson,The 'language instinct' debate, Rev.ed., Continuum, 2005,という本をパラパラとのぞき見る機会があった。いま書いている最中の問題を真正面から取り上げた本である。著者はどうやら若い世代の人で、チョムスキー派に反対の論陣を張っているイギリスの研究者である。それはいいのだが、文献リストにトマセロのトの字も出てこない。このことをどう解すべきか。単なる著者の怠慢なのか。偶然トマセロの業績を見過ごしたということなのか。筆者はそうは思わない。グッドマンがかつて辛辣に述べたように、言語学者の「病的近視」のせいだろう。自分の狭い範囲の業界(言語学会)の仕事にもっぱら目を注いで、隣接する広範な領域にはほとんど関心がないのではなかろうか。この印象は錯誤かもしれない。この本の内容をもっと精しく知ることができたときに、この印象を再検討してみたい。〕
 つづけてトマセロの議論を追ってゆこう。 (つづき)