ピンカー 対 トマセロ (2) の形而上学的前提

namdoog2006-10-13

生得的なものとは何か 
人間が言語を獲得するためには、誰が考えても、人間が言語を使用するにふさわしい生物学的基礎が生物としての人間にそなわっていたはずである。トマセロは、こうした基礎として、1)言語を可能にする認知およびコミュニケーション能力、2)発話を処理するための音声的かつ聴覚的装置、のふたつを例としてあげている。
 (哲学に従事する筆者の観点からは、この「生物学的基礎」は単純に決着すべき問題ではない。それはまさに<言語>のみならず一般に<記号機能>を営む生活体としての人間の存在構造そのものの問いにかかわるのである。しかしこれは、ここではまた別の話に属する。筆者の考えは、論文「言語音の機能的生成――あるいは、言葉が裂開するとき」(大阪大学人間科学研究科紀要、近刊)にやや詳しく述べた。)
 しかしトマセロによれば、普遍文法(UG)をこのような意味での生物学的基盤とみなすのは間違えである。というのは、UGは、生成文法という特定の言語理論による理論的構築物だからである。
 <生成文法>の構想は、発達心理学者がわきまえておくべき、少なくとも三つの著しい特徴を呈している。第一に、数理論理学のような形式言語自然言語のモデルと見なしていることだ。特筆に価するのは、統語論と意味論を厳格に区別する点である。形式主義的な取り扱いでは、抽象的記号をアルゴリズムに従って操作することだけが理論上の問題となる。
 こうした取り扱いにおいては、よく知られているように、記号の意味や解釈はいっさい斟酌されない。こうした思想をよく示すチョムスキーの言い方を紹介しておこう。彼によれば、生成文法の目的は、「ある言語の文法に適ったあらゆる文、そしてそうした文だけを形式的に記述すること」である。(言語理論に要請されるこの条件を、彼は「説明の適切さ」(explanatory adequacy)と称している。) 
 第二に指摘できるのは、次のような特徴である。生成文法の分析は、理論的にはあらゆる自然言語に対して施されるはずである。しかし実際は、生成文法の研究はほとんど英語だけに集中しているといっても過言ではない。(この点は、日本の読者にも頷けることだ。もちろん日本語への生成文法からのアプローチがない訳ではない。だが量的にも質的にも見劣りがするのは否めない。)
 トマセロのこの観察は、だいたいのところ正しいとおもう。これとの比較でいうと、認知言語学の研究は多言語にわたっているのが研究上の特色だといっていい。例えば、旧くはバーリンとケイによる<色彩語彙>の研究(Berlin and Kay, Basic Color Terms, University of California Press, 1969)があまりにも有名だが、認知意味論における<概念メタファー>の研究においても、この特色が遺憾なく発揮されている。(例えば、典型的なのは、<感情>のカテゴリーに関するWierzbickaの研究であろう。Emotions Across Languages and Cultures: Diversity and Universals, Cambridge University Press, 1999, を参照。)この事実は、UGを称揚する生成文法学派が陥っているアイロニカルな窮地を意味してはいないだろうか。
 そして実際、トマセロは、生成文法の研究対象が過度に英語に集中しすぎている制約が、チョムスキー派の言語観を大幅に歪める結果を招いたと言っている。
 彼らは、言語の構成要素がリニアな構造をなすことを強調するが、トマセロによれば、確かに英語ではそうかもしれないが、線形性に統語論的重要性が乏しい多くの言語が存在しているという。この指摘は、筆者にとって我が意を得たものだと言わなくてはならない。私は(すこし説明を省かざるをえないが)言語の線形性の原理(ソシュール)は部分的にしか真理ではないと考える。換言すれば、それは「原理」の名には値しない、特殊な言語的特徴にすぎないのだ。なぜこの指摘が言語観そのものにとって重大かというと、線形性の原理には、<言語が離散的構造をなす>とか<言語はデジタルな表現である>といった含意がともなうからであり、この種の含意は絶対的な真理を表すとは思えないからである。(言語をディジタルな記号系で擬似的に表現することまでを否定するつもりはない。)
 (この論点については、さしあたり、①http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060620、②http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060720 を参照。)
 トマセロはさらに語を継いで、言語の線形性という誤った一般化が、生成文法における<変形>(transformation)や<移動規則>(movement rule)という概念をもたらした、と言っている。これは生成文法の全否定に相当するきつい言い方である。
 その他にも、英語を言語の典型としたために、生成文法は文の<主語>(subject)という必ずしも言語にとって必然的ではないカテゴリーを理論の中に持ち込んだとも言う。さりげなく言われているものの、この指摘は、数千年にわたる西洋の言語観やひいては論理学観などに深刻な反省を迫る指摘であることを忘れてはならないだろう。文が主語と述語から構成されていること、命題もこれと相似な構造をなすという見地は、20世紀に至りそのままでは維持できなくなった。カントが論理学は古典ギリシア時代におけるアリストテレス以降、何ら進歩したことがなかったと述べたことはあまりにも有名だが、しかし実際には、パース、フレーゲラッセルその他多くの研究者によって、20世紀に至り論理学は一新されたのである。
 しかしながら――伝統的見地に対して基礎的手直しが施されたのは事実だが――基本的な発想はいまもって言語学や論理学の基礎をなしている。例えば、単一の主語に述語が接続するいわゆる主述文は、一座の述語(one-place predicate)が構成する文に他ならない。
 もちろん生成文法派の側もこうした批判に甘んじていたわけではない。彼らは理論に手直しをした。つまり、生得的な統語論的モジュールにはあらゆる言語にとって共通する<構築設計図>(Bauplan)が含まれていることに変わりはないが、少数のパラメーターがそこに抱き合わせにされて、おのおのの言語にとってふさわしいやり方で言語が構成される、というわけだ。例えば、あらゆる言語には<主語>があるが、英語ではそれが独立して出現するのに対して、スペイン語では、動詞の語尾に形を変えてしまう場合がある、という具合である。
 さて第三の特徴であるが、生成文法は、言語の個体発生的な発達を認めない。そんなものは幻想だというのである。言語の構造を(個体としての)子供は学習するわけではない。種としての人間に言語構造は生得的にそなわっているからである。この構造は――学習されるのではなく――言語刺激によって「引き金をひかれる」(triggered)にすぎない、というのだ。例えば、英語を習得する者は、文の<主語>という観念を経験的に構成し獲得するのではない。個人は単に、生得的に知っている<主語>という観念を経験的な発話の語順の中に確かに示されている事実を発見するにすぎない。
 トマセロに言わせるなら、生成文法派が<言語発達>という考え方をなぜ否定するかというと、抽象的で・完成した・変化しない・プラトン主義的言語構造を天下り式に理論に持ち込んでいるからなのだ。
 筆者としては、この批判に諸手をあげて賛成したい。トマセロ自身の言語理論については別として、彼の生成文法批判は受け入れざるを得ない。筆者の言い方でいうと、従来の言語理論(生成文法はここに含まれる)はハリス(R. Harris)いう<分離主義>(segregationalism)に災いされてきたので、生成しつつある言語(developmental language)を無視せざるを得ないのである。トマセロの議論が生成文法批判の形をとりながら、実際のところ、既存の言語理論一般への根底的批判になっている点を看過してはならない。(つづく)