ピンカー 対 トマセロ (5) 言語機能のモジュール性?

namdoog2006-11-05

 ここからトマセロは、ピンカーが展開する言語の「モジュール性」(modularity)の議論に目を転じてゆく。ピンカーのいう言語のモジュール性には四つの側面があるとされる。すなわち、①言語は認知の他の領域とは別の様態で構造化されていること、②言語能力の特定の欠陥をもたらす遺伝上の欠陥をもつ人々がいるということ、③ある人々は認知的欠陥をもっていて、そのために言語(少なくとも統語論)が無垢なままであること〔特異な能力が損なわれていないこと〕、④言語機能は大脳の特定の部位に場所をもつこと――これらの側面である。それぞれについてやや詳しく見てゆこう。
 ちなみに、「モジュール性」の概念とは――厳密な定義はさておくとして――そのおおまかな理解としては、次の点を押さえておけば良いだろう。「モジュール」とは、コンピュータ科学においてハードウェアやソフトウェアの部品となる、規格化された構成単位をいう。この比喩として、認知科学では、特定の認知機能のユニットが特有な条件を備えている場合にそれに「モジュール性」を認める。例えば、<知覚>は<言語>その他の機能ユニットから(比較的な意味で)独立に成立する。逆にいうと、<言語>は<知覚>に浸透性を持たない。この限りにおいて、<知覚>のモジュール性を語ることができる。
言語構造の独自性
 統語論のモジュール性を支持する一つの議論は、統語構造が他の認知的領域で観察されるさまざまな構造には似ていない、というものである。チョムスキーが言うように、語尾変化ないし屈折の形態論に匹敵するものは他の認知の仕組みにはない。しかし、この事実は、生得的な統語論的モジュールがあることを含意するわけではない。
 例えば、将棋というゲームの構造には数多くのユニークなルール――一例をあげると、成金つまり駒がなって金将と同じ働きをするというルール――がある。だが誰も、この独自なルールが<生得的な将棋指しモジュール>の存在を要請するとは考えないだろう。将棋を指すために使用される認知構造は、文化的に構造化されたゲームを遂行することを習得する過程で、ゲームのやり手つまり個人が、直面する問題に対して一般的な認知の手順を適用する過程から導き出すにすぎない。
特定の言語能力の損傷
 ある人々は、言語能力について、きわめて特定的な欠陥をもっている。ある研究者は、この事実が、特定の言語構造には特定の遺伝子があてられていることの証拠だと考えている。近年、言語学関連の文献でもっとももて囃された事例は、GopnikとCragoが紹介した英国の家族である。この一族の多くのメンバーは、ある種の文法的形態論(例えば、複数語尾や過去時制のそれ)に関して障害を示す。これは、生成文法モジュールを形づくる文法的形態論が遺伝的に決定されている証拠だ、というわけである。(この家族には、その他の障害も見出されている。)
 トマセロはこれに対して、こうコメントする――これらの事実は、この家族の言語的障害が言語理解そのもの(linguistic understanding per se)ではなく、言語の表現(linguistic expression)にかかわる可能性を示している、と。ピンカー自身は、この事例から、問題の家族に関して欠陥のある文法遺伝子を想定するようなことはしていない。彼の考えだと、この家族のメンバーにおいては、ある種の非言語的遺伝子の働きが正常な言語機能と干渉をおこしているのだ。大事な点は、この事例にしても他の事例にしても、言語構造の特定のアスペクトに対して遺伝情報を指定する文法遺伝子が存在することを証拠立てているわけではない、ということだ。
言語的サヴァン
 知能指数(IQ)が低いのに、複雑な文法を具現した文を産出することができる人々がいる。彼らは<言語的サヴァン>(linguistic “Savants”)と呼ばれるが、彼らの存在こそ、統語論の自律性ならびに生得性の証拠だという。
 IQは一般的知性の尺度であり、もし人々が低い知性しかもたないのに、複雑な文を作ることができるとするなら、この能力は一般的認知から独立しているのではないだろうか。
 トマセロは、IQテストが言語の基礎にある認知能力を測ることができる、という考え方は信じられないと述べているが、いまこの点は脇にのけておこう。
 ある事例を見よう。被験者は低いIQの持ち主だが、比較的正常な統語論的技能をもっていた。注意しなくてはならないことは、被験者は十代の青少年で、精神年齢(IQテスト上のスコア)では4〜6歳程度だったことである。ところが、別の箇所でピンカーが明言しているように、この精神年齢の子供は、実際には、成人の言語的技能のレベルにすでに達しているのだ!
 ピンカーがあげている別の事例は、ウィリアムズ症候群の子供である。この論点に関して正高信男の言及があるので引用しておこう。「とりわけ言語能力のモジュール性を主張する研究者が、自説を裏づける証拠と主張しているもののなかで、もっとも説得的とされているのがウィリアムズ症候群(Williams syndrome)と呼ばれる遺伝的発達障害の症例である。モジュール論の第一人者と目されているS. Pinkerは、ウィリアムズ症児を"IQは50前後と低く、靴ひもを結ぶ、行きたいほうへ行く、食料棚から必要なものを取り出す、左右を区別する、2つの数を足す、自転車を押す、他人に抱きつきたいという自然な衝動を、意志の力で抑えるといった日常的な行動ができない"が、しかし一方で、"正常な子どもと同じ程度に、複雑な文を理解し、文法的に間違った文を訂正することができるのだ"と紹介した。それゆえ、他の能力から独立した言語のモジュール性を例証する事例と見なしたのだった」(「言語習得における身体性とモジュール性」、引用では、文献注をはぶいた)。
 彼らの言語的技能はそんなにおかしくないように映る。しかし言語以外の認知能力に欠陥が認められる。彼らにできないことをピンカーはリストにあげている。しかしこれを見ると、多数の研究者たちがウィリアムズ症候群の子供の多数のサンプル群から個々別々に発見した(つまり個人ごとで異なる、通有性のない)欠陥なのである。リスト上の欠陥をすべてもっている個人としての子供はいない。
ウィリアムズ症候群については、例えば、次が比較的詳しい。http://www003.upp.so-net.ne.jp/Williams/contents-1.html; 間違ったイメージを形成してはならないが、この症候群が一般にはそれほど知られてはいないという事情にかんがみ、上記のサイトから一部を引用しておく。
ウィリアムズ症候群の人々は利口だが知的遅滞があり、才能がありながら同時に愚かでもある。この不一致は神秘的である。(この記事は雑誌『ディスカバーマガジン』の 1991年6月号に掲載された。(……)
 アン・ルイス・マクガラーは15 + 25 の足し算ができない。でも彼女は熱心な読書家でそれをはっきり表現する。「読書が好き」と彼女はいう。「伝記、フィクション、小説、新聞のいろいろな記事、雑誌の記事、そのほかなんでも。今、ある少女についての本を読んでいて、その少女はスコットランド生まれなのだけど、家族と一緒に農場に住んでいるの。私が読書が大好きなのは、自分が本の中に入って主人公と一緒にそこにいて、見て、一緒に経験できるから」。
 42才のとき、マクガラーはすらすらと話すのが困難だった。でも彼女はピアノやリコーダーを演奏し、クラシック音楽を鑑賞する。「音楽を聞くのが好き。ベートーヴェンはあんまり。だけど、モーツァルトショパン、バッハが大好き。その音楽を展開する方法がすき。・・とても明るくて、とても軽快で、とても快い音楽だから。ベートーヴェンは気が滅入るって分かった」。
 もしマクガラーが食器戸棚から幾つかの物を持ってくるように言われたら、彼女は当惑して一つだけ持ってくるだろう。でもたぶんあなたが会った中で最も 感受性の強い人の一人で、彼女は自分自身の状態をよく承知している。
「私はたくさんの人からじろじろ見られる」と彼女は言う。「ある時、私はとても気味悪い経験をしたの。お店に行って買い物をした時のこと。自分の用事に気をとられて、いつもと同じように買い物をしていたの。一人の婦人が近づいてきて、私をなめるようにじろじろ見て、それから、わかる?その人逃げていったの。とても変だったわ。それで私、本当に戸惑ってしまった。その人に話しかけて聞いてみたかった。『何でそんなにじろじろ見るの?何か間違っている?障害を持っていることが分かってもらえる?それについてのあなたのどんな疑問にも喜んで答えるわよ。』」 〕
 ウィリアムズ症候群の子供たちの言語が正常だとはとても言えない。正高信男からふたたび引用する。「しかしながら、なるほどウィリアムズ症では言語能力が他の認知能力から突出してすぐれていると指摘されるものの、その優秀さの程度は、IQが同等の他の発達障害の場合と比較しての、相対的なものであることも判明してきた。健常者と比べると、やはりかなり劣ることが多いのである。」(ibid.)
 十代の彼らの複雑な統語論の能力は7歳児のそれに似たものだった。最近の研究では、彼らの言語は彼らの精神年齢から推定しうること、従って彼らを精神発達遅滞の疾患を持つ者として見なしうるとされている。ウィリアムズ症候群の子供をダウン症児と比較すると、彼らの言語能力が熟達しているように見えることも合理的に説明できる。ダウン症児の場合、彼らの精神年齢から期待しうる言語能力より実際には低い能力しかもっていないからである。ウィリアムズ症候群の子供は、発声が明確であり、比較的長い紋切り型の語句を作ることが多い。
 しかし「言語的サヴァン」とは結局何者なのだろうか。Haukiojaは、「データ計算者」という別のタイプのサヴァンをあげている。彼らは低いIQの持ち主で、しばしばもっとも基礎的な算数の技能すら持っていない。ところが、過去であれ未来であれ、千年紀のスパンである年のある月ある週のある日が何曜日かを計算することができる!この種のデータ計算が認知ならびに数学的技能と独立だと結論するべきなのだろうか。
 そうするよりも、個人としての彼らが、認知と数学的能力を何らかのやり方で――誰もまだ説明できていないが――発揮しうると考えるほうが合理的なのではないか。これがトマセロの(消極的であることは否めないが)結論である。
 ピンカーが言語能力のモジュラー性について列挙した証拠の最後に、言語機能の「大脳局在」の論点があるが、これは次回にまわそう。(つづく)