視えない絵画を知覚する(5) と空間認知

namdoog2006-09-25

 空間を記号系で表現する方式にはじつにさまざまな種類がある。言語による記述、地図による描写、座標、写真(インデックス)、フローチャートなどなど。
 前回指摘したように、地図ひとつとりあげても、それに含まれる下位の記号系としての地図がまた多岐にわかれることになる。こうした実情を念頭に、最初の問い――盲人が経験する空間の構造を表現する記号系は「基本的に」どのようなものなのか、という問い――をあらためて吟味してみるなら、それが一つの解答を要求する類の問いではないことが分かる。
 この点を説明するには、地図(例えば<自宅からJRの駅までの地図>)と発話との比較が有益かもしれない。例示した地図の表現が種々さまざまであり、そのうちのどれを実際に使用するかは、<使用の目的>次第である。
 発話にも似たような事情が伴う。聞き手に何かある行動の遂行をしむける発話(言語行為論でdirectiveに分類される発話)は決して一様ではない。きつい命令調の言い方から丁寧すぎる言い方まで、話し手同士の人間関係を反映した種々の言い方ができるし、平叙文や疑問文のどちらを使用することもできる。具体的にどういう表現を選択するかは、地図の場合と同じように<使用の目的>に依存している。
 この論点は地図以外の記号系も視野に入れて一般化することができる。従って、空間表現のために用いる記号系を何かひとつに確定することに意味があるとは思えない。換言すれば、人が――あるいは盲人が――経験しているリアルな空間表現とは何か、それを抽象的・一般的に問うても仕方ないということである。だからケネディも指摘して言っている。「人はその折の必要にふさわしいシステムを選択している」と (J. M. Kennedy, Drawing and the Blind, p.211.)。だから本当の問題は、人に具わっている、空間表現能力の可塑性――あるいは――レヴィ=ストロースの概念を改釈して用いるなら――手持ちの表現能力を本来の文脈からずらして自在に活用する能力としての<ブリコラージュ>の能力(ability for bricolage)なのである。
 この能力のポイントは、ある空間表現を別のそれへと変換する機能である。直線道路を出発地から目的地に行くための地図を例えば、○========>○ と表すことができる。
 これに対して、両端の場所が1キロ離れていたとすれば、この地図の言語ヴァージョンを次のように表現できる。「出発地から道路を1キロ進みなさい、そこが目的地です」と。この変換が可能であるためには、二つの記号系が同型(isomorphic)あるいは少なくとも準同型(homomorphic)という構造特性を持たなくてはならない。この点で晴眼者も盲人も違いはない。
 ただし、同型変換ないし準同型変換の表現能力が大切であり人はみなこれを持っているとはいっても、だからといって、誰もが空間に関するあらゆる(というのがあまりに過大な要求なら、「大半の」と言い直してもいいが)表現を実際に構成できるわけではない。(もしそんなことができれば、人は多くの図法を駆使しておびただしい種類の地図を描けることになってしまう。)もちろんこの点でも、晴眼者と盲人に能力の差などはない。
 盲人においてドミナントな(優勢な)空間性の感覚様相である触覚と、晴眼者においてドミナントな視覚とを比較すると、確かにそれぞれが環境から引き出す情報の実質は異なっている。しかしケネディらの研究が明らかにしたのは、この違いが、晴眼者と盲人が経験する空間性において大きな<認知的差>をもたらすわけではない、という点であった。
 確かに盲人の場合、近傍の空間性は(主として)手探りで構成され、遠方の空間性は(主として)徒歩=身体移動運動で構成される。だからといって、この二種類の空間性が質的に切り離されているわけではない。これは、触覚と運動感覚が互いに絶対的に孤立した様相ではないことを意味している。両者は互いに浸透しあっているのであり、ふたたび<感覚様相の縦割り理論>は信憑性を失うことになるだろう。
 盲人の空間知覚に関するケネディらの研究は、(例えば)盲人が遠近法を理解していることを実証的に明らかにした功績がある。これを否定するものではないが、じつはこの研究は、何にもまして、人が世界に属する存在論的様態としての<知覚>の研究として、大きな価値を有している。(ただケネディ自身がそうした研究課題を設けているわけではないが。)
 筆者がここで強調したいことは、人間の記号機能という主題に関して重要なのは、記号機能の所産としての個別な記号系であるよりは、一般に記号機能の働きがどんな仕組みなのか、という論点である。換言すれば、例えば人間が空間認知をなすときに、どんな心理学的実質をそなえた空間表現あるいは記号系を有するかという問いよりも、そもそも空間表現をどのような素材と手順で構成するかという問いのほうが重要なのである。
 盲人の空間表現の観察から分かったのは、盲人が複数の記号系を目的に応じて柔軟に遣いこなしているということであった。ここに認められるのは、ある記号系(空間表現)を素材としてそれを同型の記号系ないし準同型のそれへと変換する記号機能にほかならない。同型ないし準同型変換を<写像>と呼んでもいいが、数学の場合とは事情の違いがある。それは、変換以前に変換の所産があらかじめ確保されてはいないという点である。ここに記号系の<生成>の問題を置かなくてはならない理由があり、<変換>とは<論理的構成>のことなのである。しかも問題なのは、手放しの恣意的な<構成主義>ではなく、身体性に根ざした一種の自然主義的な<構成主義>であることに注意したいとおもう。
 こうしてみると、人間が複数の記号系を使いこなすことは、すなわち、記号系の<再帰的動き>(recursive move)と別のものではない。野生の思考が遂行する<ブリコラージュ>とは、フォークロアにおける記号系の<再帰的動き>なのである。この点をレヴィ=ストロースのテクストを援用して説明しておきたい。
 <ブリコラージュ>(bricolage)とは、文化人類学レヴィ=ストロースが『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房)において、人間の普遍的認識("野生の思考")を表すために使用した比喩である。英語のDIY(日曜大工仕事)などに類した観念だと思えば間違えないだろう。つまり専門家ではなく素人が、ありあわせの手段や素材を巧みに使用して、臨機応変に何かを制作し目的を果たすことをいう。
 それでは、<ブリコルール>(bricoleur; 大橋訳で<器用人>)とは何者であろうか。彼の仕事は後ろ向きの行為として始まる。最初に、いままで集めて所有している道具と材料の全体を点検し何が揃っているかを調べ上げる。次に、既存の道具と材料がいま直面する課題に対して差し出す可能的な解答を並べてみて、その中から適切な案を選ぶのである。なぜなら、既存の道具と材料には自ずと事前の制約が伴うからである。レヴィ=ストロースのこの指摘は<制作としての認識>のまさに的を射抜いている。(『野生の思考』(大橋保夫訳)、みすず書房、p.24.)
 玄人のエンジニアも似たような問いを立てるが、その問いが自然全体に対するものであるのにひきかえ、ブリコルールは「人間の作品(ouvrages humaines)の残り物の集合つまり文化の部分集合」に話しかける。(同書、p.25.)ただしレヴィ=ストロースは注意深く、両者の差が相対的なものにすぎないこと、しかしその差は歴然とあることを指摘している。筆者としては、この差を彼よりは小さく見積もりたい。その理由は明らかだろう。人間の認識とは本質的に<ブリコラージュ>に他ならないからだ。どんなに啓蒙され科学化されたエンジニアも、人間であるかぎり(human natureを生きるかぎり)本質的には、ブリコルールと異なる者ではない。レヴィ=ストロースのいう<科学>は理想化された観念に他ならないだろう。
 レヴィ=ストロースが、エンジニアが操作するものを<概念>と呼び、<ブリコルール>がそうするものを<記号>と称している点も見逃すわけにはゆかない。もちろん<概念>と<記号>とは連続的であり同時に歴然と分離してもいる。ここでも筆者はあらゆる認識の対象が<記号>であるという見地を採用したい。彼の議論は<出来事>と<構造>という対比、あるいは<第一性質>と<第二性質>のそれなどにも及んでいる。また<神話的思考>と<科学>を媒介する<藝術>にも言及していてはなはだ興味深い。<ブリコラージュ論>は、単に人類学的な文脈で便利に使用することのできる、気のきいた言い回しなどではない。それは認識論や形而上学の見地から本格的な検討するに値する豊かな構想である。
 以上を要約するなら、<ブルコルール>としての認識人は既存の記号系(道具と材料)を駆使して、新たな技術や知見(記号系)を制作するのである。この制作(making)が記号系の自己反照として再帰的構造を持つことは明らかだろう。これをわれわれは記号系の<再帰的動き>(recursive move)と呼ぶのである。
 個体発生の観点から<再帰的動き>を語れると同時に、系統発生の観点からもそうすることができるのではないか。現在、さまざまな<言語理論>が、かつての時代には禁忌の的であった<言語の起源>の問題に果敢に挑戦している。逆にいって、<言語の起源>という問題設定を担いうるかどうかが、言語理論の現代性の証ともなっている。<再帰的動き>の概念が、この旧くて新しい問題に新たな光を投じることは確かであるようにおもえる。ここで、チョムスキー理論へ異を唱えた記号主義者グッドマンの議論を紹介しておきたい。
 チョムスキー流の普遍主義へのグッドマンの異論は次のように展開される。(論文‘The Epistemological Argument,’ in N. Goodman, Problems and Projects, The Bobbes-Merrill, 1972)
 チョムスキーは、人間が獲得しうるあらゆる言語には普遍的な特性があるという。この普遍主義は、心理学的な実在としての<普遍文法>UGが神経系に生得的に組み込まれているというリアリズムのかたちをとっている。
 グッドマンは自分が考案した奇妙な述語grueを持ち出して言っている。チョムスキーの普遍主義によると、この奇妙な述語をもつ言語――「グルー語」と呼ぼう――は人間の最初の言語(あるいは自然言語)にはなり得ない。しかしその逆は言えるのであって、最初に英語を獲得した者は、グルー語を学習できるのだ、と。(grueなどの述語の問題は推論のタイプとしての<帰納>にかかわる。この日記では本格的議論はしていないが、言及したことはある。http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060407
 しかし、自然言語は洗練され丹念に作り込まれた記号系である。人間がこの種の記号系を獲得する以前に、前言語的でいっそう基礎的な記号系――そこでは文字通りの仕草や知覚が重要な役割を演じている――を遣っていたことを疑うことができない。
 一般に、ある記号系から別の記号系へ移行することは、記号系を無から作り出すよりも容易である。実際に、新たな記号系はいつでも何か旧い記号系の作り直しなのである。(<再帰的動き>)
 このように、最初の言語の獲得は、二次的記号系の獲得である。最初の言語に課せられた制約――つまり言語的普遍性という特性――が存在するというチョムスキーの主張は、grueの反例によって覆されてしまう。二次的記号系(=グルー語)には、そうした制約など認められないからである。(チョムスキーは(偏頗な)普遍主義に依拠して、グルー語を「最初の言語」とは認めないが、グッドマンにとっては、表現能力において英語と何ら遜色のないグルー語は、「最初の言語」の資格者である。)
 グッドマンの見地は――彼曰く――最初の言語の獲得がきわめて迅速になされるという、周知の事実とよく両立する。チョムスキーの観点から見ると、これは驚嘆すべき現象である。それゆえそれに対しては、格別な説明を要することになるだろう。しかし第一の言語の獲得が、すでに身についた記号系から別の記号系への移行であるに過ぎないのなら、それが迅速になされることに不思議さはない。
 同じ趣旨の議論は、グッドマンの別の論文’The Emperor’s New Ideas’ でもやや異なる角度から展開されている。グッドマンが言うには、言語学者は言語以外のあらゆる記号系(symbol systems)に対して「職業的近視」による弱視になってしまっている。(「言語学者」というとき、チョムスキーが念頭に浮かべられている。)仕草、顔の表情、身体の動きをはじめ、スケッチ、ダイアグラム、モデルなどの記号系は――それを制作し使用することは立派な技能(skills)であるのだが――じつはあらゆる他の技能の獲得や習熟に重要な役割を演じている。
 さて、言語の獲得に先立って、人間が獲得する記号系には各種のものがある。言語にとって本質的な特徴をそれらがそなえているなら、これら先行する記号系の獲得それ自体が目覚しい事柄であり、説明を要する現象であるとチョムスキーは言う。しかしそれらの記号系が、そうした特徴をそなえていないのなら、言語の獲得に寄与するものではない、と彼は言うのである。
 この見方にグッドマンは反対する。人が手作りで時計を制作したとする。これは目覚しいことだ。彼がまずそれほど精巧ではない道具を作り、それを用いてもっと洗練された道具を作り…こうした過程を積み重ねて、最後に時計を制作したという説明は納得のゆくものだ。時計(clock)を作るのに用いられた道具は、それ自体が時計(timekeeper)なのではない。時計だけから遡って、それより以前に用いられた道具の特徴について推論を行うことはできない――こうグッドマンは言うが、説得力のある議論ではないだろうか。要するに、完成した言語を可能態として想定してしまうチョムスキーのリアリズムは顛倒した考え方にすぎない。あるいは、チョムスキーには、<機能的生成>という観点が欠けているとも言うことができよう。
 いずれにしても、グッドマンの議論は、チョムスキー的リアリズムに対する鋭い批判として傾聴に値する。そして議論のポイントが、記号系の<再帰的動き>という概念にある点を強調しておきたい。