視えない絵画を知覚する(4) 盲人の空間認知

namdoog2006-09-16

 <盲人の絵画>に関するケネディの研究で最も注目に値する観察の一つは、盲人が<遠近法>(perspective)を――少なくともその基本構造について――晴眼者と同様に理解している、ということだろう。というのも、従来、遠近法はもっぱら視覚に固有な空間の構成法だと信じられてきたからである。 そもそも<遠近法>は、<視点>と<視線>という要因――いずれも視覚的な要素――によって成り立つと思えるからだ。(この点はperspectiveが<透画法>と訳されることにもうかがわれる。そもそも英語の perspective はラテン語のperspectivus に遡る。これは、perとspect-から成る語であり、per=through + -speicio =to look、つまり<前方を透かして見る>を意味する。)
 ある女性の被験者(三歳のとき全盲となった)は、一個の立方体とL字形の積み木の配置をいろいろに変えてスケッチすることを試みた。二つの積み木が横に並べられて置かれると、彼女は同じ大きさに描いた。ところが、立方体の方がL字形の積み木より彼女から「見て」遠くにあるときは、絵の中で立方体を小さく描いたのである(J. M. ケネディ「盲人はどのような絵を描くか」、『日経サイエンス』、1997年4月号)。
 表象(表現)ないし記号系としてのこの絵画には、確かに<遠近法>の技法が認められる。であるなら彼女は、晴眼者と同じように固有の<視点>を生きていると見なさなくてはならない。また<遠くにあるものは小さく見える>という遠近法の効果は、ふつう、視点から展開する<視線>によって説明される。これは両眼視の問題でもあるのだが、対象へ向かう視線は<消失点>に向かって収束し、二つの視線が作る角度(ここでは<視角>と呼ぶ)が大きいほどその対象は近くにあるとされる。――どうしてこうした空間の構成が視覚のない人に可能なのであろうか?
 これについて、ケネディは著書 ( Drawing and the Blind: Pictures to Touch, Yale University Press, 1993 ) の第6章で、かなり踏み込んだ議論をおこなっている。盲人は空間の構成にあたって、視覚的情報を利用できない以上、当然ながら視覚以外のインターフェイスを動員しているはずである。そこでケネディは、さまざまな先行研究と彼自身の知見に依拠しながら、触覚、運動感覚、聴覚などの果たす重要な役割を明らかにする。
 (ついでながら、ケネディは<遠近法>を絵画技法として考究しているのではない。例えば、遠近法に空気遠近法と幾何学遠近法があるという類の歴史的知見は、ケネディの問題意識とはほとんど関係がない。真の問題は、盲人がどのような空間の感覚経験を有しているか、すなわち空間性が身体機能によってどのように構成されるかという問い――人間の存在構造とその働きに関する問いなのである。)
 盲人の方向感覚(sense of direction)が聴覚や嗅覚あるいは運動感覚に結びついている事実は、次のような単純な観察からも明らかだろう。(ちなみにここでいう<方向感覚>は、単に認知の対象への<方角>ばかりではなく<距離>の指標でもある。)
 ①もし二人の人が会話しているとして、それぞれの声は別の方角と距離から盲人の耳へ到来する。この二人が会話しながら盲人から遠ざかって行くと、二つの声が作る角度が次第に小さくなるだろう。②二つの薔薇の茂みのちょうど真ん中に盲人が立っているとする。彼の右側の薔薇の匂いをかぐために、盲人は身体を右側に90度回転させた位置に立たなくてはならない。次に別の薔薇をかぐためには、彼は身体を180度回転させなくてはならない。
 要するに、盲人は種々の感覚様相を巧みに組み合わせながら<空間>――もちろんこれは<生活世界>ないし<環境>の空間性のことである――を構成する。――こうした言い方はいかにも今更だという感を与えるかもしれない。しかし従前の考え方が<視覚中心主義>に終始していた点を忘れるべきではないだろう。(盲人には空間認知は不可能である、という哲学的独断――ラシェリエ(Jule Lachelier、1832-1918)がそうした見地を代表する――を覆すために、メルロ=ポンティがどれほど言葉を費やさねばならなかったか。この点については『知覚の現象学』第Ⅱ部、第1章、感覚経験(Le Sentir)を参照されたい。)
 盲人が実際に空間認知(方向感覚)を有しているのを証明するために、ケネディその他の研究者は、<指さし課題>(pointing tasks)を被験者にやってもらっている。例えば、広い通りの中央に被験者に立ってもらう。被験者の左右の腕を真横にあげた方向に二本の街路樹がある。そこで、当人に腕を上げ人差し指で樹を指してもらう。そして二つの指の延長線の作る角度を測定する。結果はほぼ180度であった。次いで、10メートル先にあるやはり二本の樹を同じように指してもらい、日本の指の延長線が作る角度を測る。結果は予想通り180度以下であった。盲人のこうした行動は、主体の<方向感覚>を措いては了解不可能であろう。
 われわれは先に、「盲人の方向感覚は聴覚や嗅覚あるいは運動感覚に結びついている」といった。しかしこのことの精確な意味合いは何だろうか。感覚様相に関する縦割り理論は、われわれの採るところではない。同じように<空間認知>を語るにしても、その言説が<経験>のいかなる位相に焦点を絞っているかが問題である。
 われわれはあえて<空間認知の生成>という言い方をしてみようと思う。<空間認知>が成就したその完了相を事後的に(post ex facto)分析するのはやめよう。あるいは<経験の可能性の制約>を問うことはひとまず棚上げにしよう。(「感覚様相の縦割り理論」は事後的分析がもたらしたものにすぎない。)その代わりに、潜在的な力能にほかならない身体性の<自発的動き>に密着しよう。この密着の知的努力が人間性(human nature)に関して何を教えてくれるか、その点だけを注意深く見詰めなくてはならない。
 盲人が経験する空間の構造を記号系としておさえるとき、それは「基本的に」どのような形態をとるのだろうか。(これを<空間認知のモデル理論>への問いだといっていいだろう。)
 盲人の<方向感覚>については、大別してこれを言語でコード化する――つまりシンボルを作る――やり方とそのアイコン(<地図>に相当する)を制作するやり方の二つがある。例えば、スタート地点から目的地までのルートを「最初の角を左に、次に右に、また右に曲がって四軒目の右側の家」という言明を作ることでも、想像上の地図を描いても、どちらでも目的を達成できる。それでは、一体どちらが認知の「基本的」方法なのか。(実はこの問いが正当かどうかが、われわれの問題なのである。)
 外界認知に関してもっぱら触覚に依存している――これは誤った信念にすぎない、とわれわれは思う――盲人は言語的コード化に優れていると主張する研究者もいるが、その裏づけはない。盲人の空間認知=記号系の「基本型」が何かについて、ケネディは慎重に議論を進める。まず、<空間>は種類を異にする複数の記号系で表現できるのだが、注意すべきは、ある記号系が今度はそれの下位の記号系に分化するという点である。
 仮に空間が<地図>という心的表現(mental representation)をもつとしよう。しかし地図にも色々ある。ふつうの意味での<地図>(つまり、公共的な工作物(artifact)としての地図、メンタルな地図はartifactであっても、公共的ではない)を考えよう。ケネディの考察を引き取ってわれわれなりに考えることにする。
〔ついでながら、artifact は通常<人工物>と訳されるが、適切でない。なぜなら、チンパンジーもartifactを制作するからだ。とはいえ、なにもチンパンジーを差別しているわけではありません。人間は霊長類の一員でありチンパンジーも同じであるが、だからといって、後者が前者と同じだなどとはいえない。〕
 地図の種類を網羅することなどまず不可能だろう。それほど、地図の種類は多いのだ。地図のタイプを生成するのは、地図の描き方つまり<図法>である。地図を言語の文ないし文を連ねた記述になぞらえれば、図法はさしずめ文法に相当するだろう。例えば、世界地図でおなじみのメルカトル図法。その他の図法をあげてゆくと、方位図法、円筒図法、円錐図法、投射図法、非投射図法(例えば、アルベルス正積円錐図法)、擬図法、接図法、割図法、正軸法などなど枚挙にいとまがない。おのおのの図法に個別の地図のタイプが対応する。理論的には、実際の地図が複数の図法を併用している事例もあるかもしれない。そうだとすれば、地図の種類は圧倒的に多数になる。それでは、盲人の頭の中の地図はどうなっているのだろう。この疑問を解消してくれる研究は残念ながら見当たらない。
 しかし少し冷静に考えをめぐらせば、<メンタルな地図>を一通りのものに確定することが無理なのがわかる。確かに、<メンタルな地図>が使用されているという実感がともなう経験が存在する。しかし、その都度の地図経験における<メンタルな地図>は急拵えの工作物に過ぎない。それゆえ、それを生み出す確定的図法が頭の中に実在するとは思えない。われわれとしては、むしろ<図法>とはレベルが違う、<図法作成のための図式>のようなものを考えたい。
 言語についても同じ論点を適用することが可能であろう。<表層に出現する発話の文を生成する深層文法>という構想を掲げるチョムスキー言語学では、普遍文法UGが大脳神経系に生得的に組み込まれているとする。(プログラム言語がパソコンにインストールされているというイメージである。)<文の生成>という発想はわれわれの見地に似ているが、実質的には「他人の空似」のようなもの。完備したUGが神経系の構造であるという観念にはついてゆけない。言語への別のアプローチを模索すべきではなかろうか。(<生成文法>についてはこの日記で言及したことがある。http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060730 を参照。この言語の問題については、後日、機会を得て述べたいとおもう。)  (つづく)