視えない絵画を知覚する(3) 共感覚と音象徴

namdoog2006-09-11

 話を進める前に、前回の記事で取り上げた<共感覚>について補足しておきたい。
 視覚障害者の「絵画」という主題とのかかわりでなぜ<共感覚>が問題化されるかといえば、絵画は視覚藝術であるという誤った認識を生むのが、<感覚様相の縦割り理論>だからである。つまり、この種の理論を克服するには<感覚様相>なる観念を脱構築する必要があり、その際に<共感覚>というリアルな現象が多大のヒントを恵んでくれるはずだからだ。
 <共感覚>を異常で例外的な病理現象ときめつけるのはきわめて不十分であろう。もちろんそれを<病理現象>に分類するのには一通りの道理がある。メスカリンなどの薬物作用や特殊な意識状態にある被験者にこの種の現象が頻出するのは事実だからである。
 しかし、前回確認したように、人の日常的知覚においては、あらゆる個別的様相における<感覚>がそのまま<共感覚>という様態で実現される。例えば対象が視覚のうちに出現するとき(ふつうの言葉遣いでは「何かを視るとき」)、この対象は視覚的属性(色や明暗など)を所有する一方で同時にその他の感覚様相に特異的な属性(音、味、肌触りなど)をもつものとして現れる。この場合の<所有>が、複数の並立する属性をもつこととは異なる点が形而上学的には問題である。
 注意しなくてはいけないのは、<共感覚>に関しては、<属性>の足し算を考えてはいけないという点だ。ある対象が色+形態+味+音響+…という複合物としてあらわれるわけではない(ちなみに、こうした考え方が古典的な経験主義哲学のたてまえであった)。この対象は(種々のアスペクトをはらんだ)単一の感覚様相のもとで出現している。強いて言うなら、この経験に認められるのは、多数の感覚様相の<融合>なのである。
 最近の研究から若干の例をひいておく(V. S. ラマチャンドラン/E. M. ハバード「数字に色を見る人たち 共感覚から脳を探る」(月刊日経サイエンス、2003年8月号)」。
 「ある被験者は、手でハンバーグの形をつくっただけで口の中にはっきりと苦い味が広がる(!)。また別の被験者は、ピアノでドのシャープの音を弾くと青い色を見るなどという具合で、それぞれの音には色がついている。彼女にとりピアノの鍵盤は色分けされているのと同じで、だから容易に譜面を覚えたり演奏ができたりする。さらにある被験者の場合は,印刷された黒い数字に――5は緑,2は赤というふうに――いろいろな色がついている(!)。
 この3人は<共感覚>という特殊な感覚をもつが、それ以外は普通の人とまったく同じだ。彼らはあたりまえの世界をあたりまえでない方法で経験する。彼らの触覚、聴覚、視覚、味覚などの感覚は独立しておらず、ごちゃまぜになっているのだ。」
 もちろん、この単一な感覚経験を――回顧的に――多数性の視点から分析することは可能である。すなわち、感覚様相の格子(グリッド)を適用することでそこから個々の<感覚>を分離し、ついでそれぞれの感覚要因の間の関係を析出することができるかもしれない。こうした方法論は一般に<科学的>と称されている。科学的分析が無効だとか無駄だとか言いたいわけではない。認識としての科学が尊重されなくてはならないのは当然のことである。
 ただし、これは事後の(ex post fact)やり方にすぎない。つまり問題の感覚経験は(完了相において)生成を終えたものとして了解されている。経験としての生きのよさはそこにはもはや無い。(被験者がまさに感覚経験をしている最中にこれを調べるからといって、この了解が回避されるわけではない。問題は経験の概念化である。)われわれはむしろ(ベルクソンとともに)<経験とは生成である>という了解を科学的分析に優先させる見地に立つ。
 科学的分析が不当なものに転化してしまうのは、それが絶対性を要請するときである。あるいは、完了相における経験を<可能性>の領域に遡及させるときである。あるいは、認識としての自己の<事後性>を欺瞞するときである。(科学の認識論にこれ以上立ち入ることはできない。一言だけ付け加えておくと、科学認識のこの種の問題状況は、研究領域によって深刻さの度合いに違いが生まれる。同じ自然科学的領域でも、物理科学より生命科学のほうが、同じ物理科学でも、微視的(microscopic)かつ超巨視的(hypermacroscopic)なレベルにおけるほうがいっそう深刻であろう。)
 ラマチャンドランらが紹介する事例では、特異な能力の持ち主(被験者)があたりまえの世界をあたりまえでない方法で経験する、とされている。しかしよく観察してみよう。じつは、メルロ=ポンティが見出したように、旧来の感覚理論から判断すると「普通の人があたりまえの世界をあたりまえでない方法で経験」しているのである。
 例えば、この絨毯がある種の茶色であるのが目で見てわかる。ではこの茶色を言葉でどう定義したらいいのか。それはメタリックな茶ではないし、紙に塗られた平滑な茶色でも岩肌のようなゴツゴツした色でもない。ふかふかとして触れたら温かい特殊な茶色である。それにしても、この特殊性をどのように言語的表現にもたらしたらいいのか。
 結局のところ、この<茶色>を定義するには、形容詞をいくら重ねても無理だろう。つまりは、この茶色は<しかじかという具体的な絨毯の茶色>というほかはない。定義しようとすると、「茶色j」という被定義項に対して、主語に立つ「絨毯」を定義項の中に動員して定義する羽目になる。しかしこれでも十分ではない。定義項には、絨毯の手触り、音に対する抵抗(絨毯にコインを落としてもほとんど音はしない)、重量などの規定をすべて取り込まなくてはならない。
 <色>という視覚的様相における属性をふつうの知覚ではきわめて複雑な内包をそなえた全体(a whole)として経験している。この経験の全体性はそれ自体としては<非様相的>であり経験的個別性としてはいわば<融合的様相>をおびていると言わなくてはならない。(ふるい文章になるが、おなじ主題に関して『我、ものに遭う』(新曜社、1983)、pp.278-284で述べている。)こうした経験の構造を成り立たせる心理学的根拠が<共感覚>なのである。
 <共感覚>について補足すべき二つ目の論点は、言語の生成の感覚経験的基礎の問題である。すでに筆者は<言語音の機能的生成>という問題に即してそのあらましを明らかにした。(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060821)もう一度その観察を示すことにしたい。
 幼児が初めて作り出した言語音はアイコン性を呈する。では言語音は必ずオノマトペとして成立するのだろうか。一見すると事態はそのようにも見える。なぜなら(例えば)♯ポッポ♯は確かに鳩の鳴き声に類似する音声として聴取されるからだ。しかしこの見方は、論証すべき命題を前提にしているかぎりで<論点先取>の過ちを犯している。♯ポッポ♯が鳩の鳴き声の模倣であるという前提は、この言語音がオノマトペであることを意味する。初発の言語音(われわれの例では♯ポッポ♯)が属性の反復によって構成されたという命題は、その属性が必然的に音声であるという命題を含意しない。選択される属性は鳩の仕草でもまた形態でもよかったのだ。言語音が呈するアイコン性の根拠は記号系の<再帰的動き>という形式性にあり、この形式をどのような属性で実質化するかは別問題だろう。
 にもかかわらず、この形式性が言語音の制約であるかぎり、属性は音としての質をもたざるを得ない。原初の言語音はそれが代表するものに必ず音の質を付与するはずである。あたかも夜の更けゆくさまが<しんしん>という音声で象徴されるように。この意味で言語音はつねに<音象徴>(sound symbolism)として生成する。言い換えるなら、音象徴は――言語音が生成する際にとらざるを得ないその姿態(species)であるという意味で――言語音の生成相なのである。
 <夜の更けゆくさま>の経験が感覚様相として何かを単純にいうのははばかられる。しかし概ね、それを光度の時間的変化の感覚つまり視覚的様相や、物音の感覚つまり聴覚的様相、あるいは空気が冷えてゆく感覚つまり(主として)触覚的様相など、多岐にわたる様相として把握してもいいだろう。すなわち、この経験自体が<共感覚>にゆだねられているのであり、それに別の聴覚的様相の経験(<しんしん>という音声の知覚)が融合することは不思議ではない。
 この点を一般化することによって、<どうして人は対象を言語音で把握しうるのか>という問題に神経学的-心理学的に応じることができる。すなわち、対象の共感覚的構造が音声を誘発することで言語音が生成する、と。<音象徴>という言語的カテゴリーに関する筆者の記述を(心理学的事態としては)<共感覚による音声の誘発>と解釈することが十分に可能である。
 我が国では特に90年代から以降、言語学ないし意味論の分野で<共感覚比喩>ないし<共感覚表現>をテーマとする研究が活発になされ多くのことが明らかにされてきた。(研究そのものはもちろんかなり古くからある。ここで言うのは我が国の学界についてである。)
 例えば日本語には「あまい声」、「うるさい模様」、「やわらかな味」という類の比喩的表現が数多く認められる。外国語でも事情は変わらない。最初の例を英語に直訳すれば、sweet voiceとなるが、これはそのままで通用する比喩である。(もちろん仔細に見てゆくと言語間における比喩体系の差異が認められるが、それにもかかわらず汎言語的な基本的比喩構造を想定してもいいのではないか。この点も含めて現在も研究が進行中である。)それぞれは、味覚→聴覚、聴覚→視覚、触覚→味覚、という感覚様相間で成立する<共感覚>を基礎としている。
 <共感覚表現>についての意味論的な研究を言語音の機能的生成の観点から捉えかえすことが可能だろう。逆にそうした研究を記号体系の生成論において基礎付けうるとも言えるのではなかろうか。いずれにしても、人間学としての記号論(homo-semiotics)は(認知心理学や神経学などの研究とたずさえて行われる)意味論研究から多くのものを学ぶことができる。この主題にはひき続き観察の目を向けてゆきたい。
〔追記 9月19日〕以上の記述は<共感覚>のあらゆる事例には必ずしもあてはまらないかもしれない。<共感覚>の研究はいまなお続行中であり、問題の全貌と最終的な結論はまだ得られていないからである。例えば、<共感覚>をどのような徴候によって定義すべきなのか。この基本問題に決着がついているわけではない。<共感覚>の研究で著名なシトーウィックによれば、<共感覚>とは「ある感覚の刺激によって不随意的に惹き起こされる、それとは別の様相の感覚」であるとされている(『共感覚者の驚くべき日常』(山下篤子訳)、草思社)。この基準だと、異種感覚連合(crossmodal association)そして<側頭葉癲癇>のある種の症状などを<共感覚>から排除できない。これに加えて、<徴候>の記号論的意義に由来するいくつかの問題がある。診断学ではワンセットの徴候で疾病を定義するのだが、この場合の<徴候>は論理的な意味での<条件>ではない。<ワンセットの徴候>が現象の必要十分条件とはならないのである。<共感覚>のある事例に何か一つの徴候が見出せないことがあるかもしれない。このように、<共感覚>の定義はとても微妙な問題なのである。
 さらに、根本的には<感覚>というカテゴリーの妥当性について問題が残っている。シトーウィックは、<共感覚>の定義に示されているように、純粋な<感覚>――意味の次元を伴わない純粋な質としての感覚、例えば何の赤ということを問えない、単なる色の広がりとしての赤――を認めているが、他面では<感覚>と<知覚>(これは認知価値を含んでいるので意味的である)の区別は曖昧だという。しかも<共感覚>の徴候の一つにという性状をあげている! つまり<共感覚>には認知価値があるというのである。これが先の<感覚>の考え方とぶつかることは明らかだろう。
 ただし次の点には注意がいる。著者がこの用語(noetic)で言わんとしたことは、「共感覚の持ち主は自分の知覚しているものが現実であるというゆるぎない確信をもっている」ということであり、知覚のありありとした現実感である。これを言い表すのに、聞き慣れない用語をわざわざ選んだのには理由がある。例えば、ピアノの音を聴くと目のあたりに色が視えるという体験は尋常なものではない。この種の感覚をもたない一般の人からすれば、それはある意味で「異常」である。精神病や超常能力あるいは薬物の影響と<共感覚>とは無縁ではない。それゆえ、この「異常性」のためにシトーウィックは特別な用語を選ぶのである。それにしても、<共感覚>が認知価値をもつ――それが格別な働きであれ――のは確かだというのである。
 このような事情があるので、<共感覚>に関連するわれわれの記述を拡張解釈することのないようお願いしたい。それと同時に、記述を後日さらに精確なものに改訂する必要を明らかにしておこう。
 さてこれに続けて次回は、ふたたびケネディの研究を見ることにしたい。(つづく)