視えない絵画を知覚する(2) 感覚様相と共感覚

namdoog2006-09-09

感覚のメレオロジー、あるいは換喩論理(metonymic logic)
 ケネディの論文「盲人はどのような絵を描くか」が立証したのは、直接には、視覚障害者(先天盲と早期失明者)も――この助詞には価値の含意はない――絵を描く能力をもつ、という事実である。これは多方面に影響するところの多い知見だろう。
 まずそれは、<絵画>という表現とは何か、という問いに対して決定的な効果を及ぼす。従来、絵画は視覚藝術(visual arts)だとされてきた。しかし盲人も絵を描くことができるのだから、この言い方は通らない。もちろん、ケネディの論文に掲出された「作品」が藝術の域に達しているかどうかは疑問かもしれない。しかし逆に、それを藝術ではないと断定する根拠も明確にはないのだ。(もちろんこれは個別の作例によりけりだが。)
 我々の身近で盲人のアーティストがセミプロの画家として活動しているのをご存知だろうか。京都在住の光島貴之さんである。彼は10歳頃まで僅かに視力が残っていて、いまも事物のぼんやりとした輪郭や原色の記憶が少しあるという。ケネディの研究に登場する被験者では<早期失明者>に相当するだろう。生まれてこの方、絵画には絶えて接したことがなかったからである。
 彼の作品は洗練されていて晴眼者にそれなりの感銘を与える。確かに<洗練>とか<感銘>のなかみを厳密にいうのは難しい。何を藝術性の基準とするのかは、じつは美学の根本問題である。ともかく百聞は一見にしかず、じかに作品を鑑賞して欲しいと言いたい気にもなる。しかしこの問題への我々の構えは、<藝術とは何か>ではなくて<いつ藝術なのか>という問い立てにある。
 藝術ということで肝心なのは、問題の作品が、人間に可能な――晴眼者だけではなく盲人にとっても――<世界の知覚>に新たなアスペクトや次元を付け加えているかどうかであると(グッドマンとともに)いいたい。この基準に照らして光島さんの絵は藝術だとおもえる。
 要するにケネディの研究は、絵画が触覚的表現でもありうることを示している。だがこのことを、絵画という表現が二つの感覚様相(視覚、触覚)にまたがっているという意味に解してはならない。問題は<感覚様相>の考え方にかかわっている。前回の記事で末尾に記したことを多少修正して引用しておく。

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 〔視覚と触覚という二重の感覚を媒介として絵を描くことができるからといって〕五感の相対的区別が無になるわけではない。そうした区別はあるだろう。しかし〔この事実が含意するのは〕、受容器から神経伝達路をへて大脳へ至るというリニアな結合を神経学的に実体化した上で、単一の感覚をそこへ対応させるという理論を組み替える必要である。
 この種の理論を心理学者・佐々木正人は<感覚様相の縦割り理論>と呼んでいる(佐々木正人『からだ:認識の原点』、東京大学出版会)。おのおのの感覚はそれぞれに固有な特殊な対象をもち、感覚様相の間には厳格な仕切りがあって、そこをクロスする情報の浸透などはありえないというわけだ。
 しかしながら、感覚様相に対しては、むしろ発生的/分化的(genetic-differential)視点からアプローチすべきだろう。

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  <発生的/分化的(genetic-differential)視点>について説明したい。おのおのの感覚様相に分化する以前に(注:これは経験的時間のことを言うのではない。人間存在の機能的生成に即した<順序>の問題である)人間の感官は一通りの原始的様相をそなえていたという仮設をたてたいとおもう。
 光や力学的な圧や化学物質などあらゆる種類の刺激に対して、この原始的様相における感官は敏感に反応する。眼が視覚器官だというのと類比的に、実は身体全体が一つの感官なのである。この様相においては視覚や触覚などの特殊な様相がまだ際立っていないが、知覚-運動系としての身体が複雑化するとともに、特殊な様相が枝分かれしてゆく。分化した様相が本来的な<様相>であるという規定に立つならば、<原始的様相>を<非様相的様相>(amodal modality)と呼ぶこともできる。感官の発生/分化のイメージとしては、基部が育って何本かの幹がそこから分かれて伸びてゆく樹木を想像してもいいだろう。
 <非様相的様相>における感覚が特殊な状態(薬物中毒、酩酊、変性意識状態など)において発現することがある。それが本来の意味での<共感覚>(synesthesia)であろう。この点については、現象学メルロ=ポンティのテクストが雄弁に語っている。引用を交えて多少のコメントをほどこすことにしたい。
 メスカリン中毒者がフルートの音を色として見ることがある。その音は緑青色をしているという。また暗がりでメトロノームの音を聞くと、灰色の斑点となって現れる。ある灰の斑点と別の斑点との間の空間の隔たりは、音と音との間の時間的間隔に対応し、斑点の大きさは音の強さに、斑点が現れる場所の高さは音の高さに対応する!(こうした例は枚挙に暇がないほどだ。)(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、pp.263-264.)
 <共感覚>の現象が「感覚様相の縦割り理論」では説明がつかない点を看過すべきではない。そこで、従来、人は<感覚>の概念を棚上げしたままこれを説明しようと試みた。たとえば、正常な意識状態の場合には脳のある局所(視覚領や聴覚領)に限定された神経の興奮が、薬物の作用で局所の外部でも発生するようになる、というのである。
 この種の説明は、メルロ=ポンティがテクストを執筆した当時には、必ずしも神経学的データ(脳科学のデータ)によって裏付けられてはいなかった。現在では、CT(コンピュータ断層撮影)あるいはMIR(磁気共鳴映像法magnetic resonance imaging)といった画像解析法、とりわけ脳の血流を調べるSPECT解析法によって、脳の機能と構造についておびただしいデータが得られるようになった。
 筆者は具体的データの所在を承知していないが、<共感覚>を経験している被験者の脳について、その視覚領と聴覚領の両方で興奮が生じている事実がデータの上で確認されるかもしれない。
 こうした知見について、メルロ=ポンティなら次のように評価するに違いない(『知覚の現象学』p.264, n.5を参照)。「いくつかの感覚質が並置されてあるということが、共感覚という経験において与えられる知覚的両価性(l’amvibalence perceptive)をわれわれに理解させるなどということはない」と。
 視覚と聴覚の二つの感覚中枢が同時に興奮していることが確かめられたとしても、それは単に客観的身体の機構について何かを教えているにすぎない。ところが、<共感覚の経験>のポイントは<知覚的両価性>――被験者は単に音と色とを同時に経験するのではなく、色が形づくられるその場所に音そのものを見る――にある。簡単にいうと、被験者は<音を色として見る>のだ。
 しかもこの種の知覚的両価性は例外的現象などではなく、知覚の全般について確かめうるふつうの事態なのである。――メルロ=ポンティによるこの「発見」の意義をいくら強調してもし過ぎることはないだろう。
 (もちろん問題は残っている。なぜフルートの音が緑青なのか、なぜ機械的メトロノームの音は灰色なのか、などは別途説明する必要がある。)
 ものの色というものは、事物の内的構造が外部にあらわれたその姿なのである。いくつか例証をあげよう。金の輝きはその等質な組成を、木材の鈍い色はその異質的な構成を示している。種々の感官は事物の構造に開かれることによって、絶対的で孤立した様相を超えているのだ。われわれは、ガラスの硬さと脆さを同時に見るしまた聴きもする(グラスを指で弾いてみよう。その音は<硬さ>と<脆さ>を表意している)。あるいは、タオルの折れ目の形は、繊維の柔らかさや渇きを、冷たさや温かさを示している。
 この種の記号機能は、筆者のいう<再帰的動き>の発現であり、<示し>(showing)の機能であることに注意したい。
 この「発見」をわれわれの観点から再解釈してみよう。実体としての事物に帰属する属性を記述するには、ある種のメレオロジー(mereology; 部分と全体の関係の論理)によらなくてはならない。知覚に与えられる事物は、その属性がそのまま他の属性や全体(実体)に等価であることを示している。(例:フルート、その音、音色は互いに等価である。)
 それゆえ、古典的形而上学が想定したような、絶対的で他の属性から分離しうる<属性>――簡単にいうと、絶対的同一性を認定しうる<属性>――は、ベルクソン流にいえば、科学的認識や生活の便宜がもたらした擬似概念にすぎない。(ここでもわれわれは、<いつ属性なのか>の問いを<属性とは何か>という問いに優先させなくてはならない。)自然な経験においては、一部の属性がその他の属性あるいは全部に匹敵しているものとして事物は現象している。
 「一羽の鳥が飛び立ったばかりの木の枝の動きのうちに、この枝のしなやかさ、もしくは弾性が読み取られ、リンゴの枝と樺の木の違いがただちに見分けられる」という経験を、従来の心理学をはじめとする「科学的理論」は、ことが済んだ後から、出来事としての経験のうちに属性や実体を同定して分離し、それぞれを絶対化したうえでその間に関係をつけようとする。
 しかし真に経験を了解したいのなら、パースペクティブを逆転すべきではないのか。この視点をわれわれは<発生的/分化的>(genetic-differential)と呼んだのである。
 メレオロジーが非正統的論理であるかぎりにおいて、知覚の論理的分析には修辞学の視点が有効であるという予想がなりたつ。そして事実、<知覚物>(le perçue)が<換喩>という修辞の形態を表示していることがわかる。認識論と存在論の探究にとって<換喩>が決定的に重要であることについては、これまで何度も指摘してきたし、主題的に論じた論文(http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/metonymy.pdf)も書いている。ここではごく基本的な点の確認をするだけにしておきたい。
 <換喩>(metonymy)とはレトリックでいう比喩の一形態である。一般には「原因で結果を、結果で原因を、包むもので包まれるものを、記号で記号によって意味される事物を表す」働きをするという。この定義に枚挙された諸関係から公約数をひきだすと、せいぜい〈事実上の関係〉が得られるにすぎない。すなわち、換喩とは、meta(取り替える)+onoma(名)の語源が示すように、ある名が通常指すものと事実上の関係にある別のものを、この名によって指す、という認知の方法である。
 また、これに類した比喩の形態に「提喩」(synecdoche)がある。古典的定義によると、それは「結合による比喩」にほかならず「あるものを、それと一緒にされて一つの全体をなす別のものの名で指す」働きをするという(たとえば、小説『坊ちゃん』の〈赤シャツ〉は教頭を、〈花〉という一般的なもの(類)は桜の花というという特殊なもの(種)を指す)。 
 換喩と提喩との異同ないし関係については専門家の間に議論があるが、ここでは深入りしない。私たちとしては、この二つの形態の比喩を「事実上の関係」を基礎に作られる比喩として一括して扱い、双方を「換喩」の名で称することにする。ちなみに、類と種の関係もやはり「事実上の関係」に還元されることを強調しておきたい。たとえば、桜が顕花植物かつ樹木であることは植物学的事実にすぎず、論理学で証明できるようなことではないからである。
 以上で定義された<換喩>――それは記号系ないし表象の形態である――が知覚物の存在構造に同型であることは容易にこれを確かめることができる。この構造のゆえに、人間はある感官の機能を失っても、ほぼ同じように対象の認識を正しく行なえるのである。視覚障害者に絵が描けるのもそのためである。
 さて、「盲人の絵画」をめぐるケネディの論文に帰ろう。そこに盛られた知見を紹介しつつまた新たな論点を掘り起こすことにしたい。(つづく)