視えない絵画を知覚する (1) 盲人の絵と感覚

namdoog2006-09-05

 絵画とはなにを言うのだろう。この問いに応じるのはそれほど安易な仕事ではない。例えば、<絵画>をこう定義してみる――空白の平面を図形や色彩でうめてゆくことで何かしらの視覚的イメージ表現する方法であると。だいたいはこれでいいのかもしれない。ただひっかかるのは――以下に掲げる理由で――主として<平面>それに<視覚的イメージ>の二点である。じつはその他の要素はまあ付帯的なものだから、絵画の定義に関してこの二点を問題視するのは、実際には絵画がなにかがまるでわかっていないことに等しい。
 まず絵画が平面的かというと、必ずしもそうではない。いわゆる日本画では問題になりにくいが、油彩画の場合、文字通りに平面的な絵などはないといって過言ではない。(もちろん平面的な絵画はりっぱに存在している。それを否定するのではなくて、一般的にいって絵画が平面の表現かどうかが問題なのである。)絵の具を厚く塗り重せることで効果を狙った絵画技法がある。それはまるで浮き彫りのようなのである。またポロックの絵など、絵の具をカンバスに幾重にも垂らし込んで画面を立体として作っている(ドリッピングの技法)。さらに立体派や未来派の絵などで多用されたコラージュの技法では、絵の具以外の実物つまり新聞・布きれ・針金・ビーズなどを画面に貼り込んで立体的な造形を試みている。(<コラージュ>とはフランス語のcollage,つまり<糊付けすること>の謂いである。)
  例に挙げた技法は、絵画の平面性を何らかの意図で打破しようとするものだ。いわばアヴァンギャルドのやり方である。しかしながら、実は油絵に限らず、表現効果を実現するために画面に肌理(きめ)を作ることをする。これは絵画のきわめて一般的な手法にほかならない。肌理とは<表面の肌合い>のことである。これではあまり説明にならないかもしれないが、大事なのは肌理が本来触覚の対象であるという点である。
 肌理のことを美術評論家などは<マティエール>(matière)というが、要するに画面の材質感(例えば、ごつごつしている、平滑である、密である、ガサついている、メタリックである、など)のことである。換言すれば、絵画を作り上げている素材感と言ってもいい。<マティエール>の訳語として<絵肌>が用いられることもある。(日本画について改めて考えてみれば、やはり油彩画と同じような問題が認められるだろう。おそらくはどんな文化の絵画表現でも例外ではないはずだ。)
 絵画は必ずしも平面の表現ではない。逆に言えば、絵画は立体的でありうる。このことから導かれる一つの問題は、絵画は純粋に視覚の藝術ではないかもしれない、という疑いだ。なぜなら、立体的なものは<触覚>でも知覚できるからである。(デカルトが視覚を触覚モデルで説明したのはよく知られているが、いまその議論に立ち入るつもりはない。)絵画は視覚藝術だという決めつけには根拠がない、という点を強調しておきたい。
 前回このブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060808)に取り上げたが、視覚障害者は「絵画」表現をなしうるかどうか、という問題がある。もし実際に「盲人が絵を描く」のであれば、われわれの言い分は正しいことになるだろう。
 ところで、視覚障害者――詳しくは<早期失明者>つまり先天盲の人や早期の幼児期に失明した人――の絵画については詳しい認知心理学的研究がかなりある。それを代表するのは、現在トロント大学で教えているJ. M. ケネディ(John M. Kennedy)の業績だろう。主著は、Drawing and the Blind: Pictures to Touch, Yale University Press, 1993. この本の要約にあたる文章は日本語で読むことができる(すなわち、「盲人はどのような絵を描くか」(『日経サイエンス』、1997年4月号)である)。その内容を――適宜筆者のコメントを交えつつ――紹介しながら、論点の掘り起こしを試みたい。
 ケネディ教授(余談だが、この名から推してアイルランド系かなと思いつつ略歴を見ると、果たして北アイルランドベルファスト生まれ、とある)が本格的研究にとりかかるきっかけはベティとの出会いであった。彼女は2歳の時に失明したので、<絵を描く>という習慣が身につくことなくその後を過ごしたに違いない。(この事実確認は重要な理論的含意をもつ。)ところが成人した彼女が「家族の横顔を描くのが好きです」と言うので教授はひどく驚く。
 こうして、他の視覚障害者にも協力をあおぎ、<視覚障害者が絵を描く>という主題を体系的に研究することになるのだが(日本人研究者との共同研究もその一部をなす)、まず被験者に絵を描いてもらうための装置を考案することからスタートする。ここがケネディ教授の研究が優れている点の一つ。(要するにその器具は凸線で絵を書く道具である。)盲人は自分が描いている絵画作品(上図はその一例)を目で確かめながら――視覚的フィードバックを利用しながら――描くことができない。晴眼者の絵画が視覚中心の営みであるに対して、盲人はそれ以外の感覚(すなわち触覚と運動感覚)を使用して絵を描く。明らかに晴眼者の使用する絵の道具や素材ではまにあわない。盲人が絵を描くのには特殊な道具がいるのだ。
 しかし作品がおおむね平面の上で制作される点は両者で共通しているし、そうでなくてはならない。盲人は塑像やレリーフを製作することができるが、それを<絵画>とは呼べないのは当然である。(とはいえ、<視覚/触覚>の二項対立を絶対化して議論するのは危険である。また実際、この研究もそうした対比のある意味での相対化を結論として導いている。)
 研究の結果わかったことをかいつまんで紹介する。まず盲人は、輪郭線だけで描かれた横顔の絵を絵として識別できることがわかった。問題の図像が正面を向いた顔ではなく、横顔である点に注意。つまりパースペクティブ(遠近法)に即した事物の形態を課題とすることで、イデアルな形態(知覚ではなく知性で構成された形態)と区別しているのだ。この点については、幼児が描く<人間の顔>がきまって正面のそれである事実を想起すれば理解できるだろう。
 例えば、「あごひげ、笑い、大きな鼻」といったヒントとなる単語を提示して、その特徴を最もよく表す絵を盲人グループに選んでもらう。正解率を晴眼者のグループと比較すると、わずかに劣っていたものの正解率は高かった。
 要するに、今まで視覚をまったく有しなかった人でも、顔や他の事物の<見え方>について感覚を持つことができる。(もちろん<見え方>とあえて言うのは、<見え方>を視覚に縛りつける考え方を相対化するためである。)
 さらに、盲人は遠近法的な描き方ができることがわかった。ある被験者に①L字型の積み木と立方体の積み木が横にならんだところ、②立方体の方が被験者から「見て」遠くにあるところ、の二つの状況を絵に描いてもらった。①では二つの積み木を同じ大きさに描いたが、②では立方体の積み木をL字型の積み木より小さめに描いたのである。盲人にとって、遠近法のある側面は確実に理解されていることがわかる。
 もっと複雑な課題を出して実験した結果、盲人が透視画法をちゃんとわかっていることが知られた。例えば、盲人は、四角い木製のテーブル(もちろん脚は四本)の各種の展開図を<机>に適切に結びつけることができるし、机の下にもぐりこんで見上げたときにどう机が「見える」かという課題に正しく答えることができたのである。
 興味深いのは、絵画的隠喩の表現である。盲人は五種類の車輪の絵を識別することができる。車輪がガタガタ動くさま、すばやく回転する車輪、安定した回転、ぎくしゃくした回転、ブレーキを掛けた車輪の5種類である。(全部の説明は割愛するが、例えば、ブレーキを掛けた車輪は輻(スポーク)が車輪の外にはみ出ている絵で表現される。)絵は文字通りには動いていないから、この絵は隠喩でしかない。(非字義的な絵画表現を盲人が晴眼者と同じように理解している事例は他にも多くあるが、これも割愛せざるを得ない。)
<感覚>の問題 
 以上の観察からいくつかの論点が明確になる。第一に、感覚様相(いわゆる五感の区別)の考え方を新たに組み替える必要があるということ。
 絵画を単純に<視覚的なもの>として絶対化することの誤りは、これまでの観察から明らかだ。視覚のない盲人は絵を描くことができるしまた絵を「見る」こともできる。盲人の場合には特に触覚が働いている。触覚は刺激を圧として取り入れ視覚は光のエネルギーを取り入れている点で、両者は刺激の質としては異質である。それにもかかわらず、事物の形態について(あるいは外界について)いわば正しく情報を処理できている。しかも盲人の絵画は晴眼者にも理解できる。つまり、表現の所産は特定の感覚様相に縛り付けられてはない。というより、それは多重な様相を同時にひとつの様相へ統合した表現になっている。この多重性を個別の様相へとバラバラにしてはいけないだろう。
 最後の点は、じつは健常なプロの画家が描いた絵にもそのまま妥当する。近代絵画のさまざまな技法や<マティエール>について上で述べたが、絵画は単に視覚的に享受されているのではなく、(たとえ手で触れないまでも)目で触れることで鑑賞されているといえよう。ここには触覚的情報の視覚的転調とでもいうべき現象がある。視覚が働きとして十全であるために、当然のこととして触覚の協同を要請するのだ。<目に触れる>とか<嘱目>という言い方を真面目に受け取らなくてはならない。おのおのの様相が互いに侵食しあうことでかえってその働きがまっとうされるという逆説。
 だからといって、五感の相対的区別が無になるわけではない。そうした区別はあるだろう。しかし、受容器から神経伝達路をへて大脳へ至るというリニアな結合を神経学的に実体化した上で、単一の感覚をそこへ対応させるという理論を組み替えなくてはならない。
 この種の理論をギブソニアンの心理学者・佐々木正人は<感覚様相の縦割り理論>と呼んでいる(佐々木正人『からだ:認識の原点』、東京大学出版会)。おのおのの感覚はそれぞれに固有な特殊な対象をもち、感覚様相の間には厳格な仕切りがあって、そこをクロスする情報の浸透などはありえないというわけだ。
 しかしながら、感覚様相に対しては、むしろ発生的/分化的(genetic-differential)視点からアプローチすべきだろう。知覚の分析にあたり<視覚>をリアルな所与とするのではなく、<いつ視覚なのか>という問いをつねに携えて観察すべきではないのか。(つづく)