言語音のシンボル機能への展開

namdoog2006-08-31

 <言語音の誕生 ――共鳴する身体>と題した本ブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060610)において、初発の言語音の生成を機能論的観点から分析する道筋をしめしたのだったが、その際、初めての言語音が一面ではアイコン(類像)他面ではインデックス(指標)として機能することを指摘した。しかしながら、パースの記号分類学における第三の記号タイプ、すなわち<シンボル>については放置せざるを得なかった。
 あらゆる記号機能が少なくとも胚種として原初の言語音に内属しているのでなくては、それがいつか生起するということはありえない。もちろん問題は十全に展開をとげた言語体系ではない。われわれが形而上学的顕微鏡で拡大しようとしたのは、言語体系が音声質料から立ち上るために深く穿たれたいわば蟻の一穴にすぎない。
 ところが、このあまりに小さな音声がすでに多面的な機能をそなえていなくては、繰り返すことになるが、一つの種としての音声が多重に生成し複合しやがて体系として大樹のように育ったとき、その胚種に内属する機能が再帰的に規模や質において異なる他の機能へと展開することなど不可能になるだろう。
 あらためて問いを立てたい。パースの記号分類学で<シンボル>と名づけられたタイプの記号は初発の言語音とどのようにかかわるのだろうか。
 パースによれば、<シンボル>とは記号表現が<習慣>に基づいて対象を代表するような記号の形態である。
 パースによる<シンボル>の定義は各種各様であるが<習慣>(habit)ないし<慣習>(convention)とのかかわりで定義を試みた節(CP, 8.335)を引用しておこう。「私は<シンボル>をそれの力動的対象によって――そのように記号が解釈されるだろうという意味においてのみ――規定された記号と定義する。それゆえ<シンボル>は慣習や習慣、あるいはそれの解釈項ないし解釈項の場(そこで解釈項が決定されるような場)の自然な性向である。」
 パースの<習慣>概念を考えるときに注意しなくてはならないのは、第一に、それが日常語としての「習慣」を意味論的に分析したものではないことである。もちろん<習慣>概念が日常語の意味に関係がないというわけではない。日常語を無視したら主題について思索する道が絶たれてしまうだろう。にもかかわらず、概念秩序と語の意味の秩序とは連続と切断あるいは重なりとズレとの錯綜のうちにある。
 第二に<習慣>は心理学的リアリティに無関係ではないが――というより、心理学的な意味での<習慣>に概念としての源泉をもつのは確かであるが、概念それ自体としては<心理学的概念>というわけではない。他に言葉が見つからないので、それは<記号学的概念>であるとでもいうしかないだろう。(以前にも見たように(例えば、http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060413)、<習慣>は物理的現象にとっての秩序やパターンの原理である。例えば自然法則は<習慣>の賜物なのである。)
 ところで第一回目の言語音が構成されるとき、それを規制する<習慣>はいまだ形成されていないのではなかろうか。初めての単一な言語行為に対して、どのような意味で<習慣>の介在を認めうるのだろうか。なぜなら二回、三回と同じタイプの言語音を繰り返し口にすることが、結果として言語的習慣を作り出すと思えるからである。――<シンボル>と<習慣>とのかかわりについて誰でもこうした疑念をもつはずだ。
 ここで<習慣>概念の記号学的性格を想起すべきだろう。それは記号主義における<術語>であって、日常語や心理学的観念とは区別しなくてはならない。少し先を急いで結論めいたものを言えば、初発の言語音が成就したあかつきに、逸早く、当該の言語音に固有な習慣形成がなされたと言えるし、そう言わなくてはならない。
 心理学の観念としては、<習慣>とは学習によって後天的に獲得され比較的に固定化するにいたった反応の様式だという風に規定できるかもしれない。記号主義の<習慣>概念を考えるうえでここをスタートとしてみよう。
 この説明の前半部はあたかも試行錯誤(trial and error)あるいは行動の反復が習慣を作り出すと言っているようにおもえる。ところが後半部は、<固定化した反応の様式>に言及することで、習慣に関して、その一般性・理解可能性・パターンないしルールなどの特徴を抽出している。言い換えれば、ある反応の様式が一回限りのものではなく一般性をおびルールを体現しているときそれは有意味なものとなるのだが、そうした様式を<習慣>と呼ぶというのである。
 現象学的な言い方だと、「身体が一つの新たらしい意味の核を同化したとき、身体が理解した、習慣が獲得された、といわれるのだ」となる。〔メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を参照。〕
 習慣獲得を<学習>の視点から眺めると、ルールとしての習慣が形成される以前にルール化されていない行動が繰り返し反復されるのがわかる。しかしながら、この「行動」はじつは<行動もどき>でしかない。<ルール化されていない>という行動の様態については、<ルール化するもの>としての<習慣>を先取りすることで初めてそれへの言及が可能となる。習慣問題の核心をなすのは<習慣的な行動はどのようにして可能か>という問いなのである。それもまた日常的あるいは心理学的な意味での「習慣」によるのだと応じるなら、われわれは無限に後退する破目になる。従って<習慣>概念の核心は<ルールの現実化>ということにある。そしてそれとの関係においてはじめて、他の観念(<習慣の獲得>その他)について派生的に問うことも可能となる。<習慣>は規定する概念(determinant concept)であって、規定される概念(determinate concept)ではない。
 <習慣>の生成を認知の視点から見直すために、<グッドマンのパラドックス>を省みることにしよう。エメラルドのうち、今日までのところミドリ色をしているもの、あるいは明日以降アオ色であることが判明するものを、一口で<ミドオ色>――これは<ミドリ色>と<アオ色>を合成した述語である――と呼ぶことにしよう。今日までに知りえたすべての証拠が「あらゆるエメラルドはミドリ色である」という全称命題を裏づけるが、しかしそれらは同時に「あらゆるエメラルドはミドオ色である」という命題の裏づけでもある。それゆえ、あるエメラルドはアオ色である!
 このように帰納は正当化されない。にもかかわらず、人は事実上正しい帰納と間違った帰納とを弁別している。論理的妥当性の点で遜色ない二つの述語<ミドリ色>と<ミドオ色>を人は実際には差別している。この効果をもたらすのは、グッドマンによればどちらの述語が習慣に合致するかという経験的事実にすぎないという。現実世界に適合する述語や仮設あるいは法則などを、そうでない述語・仮設・法則から分け隔てるものを、グッドマンは<習慣の守り>(entrenchment of habit)と呼ぶ。〔<グッドマンのパラドックス>とその意義については次の箇所が巧みに語っている。グッドマン/エルギン『記号主義』(みすず書房、2001)pp.17-28.〕
 エメラルドの色を描写するという課題に対して、人は<ミドリ色>という述語を作り出すことで応じている。なぜならそれが<言語的習慣>だからである。あるいは、人が<ミドリ色>をその他の述語を押しのけて採用するのはそれが<習慣>に守られているからである(entrenched)。すなわち、言語的カテゴリー化は、そのまま言語的習慣の形成にほかならない。この論点を一般化するとき、われわれは、カテゴリー化がただちに習慣の形成であることを知るのである。
〔追記; 任意のカテゴリー化が習慣によって実現するなら、正しいカテゴリーと正しくないカテゴリーの差が失われてしまうのではないか、どんなカテゴリーも習慣に依拠するからである。――この疑問に対しては、以下のようにいくつかの論点から応じることができる。第一に、<カテゴリーの正しさ>を生成の場面と経験の場面にわけて論じる必要がある。目下の議論は経験的場面の範囲を動いてはいないから、その疑念は成り立たない。グッドマンの議論はその意味ではやや荒っぽいといえるかもしれない。第二に、<習慣の守り>と<習慣>とを概念的に分けるのは可能であるが、言語カテゴリーが生成するという事態においては、二つは弁別不可能ではないだろうか。つまりカテゴリーが形成されるときいち早く<習慣>がそれを支えているのだから、これはすなわち<習慣によって守られている>ということである。結局、後者の論点もやはり<生成/経験>の区別につながってゆく。
 話が抽象的でわかりにくいかもしれない。ここで筆者は、グッドマンがカッシーラーの業績について記号主義からコメントした短いパラグラフを想い出す。カッシーラーはご存知の通り新カント派で基本的には超越論的認識論から出発しそれを記号(Symbol)の問題として拡張したのであった。科学・藝術・神話・知覚などすべてが(文化という領域が、と称してもいい)記号の形式だと見なされた。きわめて明瞭に、人間とは<記号機能を営む動物>だと規定された。グッドマンは確かカッシーラーの仕事の徹底化として自分の仕事を特徴づけていたように記憶する。
 上の論点を補っておこう。生成の場面でカテゴリー化が実現したとき、経験の裏打ちがすでにあるかぎり、それは「正しい」カテゴリーをもたらす。この意味では経験されたかぎりでの<感覚>が間違うことがないのに似ている。例えば<私に赤いものが見えている>という経験はこれが客観的に錯覚だとみなしうる場合でも感覚それ自体として誤りではない。真偽でありうるのは(言語的)言明であるにすぎない。
 しかし経験の場面でのカテゴリー化の正しさはまた別の基準を要求する。当のカテゴリーが他のカテゴリーと整合性があることも一つの基準であろう。問題は、一般に認識論的価値としての<正しさ>をどのような基準で規定するかという問題に帰着する。これはそう単純な問題ではないがある程度の解明はなされている。グッドマンの議論に不足しているのは生物学的意味での<エコロジック(環境論理)>の視点であろう。根本に立ち返って記号現象を直視すると、それが生物学的現象として出現するのを見るだろう。機能主義的意味論ないしプラグマティズムはエコロジックによって深める必要がある。前に言及したミリカンの仕事が注目される所以である。〕
 以上の考察から、初発の言語音に関してひとつの知見をひきだすことができる。幼児が初めて口にした明らかな言語音は、アイコンやインデックスの機能を有すると同時に、それが言語的カテゴリー化と認知の営みであるかぎりで、ただちに習慣の形成であり、それゆえ<シンボル>として機能している、と。
 日常的な<習慣>には合理性(rationality)の<盲目的な>根拠という意味合いがある。人がある行動を遂行したとき、「どうして何のためにそのような行動をしたのか」と問うことができる。君が「なぜ君はレストランでタバコを吸うのか」と傍らの人に問われたとする。君はいろいろと理屈をいってその行動の理由(reasons)を説明するかもしれない。しかしそうしないで単に「これが自分の習慣だ」と答えることもアリだろう。(この場合の<習慣>は<クセ>とか<性癖>とほぼ同じだ。)
 前掲した心理学的観念では<習慣>を<学習によって後天的に獲得され比較的に固定化するにいたった反応の様式>と規定していた。こうした規定の内容と<ルール形成の原理としての習慣>という考え方は無理なく調和する。しかしながら、記号学的概念としての<習慣>に<学習>という要素を直接含めることはできない。<習慣>は(経験を可能にするその制約という意味での)超越論的概念――われわれはむしろ<記号主義的概念>と呼びたい――であって、経験的概念ではないからである。
 学習理論に登場するいろいろな観念――条件反射、オペラント条件づけなど――は<習慣>概念と関係しないわけではないが、直接的なその要素でない。ここからわかるのは、<シンボル>としばしば結び付けられる<記号の規約性>は、シンボルにとって本質的条件ではないということである。
 精しい観察は今後の課題であるが、<シンボル>が一見その対象と自然のつながりが何もないとおもえる例――犬を/inu/という言語音で表す必然性はないように見える――においても、じつは初発の言語音にまで遡ることができるなら、その語のシンボル性の陰にアイコンやインデックスの働きが再発見できるかもしれないのである。そのかぎりでソシュール言語学における<言語記号の恣意性の原理>は明白に覆されることになるだろう。(経験科学としての言語学が実際そのような研究を実施しうるかどうかは大いに疑わしいのであるが。)