ドーキンスのと

namdoog2006-08-24

 ドーキンス利己的な遺伝子』(Richard Dawkins, The Selfish Gene, Oxford University Press, 1976)は、われわれが当面する問題に対していくつかの論点を明らかにしてくれる。この本は人間を<遺伝子を生き永らえさせるべく盲目的にプログラムされたロボット>と見なす暗澹とした(?)人間観のために、発刊と同時にセンセーショナルな反響を巻き起こした。
 しかしここでは、本書の本来の思想である<利己的遺伝子>について論じようとはおもわない。われわれはむしろ、本書が一章を割いて議論を展開したその文化論あるいは<ミーム>の概念について少しばかり考察したいとおもう。
 (以下で参照ならびに引用するテクストは、ドーキンス利己的な遺伝子』(日高敏隆ほか訳)、紀伊國屋書店、1991、である。)
 利己的遺伝子が人間を自分達のための「生存機械」に仕立て上げているという論点は、何も人間だけに当てはまるわけではない。それはまた例えば猫にも大腸菌にもあてはまる。ドーキンスが認めているように、彼の展開してきた議論は「一応は、進化のあらゆる産物にあてはまるはずなのである。」しかしつづけて彼はこう述べている。「(…)われわれの属する人間という種を特異な存在とみなす妥当な根拠はあるのだろうか。私は、そのような根拠は確かに存在すると信じている。」そしてこの人間の特異性とは、ドーキンスによれば「文化」という言葉に要約できるものである。
 人間は生物種として「進化の産物」にほかならないから、他のあらゆる生物種と同様「生存機械」である――しかしこれは生物学的規定であり、例えば「人間はある種の霊長類である」という規定と形而上学的=認識論的資格においてたいして異ならない。したがって、この規定性が<人間>に託された尊厳なり人間性なりを危うくするはずもない。(<人間性>やら<人間の尊厳>がどういう内容のものか、そうしたものがリアリティをもつのかは、もちろん別の問題であるが。)人間が生物としての制約を負うことは自明だからだ。(もっとも科学の認識としての価値を否定するなら話は別である。あるいは、進化論以前の純粋な信仰を守ろうとする人にとってもこれはショックかもしれない。)
 例えば、人間が空を鳥のように飛べないからといってそれが何なのだろう。この生物学的制約が人間存在にダメージを与えるとは思えない。なるほど、知的生命体としての人間は技術的にこの制約をある程度は克服している。だが、それにも限度はある。技術(文明化)にはどこまでも生物学的制約がつきまとうのだ。
 人間が生得的に背負っている<生物学的制約>(biological constrains)は人間の能力を押さえ込むだけに働くのではない。むしろこの制約のおかげで人間は環境から情報を引き出し適切な反応や行動でそれに応じることができる。<生物学的制約>は人間的経験を可能にする<種のアプリオリ>にほかならない。すなわち、それぞれの種に固有な制約のせいでおのおのの生物個体は巧みに環境に適応できるのである。(こうした考え方は心理学や動物行動学などの分野では一般的なものになっている。例えば、藤田統「行動の適応と進化」『動物心理学研究』40、2-17、1999、を参照。)
 <制約>ということをいうなら、そもそも人間は他の生物種と同じように<物質>から出来ている。つまり人間は物質としての制約を蒙っている。物質は壊れるしその働きにも制限がある。これは根本的制約だ。もちろんわれわれは、人間が「単なる」物質だなどと言いたいわけではない。還元主義はわれわれのとる立場ではない。(ちなみに、超能力などあらゆる超自然的要素はここでは問題外としておく。)
 引用のレトリックにいったい何人の読者が気づくだろうか。<人間>の語が同時に多義的に遣われることで――<人間>とは、homoつまり生物種としての<ヒト>なのか、<人類>なのか、人格としての<人間>なのか、あるいは…――はじめて引用の主張は読者からセンセーションを惹き起こすことができる。換言すれば、<人間>は多重な外延指示を同時におこなう語であるからこそ、この主張は有意義なのである。
 こう言うことで、われわれはドーキンスの議論が間違えだと裁断するつもりはない。われわれがふつうに生きている言語は――<自然言語>などというミスリーディングな用語で呼ばれているが――記号系としては異種のヴァージョンからなる混交体である。他の例で言うなら、われわれは天動説的ヴァージョンと地動説的ヴァージョンを平気で混ぜ合わせて世界像を構成している。この世界=ヴァージョンの複数主義がわれわれの言説の運命にほかならない。ただしこのことに無自覚であってはならないというまでである。(次の記事を見ていただきたい。http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060627
 このように整理すると、ドーキンスの発想に従来の人間観を覆すほどの斬新さは見当たらない。すなわち、人間は一方では遺伝子に左右される生命的機構であり、他方で(多分他の動物にはない)文化を創出した特異な生物でもあるという。ここに横たわるのは例によってあの<自然/文化>の二項対立なのだ。その意味では本書は平凡である。
 これを乗り越えるための議論をおこなうことは遠慮しておこう。われわれはドーキンスの議論のメリットに目をむけたい。すなわち、<人間は文化を創出する>という事態を、遺伝子に機軸を据えた議論の延長のなかで解明しようとした点である。こうして<ミーム>の観念が提示されることになる。
 遺伝子(gene)は自己を複製する要素(自己複製子)である。これと類比的に、文化を創出しつつそれを担う新たな自己複製子を彼は<ミーム>(meme)と呼ぶ。(あえて訳せば、<模倣子>となるだろう。ちなみに、この語はすでにかなり一般化していることが窺われる。例えばThe New Oxford Dictionary にこの語が載っている。その定義は、an element of a culture or system of behaviour that may be considered to be passed from one individual to another by non-genetic means, especially imitation、とある。簡にして要を得た定義だ。)これは「文化伝達の単位、あるいは模倣の単位」という概念を伝える名詞である。「楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例である。」「遺伝子が精子卵子を担体として身体から身体へと飛びまわるのと同様に、ミームミームプール内で繁殖する際には、広い意味での模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩く。」
 <ミーム>についての基本を知るには以上の引用で十分である。われわれの見地から要約しておきたい。
 1.<ミーム>とはさまざまなレベルにおける単位的記号系である。古めかしい哲学で<表象>(representation)と呼ばれたものにほぼ相当する。
 2.注意すべきは、<ミーム>が必ずしも言語的なものではない点である(「楽曲や、思想、…」)。この点は<単位的記号系>という言い方に適合する。概念、身振り、音声、道具などの一切がそこに含まれる。
 3.<ミーム>は自己を複製する機能をそなえた要素である。従ってあるタイプの<ミーム>は複数個存在しうるし、事実上たいていはそうである。このタイプの二つの<ミーム>は互いに類似している。なぜなら、複製というプロセスは一方の<ミーム>の属性を他方に移転することに他ならないから。
 4.<ミーム>の機能が同一性を保証されるのは、<ミーム>が他の<ミーム>に対してとりうる関係が<類似>だからである。しかし、あるタイプの<ミーム>の機能は進化せざるを得ない。つまりその同一性に変容が招来されることを回避し得ない。
 4で言及した<ミーム>の進化について、うえの引用は十分に語っていないので、そこを補っておこう。
 グールドによれば、<進化>には自然的なものと文化的なものとの二種類がある。人間以外の種でもすでに<文化的進化>の形跡を認めることができる。例えば鳥のさえずり。ある研究者は、特定のさえずりを行なう鳥(ニュージーランド沖のある島に住むセアカホオダレムクドリ〔写真を参照〕)について調べた結果、さえずりのパターンが遺伝的に親から子へ伝わるのではないことを見出した。若い鳥は他の個体のさえずりを「人間の言語の場合と同様に模倣という手段によって」自分のものにする。ところが、若い鳥が古いさえずりを模倣し損ねて、新しいさえずりを「発明する」ことがおこる。新しいさえずりの出現を研究者は<文化的突然変異>と呼ぶ。(ここにも、明らかに自然/文化の二項対立の図式が横たわっている。)
 「遺伝子を単位とする古い進化は、脳を作り出すことによって、最初のミームの発生しうる「スープ」を提供した。ついで自己複製能力のあるミームが登場すると、彼らは、古いタイプの進化よりはるかに速やかな、独自のタイプの進化を開始したのである。」
 さてドーキンスのテクストから離れて、われわれ自身の探究へいったん戻ろう。われわれは、<言語音>の機能的生成を構造的に記述するとき、言語音が対象と共鳴するという事態が見出した。
 (分析のシノプシスとして、http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060610を参照。)
 <共鳴>は二つの記号系のあいだの共振であり、形而上学的には、属性の共有である。これはとりも直さず、<言語音>が対象を模倣する振舞いのことである。そこでわれわれが問いたいことがある。<ミーム>の思想とわれわれの考察はどのように関連するのか(しないのか)と。
 ドーキンスは<ミーム>という新しい名称を使用しつつ<表象>や<記号>の問題を問い直したのだといいうる。そのメリットは、<記号問題>を(生物学的な意味での)進化論のロジック(生存価、自然選択、突然異変、などの概念)と結びつけたことである。(この着眼点は、スペルベル『表象は伝染する』(新曜社刊)で独自な見解を交えて展開されることになる。)これが逆に、進化論に記号論的側面を付与する効果を生んだ。
 しかし、われわれとドーキンスの隔たりは埋めることができないほど深く広い。彼は<ミームの生成>の問いをもっていない。いや、その理論枠組みを守る限り、この問いを問うことができないのだ。彼の議論の饒舌や華やかさにもかかわらず、意外に実質的内容が乏しいとの印象はこれを否定できない。その真因はこうした不可能性にあるだろう。そうだとすると、<ミーム>という観念の導入が画期的成果をもたらした、というのは誇張ではないのか。(同様に、生物学者は<遺伝子>の概念を前提とするだけで、その機能的発生を問わないですませている。とはいえ、<遺伝子の発生>に生物学的アプローチができない、というつもりはないが。)
 ドーキンスは<文化的進化>の要因として<文化的突然変異>に言及するが、これはそれ以外にやり方がないためにすぎない。<文化的突然変異>はそのメカニズムが明らかにされない限り空虚な説明である。
 われわれの立脚するのは記号論形而上学である。われわれは<ミーム>の機能的生成を問いたいし、そうしてきた。そこへ一定の見通しを与えることができたともおもう。<言語音>はもちろん<ミーム>の一種である。<記号の問い>を機軸として新たなヴァージョンを作るためには、ドーキンスの枠組みを乗り越えつつ<ミームの生成の問い>を正面から問わなくてはならない。
 このことは、ミーム論と記号生成論との単なる並立あるいは分離を意味しない。両者の<分離>はかえってあるべき双方の<統合>を予想せずにはいないだろう。そのことがミーム論の立論に効果を生むはずであるし、その逆も成り立つ。
 <統合>という問題意識を堅持しつつ近年の言語思想を俯瞰すると、ミリカンの業績が視界にうかびあがる。以上の文脈においてミリカンの<生物意味論>(biosemantics)の達成をどう評価したらいいのだろうか。R. G. Millikan, Varieties of Meaning, Cambridge University Press, 2004 を一通りのぞいて見たかぎりでは、他の諸問題については興味深い解明がなされているにしても、こと<記号の機能的生成>の問題になると、ドーキンスの場合と同じような不満を禁じえない。すなわち、この著作において、言語の機能について生存価、自然選択、突然異変などの概念からの見直しがなされてはいるが、まさに言語の誕生が記号系の<再帰的動き>としてどのような形でなされたのかについての考察はない。読者がこの本に見出すのは、言語の成立が既定事実として前提された上での議論なのである。彼女の業績にははやくから関心を惹かれてきたが、インテンシブな研究をしたとは言えない。それゆえこのコメントは暫定的なものである。なお彼女の業績に関して信頼できる論評があればその所在を知りたいものである。