言語の生成相としての

namdoog2006-08-21

 記号にはどのような種類があるのだろうか。記号のタイプを分類する課題にパースが一途に取り組んだことはよく知られている。いく通りか案出された記号分類のうち最も人口に膾炙されたものは、アイコン(類像)・インデックス(指標)・シンボル(象徴)という三つ組みであろう。
 言語を習得していない人が初めての言語音を獲得するとき、この初発の言語音が類像性をそなえることはただちに見て取れる。(この点については、すでに分析の要点だけを述べてある。http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060610 詳細については後日明らかにしたいが、ここで言いたいことはそう込み入ったことではない。)例えば、幼児が鳩を#ポッポ#という音声によってカテゴリー化できたのは、この言語音と鳩がある属性(音声としての鳴き声)を共有する点で類似しているからである。
 このことは、しかしながら、初発の言語音がアイコンだ――つまり<アイコン>という種類の記号である――ことを意味するわけではない。なぜなら何かあるものが記号でありそれが実際にアイコンだとしても、記号というものの常態として、それは別のタイプの記号に成り代わりうるからである。
 例えば、ある宰相の銅像は本人を表すアイコンである。なぜならば、銅像は本人の姿に似せて制作されたからだ。ところが他方、素材である銅の同位元素が制作年代の手掛かりとなるかぎりで、この像はインデックスでもある。
 話はこれでは終わらない。いま三人の歴代首相の銅像を追加制作することにしよう。あわせて四体の銅像をそれぞれ近畿四県のシンボルとして随意に使用してもかまわないだろう。
 このようにして、パースによる記号分類の眼目は――パースの意には反して――記号タイプの類別ではなく記号機能の類別にあると言わなくてならない。〔補遺;その後テクストを注意してみたところ、これはパースに責を負わせることができない過失ではないかという可能性を強く感じるようになった。すなわち世のパース研究家がパースの真意を取り損ねていたのではないのかという疑いが濃くなったのである。例えばパースは指標に言及しながら、「指標は特殊なものであるが、やはりある種のアイコンを含んでいる」と明言している(2.247)。その他これに類した言明があちこちに見出される。一例をあげると、「シンボルは特殊なある種のインデックスを含むであろう」(2.249)とある。〕
 〔インデックスに関してパースその人も次のような観察をおこなっている。「不可能とはいわないが、完全に純粋なインデックス、逆にインデックス性の完全に欠如した記号を見出すことは容易ではないだろう」(C. S. Peirce, Collected Papers, 2.306)と。ようやく彼が見出した「純粋なインデックス」は、言語的なもの――指示代名詞と関係代名詞――であった(3.361)。なぜならそれらの言語要素は、単にモノを指示するだけで記述は何もしないからである。――それにしても、なぜ二例の例外しか純粋性を保ち得ないかその理由は明らかではない。〕
 人が初めて作り出した言語音がアイコン性を呈するということは、この語がオノマトペであることを言うのだろうか。一見すると事態はそのようにも見える。なぜなら♯ポッポ♯は、確かに鳩の鳴き声に類似する音声として聴取されるからである。とするなら、あらゆる語彙がオノマトペに起源をもつことになるだろう。だがこうした推断は――論証すべき命題を前提に立てているという意味で――<論点先取>の過ちを犯している。♯ポッポ♯が鳩の鳴き声の模倣であるという前提は、この言語音がオノマトペであることを意味するからである。
 初発の言語音(われわれの例では♯ポッポ♯)が属性の反復によって構成されたという命題は、その属性が必然的に音声であるという命題を含意しない。選択される属性は鳩の仕草でもまた形態でもよかったからである。
 〔このことは語彙のなかにはオノマトペに起源をもつものがあることを否定するものではない。ソシュールは、オノマトペについての曖昧な考察に基づき、オノマトペ起源の語彙の可能性を斥けているが、その議論には妥当性がない。『一般言語学講義』を参照。〕
 言語音が呈するアイコン性の根拠は記号系の<再帰的動き>という形式性にある。この形式をどのような属性で実質化するかは別の問題なのである。
 にもかかわらず、この形式性が言語音の制約であるかぎり、反復される属性は音としての質をもたざるを得ない。換言すれば、原初の言語音はそれが代表するものに必ず音の質を付与するのである。(わかりやすい例をあげれば)夜の更けゆくさまが<しんしん>という音声で形容されるという具合である。
 こうした意味で、言語音はつねに<音象徴>(sound symbolism)として生成する。言い換えるなら、音象徴は――言語音が生成する際にとらざるを得ないその姿態(species)であるという意味で――言語音の<生成相>にほかならない。この意味での生成相に視点をとるとき、<オノマトペ>ないし<擬声語>(onomatopoeia)あるいは<擬態語>(psychomimes; phenomimes)という語彙の分類は明らかに派生的なものである。なぜなら、これらの語彙は<音象徴>を基礎にして初めて成立するに過ぎないからだ。
 ソシュールの時代には思弁的にしか考察がなされなかった<音象徴>であるが、現在では経験科学的研究が持続的になされそれなりに豊かな知見が得られている。正統的言語学を踏み越えつつあるこの動向から、言語哲学あるいは記号学は多くを学ぶことができるし、<言語への道>を新たに拓くためにはぜひともそうしなくてはならない。(比較的最近の文献として、Leanne Hinton, Johanna Nichols, and John J. Ohala(eds.),Sound symbolism, Cambridge University Press, 1994がある。)
 sound symbolism の訳語として<音象徴>が適切であるとは必ずしもおもえない。辞書によると、<象徴>という語はもと中江兆民『維氏美学』(1883年刊)でsymboleの訳語として用いられたのが最初だという。いま調べがつかないのであくまで推測だが、フランス象徴主義との関連で遣われた用語だろう。この語の意味は現在の<象徴>という語の内容に直結している。
 しかしsound symbolism と熟すときの symbolism はむしろ語源であるギリシア語 symbolon(つまり字義的には<割符>、後に<記号>)に結びついている。つまり<記号の働き>すなわち<意味の働き>のことである。このことを念頭に素直に sound symbolism を訳すとき、<音の意味機能>とか<音の記号作用>などが訳語の候補として浮かんでくる。これらの訳語の難はその冗長さである(助詞の<の>のせいである)。この点確かに工夫の余地がある。
 学説史をひもとくと、<音の意味機能>についてはフンボルトがすでに本格的に論じている(Uber die Verschiedenheit des menschlichen Sprachbaues und ihren Einflus auf die geistige Entwicklung des Menschengeschlechts)。現代言語学の領域ではイェスペルセンが問題提起をおこない、さらに50年代にボーリンガー(Dwright Bolinger)はsound symbolism を論拠としてソシュールの恣意性の原理に敢然と叛旗をひるがえした(The Sign is Not Arbitrary)。彼によれば<意味をもつ言語の最小単位は形態素である>という正統的言語学の考え方は誤りである。なぜなら、一つには<意味>という観念が明確に規定されていないからであり、また一つには形態素よりさらに小さな言語要素が意味をもつことがありうるからである。
 (この項については、http://en.wikipedia.org/wiki/Sound_symbolism を参照。ただし wikipedia の記事にうかがえる<音の意味機能>の概念と筆者のそれとは本質的に異なることをお断りしておきたい。つまりこの記事では、sound symbolism とは単に<擬声語>や<擬態語>の総称に過ぎないが、筆者はむしろそれら個々の言語現象を基礎付ける<言語音の生成相>と捉えている。)
 反ソシュール主義の明らかな幟を掲げたこの先人(ボーリンガー)の業績を筆者は寡聞にして知らなかった。その著作について具体的にその主張を知りたいと思うと同時に、筆者の見地が必ずしも孤立してはいないことが裏付けられた思いも深くした。問題の本であるが、NACSIS Webcatで調べてもヒットしないので今のところ手がかりがない――と、ここまで書いたが、その後の調査でボーリンガーの著作は本ではなく論文であることが判明した。すなわち、Bolinger, Dwight (1949), "The Sign is not Arbitrary", Boletín del Instituto Caro y Cuervo, 5: 56-62、がそれである。wikipedia の記述は精確ではないこともあるので、注意が肝心。なお恣意性の原理に対する批判論文というなら、ボーリンガー以外にも数々の試みがあるが、文献リストをここに掲げることは割愛する。