統合体としての言語音

namdoog2006-08-19

 正統的言語学のパースペクティヴから望見すると、言語をめぐる探究として三つの言語学的部門――言語学、パラ言語学、運動学――が成立しているのがわかる。最後の<運動学>とは、おおよそ<ノンバーバル・コミュニケーション研究>と呼ばれる分野に相当すると考えてもらえばよい。
 従来これらの部門は別箇に研究されてきた。しかし<言語>の存在論を明らかにするためには、言語学的部門の並立に起因するばらばらにされた言語イメージを一つの言語像へ統合しなければならない。
 さて異端の言語理論家ロイ・ハリスは、従来の言語探究が踏まえる<分離主義>が理論として誤りであることの論証をさまざまな観点からおこないつつ、新たに言語への<統合主義的アプローチ>を提唱している。
 われわれが言う<統合>は、字義的な意味では彼の言う<統合>にそのまま重なるものではない。また彼は言語音にかんして統合主義的アプローチを主張してはいないようである。しかしわれわれに言わせるなら、言語音の統合化に言及していない事実はむしろ彼の<統合主義的アプローチ>が不徹底であることを示すものではなかろうか。(統合主義的アプローチについては、Roy Harris, Introduction to Integrational Linguistics, Pergamon, 1998を参照。)
 言語音の構造を明らかにするためには、まず<言語なるもの>を三つの層をそなえた統合的構造――言語-パラ言語-身体運動の統合構造――として捉えることが必要である。(この三層構造については、Fernando Poyatos, Paralanguage, John Benjamins Publishing Company, 1993を参照。)
 次に<言語音>にたいして<統合的アプローチ>を実施しなくてはならない。このようにして、言語音は分節音とプロソディーおよび身体運動の明示的かつ黙示的構造が統合されたものとして出現する。
 いうまでもなく、従来、<分節音>は正統的言語学の一部門としての音韻論(phonology)が扱ってきた。次の<プロソディー>であるが、ここでは従来の理解よりひろくこのカテゴリーを設定したい。従来は――韻文のリズムを調べる韻律法はしばらく措くとして――発声のリズム、強勢(ストレス)、抑揚(イントネーション)、高低(ピッチ)、音調(トーン)など分節音以外で言語学的に有意な音声要素をこのカテゴリーに含めていた(結果として韻律法がここに含まれることになる)。すなわちこれは音声学(phonetics)の領分なのである。
 これに加えて、いわゆるパラ言語学的要素もすべてここに含ませることにしたい。主要な要素を少数挙げれば、音声の質、発話に介入する沈黙(これはもはや音声ではないが、しかし雄弁に意味をあらわす!)、ノイズ(言語音を攪乱すると同時にその材料となるもの)、音声としての笑い、同じく泣き、溜息などなど、である。
 最後に逆説じみたことだが<身体運動>を言語音の構造要因に数えなくてはならない。そもそも言語音が身体運動の所産にほかならないかぎり、身体のうごきが――明示的にあるいは黙示的に――言語音の構成に内的に寄与しているはずである。
 この点が見やすい言語現象は言語音の表情性である。言語音は必ず表情をおびている。例えば、言語音としての笑いはそれだけで完結するわけではない。笑うときの顔の表情(例えば、<顔をくしゃくしゃにする>)や姿勢(例えば、<お腹をよじって笑う>)が発出された言語音の背後に展開されていることを見落とせない。ここに分離を持ち込むのはあくまでも便宜の問題にすぎないのであって、この<分離>を言語の存在構造に持ち込むとき、言語は死んでしまうだろう。
 言語音の構造にふさわしい表記として、例えば {ポッポ運動}-〔ポッポ〕-/ポッポ/ のような案が考えられる。ここに見られる短い棒は言語音を構成する三つの成分の統合を意味している。しかし単一の言語音を表すためにこうした表記を使用するのは煩わしいというなら、#ポッポ# のように略記することがいいかもしれない。重要なのは、/ポッポ/ が単に音素の表記にすぎないのとは異なり、#ポッポ# は統合体としての単一の言語音を表すという点である。
 われわれの見るところ、言語の存在論を誤らないために統合主義的アプローチは是非とも必要な見地である。にもかかわらず何らかの<分離>を持ち込むことなしには言語を観察し調べることはできない。単一の学科である<言語学>(a discipline)が――それが<統合>を標榜するにしても――統合体としての言語を直接研究しうるのだという観念は誤りである。
 現行の言語学的探究について見ると、実際にそれが音声部門・統語部門・意味部門など各種の部門にわかれて研究をおこなっているのがわかる。ところが分離主義の制約のために正統的な言語探究は学知としての断片化と理論的暗礁に逢着している。
 これに対して統合主義的アプローチは、言語学的諸部門の分業を認めつつも、当該の部門において何か問題を考究するにあたり、それに固有な概念システムをつねにその潜在性ともども生きなおす試みを怠らない。換言すれば、有効な概念をつねに発生状態において保とうとするのだ。
 例えば、ソシュール言語学における<ラング>は<パロール>から切断されることで概念としての成立を保証されたと誤って信じられてきた。しかし統合主義から見れば、<ラング>が<パロール>から分離したことではなくて、分離がつねに未完了なままであるという力動性に理論的意味が存している。逆に言うと、統合主義的アプローチのもとで初めて、個別的な<パロール>が<ラング>の体系性に効果を及ぼすという<交錯>(chiasme)――これはMerleau-Pontyの術語である――を理論的に検討することが可能となる。
 言語音の構造をこのような三つの構造の統合体あるいは<構造の厚み>として捉えることに対する異論があるとすれば、それはこの種の<構造の厚み>が論理形式の担い手ではありえない、論理形式は分節音が表示する構造にのみ担われる、というものであろう。われわれの考えではこの反論は成り立たないが、その議論は稿を改めておこないたい。