記号系の

namdoog2006-08-10

 前回の日記に<再帰的動き>(recursive move)を話題にしたが、この場所で何度も記号系の再帰的動きに言及したものの、まとまった形で考えを披瀝したことはなかった。そこで今手もとにあるノートや素材からこの概念を扱っている文章を掲げることにしよう。筆者の見るところ、<再帰的動き>という考え方は――名称はともかく――記号論言語哲学が将来に向かって進展するのに中心的役割を果たすはずの概念である。             
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 公園に舞い降りた鳩の知覚をよちよち歩きし始めたばかりの幼児が構成したとする。言い換えるなら彼はそれ以前には見たことがなかったハト科の鳥(columba livia)をこのとき初めて見たというわけだ。
 <対象を見る>とは<対象を何かであるものとして(as something)見る>ということにほかならない。この働きは言語の営みではない以上、文字通りの意味で<何かがどのようであるかを記述すること>つまり<述語づけ>(predication)ではありえないが、とはいえ何かを視覚によって捉えることが、未分化で一瞬のうちに与えられる感性的衝撃のようなものではないことも明らかだ。このようにして、言語が生成する以前の経験としての知覚に認められるのはいわば<黙した述語づけ>(tacit predication)であり<述語以前的なカテゴリー把握>(pre-predicative categorization)にほかならない。
 われわれは言語的概念化が概念化のすべてをおおうとは考えないし、<言葉にならぬ思考>の積極的な可能性を信じてもいる。幼児が言語を獲得するはるか以前から環境とのかかわりで単なる反射運動とは異質な知的行動をなしうることを疑えるだろうか。
 子供がこの種の鳥類を<知覚項>(le perçu; the perceived)として経験するためには、少なくとも二つの要因があずかっている。一つは、知覚項を構成するための素材である。幼児の事例でいうなら、この子は鳩の知覚と関連する何らかの知覚的素材をあらかじめ所有しているはずだ。
 かつて知覚を科学理論のモデルで説明することがおこなわれていた。ものを知覚することは、それについて科学理論を制作することに匹敵するというのである。この見地によると、まず外界から感覚器官に対して認知的価値を欠いた<感覚>や<刺激>などと称されるもの――<記号>という存在性格を有しないもの――が与えられ、次いでこの所与を中枢神経系において知的に処理する――これらの二つの段階をへることで知覚が成立するのだという(知覚の二段階構成説)。
 この種のモデルは、感覚に由来するデータが――理論の媒介なしに自ずと正当化されるという意味で――<基礎的>であるというドグマに依拠していた。しかし、一方では<感覚>なるものの現象学からの批判、そして古くはゲシュタルト心理学と近くは認知心理学による知覚研究と、他方では科学理論に関する分析哲学からの集中的討議(そこには、科学的説明、所与の神話、基礎づけ主義、データの理論負荷性などの主題が含まれていた)を通じて、この教義(基礎づけ主義; foundationalism)は信憑性を失うにいたっている。反基礎づけ主義に与するわれわれにとって、理路のおもむくところ、われわれが脚を踏まえるべき基盤としては<記号主義>(パース)しかないしそれで十分である。すなわち、認識と思考の対象となるあらゆる存在者が記号という存在性格を有するという見地のことである。
 さて記号主義がひらくパースペクティヴのうちに立ちつつ考察を続けるとき、知覚の営みはその場にどのようなものとして立ち現れるだろうか。われわれはそれが記号系の<再帰的動き>(recursive move)であることを知るだろう。すなわち何かを知覚するということは、知覚的素材である知覚項を新たな知覚項へと制作し直すことである。
 記号系の<再帰的動き>について若干説明しておきたい。数学の分野では記号を構成的に定義する場合、再帰アルゴリズムが用いられることがある。一例をあげると、階乗関数がある。階乗関数n !の定義として、ひとつにn !=1・2・3・・・nという式が考えられるが、…という曖昧な部分を含んでいるかぎり、階乗を構成するためには役にたたない。そこで、次のように定義することがおこなわれている。
 0 !=1
 n>0のとき、n!=(n−1)!・n
n !の定義の右辺に(n−1) !が出現しているから、定義としては循環していると言わざるを得ない。それゆえにこの種の定義は<再帰的>(recursive < re = again, back + cursivecurio= to run)と呼ばれる。しかしながら、右辺の式は左辺の式より単純であり、nが0の場合には、0 !=1であること(関数の意味)が確定している。実際に独立変数nが与えられれば、再帰アルゴリズムの手順という<動き>を実現することで従属変数が一意に割り出されるだろう。
 さてわれわれは、数学的比喩を正面から受けとめつつ、知覚に源泉をもつ認知と行為のあらゆる記号過程を基本的に記号系の<再帰的動き>と解することを提案したい。ここにいう<動き>が身体性の働きを暗示することは言うまでもない。
 人が知覚というプラクティスのうちで対象のカテゴリー把握を実行するための第二の要因は、アブダクション(abduction)である。鳩について知覚項を構成するために幼児が素材として何らかそれより単純な知覚項を知識のストックに収めていたのは疑うことができない。それがどんな知覚項かを調べる仕事は心理学の領分なのでその点はさて措くとしよう。問題は、幼児の鳩の知覚が知的直観などではなく広義の<推論>であるなら、新たな知覚を構成するさい発動される推論方式とは何だろうか。それがブダクションであることは半ば明らかであろう。演繹や帰納がこうした場面で無効なのは明らかだから、消去法でアブダクションを割り出すこともできる。しかしながら、鳩の知覚が<あぁ、これが鳩なるものだ>という一般性の発見であるかぎり、<仮設>の創出としてのアブダクションがここに介在することを疑うことが出来ない。
 アブダクションを説明するやり方はさまざまあるが、要するにそれは既得の知覚項に対して説明をほどこす仮設を構成する操作のことである。そのためパースはアブダクションをしばしば単に<仮設>(hypothesis)とも呼んでいる。 アブダクションのなかみを図式化すると、次のようになる。
  Qである。しかしP⊃Q
  従ってP
 論理学者ならば、これはひどい誤謬だというに違いない。(詳しく言うとこの種の推論は「後件肯定の誤謬」(the fallacy of affirming the consequence)と称されてきた。)たしかに論理的にはアブダクションにはなんら必然性がない。にもかかわらずそれは<仮設>として十分に「正しい」ことがある。幼児の場合、すでに知識のストックであった知覚項をQとして、このなかみをPという仮設(<これが一般に♯ポッポ♯なのだ>)が説明することの理解が形成されたと見なしうる。(ちなみに、♯xyz♯は統合体としての言語音の表記である。)
 幼児が鳩の出現に立ち会って構成したその知覚は仮設構成の働きをおこなう。そのかぎりで二度目以降に発動される単なる現実追認の働きをおこなう知覚とは異なっている。(とはいえ、両者を絶対的に切り離してはならないだろう。)強調したいのは、この種の知覚が対象の形相を把握しカテゴリーを産出するという側面である。その意味でこの種の知覚は<発見>いやむしろ<発明>なのである。
 知覚から言語への記号系の展開を<言語音の生成>のモメントに即して観察してみよう。
 鳩の知覚が進行するのに踵を接して幼児は初めての言語音を口にすることになる。それは知覚のさなかからその沈黙をやぶって音声が溢れ出したかのようだ。言語音はあたかも知覚項をなぞりつつその内容を確証するために創出されたかに見える。
 ここにも記号系の<再帰的動き>――言語音による知覚項のなぞり――を垣間見ることができる。感覚的メディアを使用して描かれた知覚項のうえに言語的メディアの薄紙をのせその上から問題の鳥類をその形相のとおりに描きだしたのである。言い換えれば、黙示的なものを赤裸々にすること――つまり明示化することが言語のヴァーチュ(virtueすなわち長所であり効能である)にほかならない。それゆえ言語とは基本的に明示化のための人為的仕掛けである。
 言うまでもなく、言語音の離散的構造が明示化の主たる動因となっている。言語の働きは要素的なものを析出しそれらを結合して事態の表現を形成することなのである。――もっともこの分節化の働きはどこまでも稠密で不透明な辺縁から切り離されることはないのだが。
 生成した言語音はどのような機能を有しているのだろうか。まず指摘できるのは、当然ながらこの言語音は<鳩>という概念の言語化であるという点である。言い換えるなら、♯ポッポ♯は知覚されたかぎりでのこの鳩(知覚項)を概念の事例として例証するのだ。一般にこの種の記号機能において認められるのは、双対する関係が単一な記号機能へ統合されるプロセスである。すなわち一面ではタイプとしてのカテゴリーがそのメンバーを包摂するという関係がある(カテゴリー化)。この関係を、知覚項に特定の種類のラベルを貼付することと言い表してもいいだろう。
 もう一つの面としてこの個別的な知覚項が問題の言語音に孕まれた概念内容を代表するという関係がある。すなわち、あるタイプの鳩(知覚項)が<鳩>というカテゴリーを指示するのである。知覚項はこの関係において自己を提示することになるし、また事実上自らを当該カテゴリーの典型の地位につけることにもなる(準分節化)。
 以上を要約すると、初発の言語音とはカテゴリーの典型を創出する仕草にほかならない。繰り返すことになるが、これは記号系の<再帰的動き>がトークンとしての鳩の知覚項をタイプの担い手として提示する仕草である。
 こうしてわれわれは、第一回目の言語音が生成する場に<例示>(exemplification)の機能を見出す。グッドマンが指摘するように、<例示>は所有(possession)と指示(reference)との統一である。(N. Goodman, Languages of Art, 2nd ed., 1976, pp.52-57. )初めての言語音♯ポッポ♯ は確かに知覚項と属性を共有しているし、反対に、知覚項は言語音へと指し向けられている。<例示>という記号機能は記号系のこうした自己関係のことである。――これは記号論をはじめ一般に哲学的思考にとってこのうえなく重要な論点である。言語の働きの原始的形態は<示し>(showing; Zeigen)であって<語り>(saying; Sagen)ではない。
 記号は語る以前から示していた。示すことのできるものを語ることはできない。語ることのできないものを示すことはできる。示すことができないものについては沈黙するほかはない。