聴こえない音楽を聴くということ

namdoog2006-08-08

 人間の記号機能が他の動物と著しく異なる点はそのおどろくべき「柔らかな」構造であろう。この言い方はもちろん喩えであるが、記号機能の優れた適応能力のことが言いたいのである。
 例えば蜜蜂のダンスのことはよく知られている。野原のどこか遠くに蜜源を見つけた蜜蜂は巣に帰るとダンスを踊って仲間に蜜のありかを知らせる。蜜を含んだ花が巣から100メートル以内ほどの距離にある場合、ダンスはきまった型を示さない。蜂はちょこちょこぐるぐると動き回るだけだ。それがもっと遠い場所の場合だとダンスは一定の型を示す。蜂が8の字の弧を描いて動く速さが速いほど場所が近いことを表し、蜂が直進する方向と重力との角度が巣から見た太陽と蜜源の花とが作る角度と同じになっている。つまりダンスの振り付けが蜜源への距離と方向を示しているのである。(動物の記号機能について主題的に研究すると同時に、<動物記号論>(zoosemiotics)という学問を提唱したのはトマス・シービオクであった。彼の『動物の記号論』(池上嘉彦編訳)勁草書房、を参照。)
 蜜蜂の記号機能とその表現が感嘆に値するのは確かである。にもかかわらず、蜜蜂の記号機能はプログラムとして生体に組み込まれているかぎりで「堅い」能力でしかない。つまり応用力がないのだ。例えば蜜源に人間が人口甘味料を置いたとしてもそれを弁別して違ったダンスを踊るのだろうか?
 人間の記号機能の「柔構造」とのかかわりで考えなくてはならない論題として<特定の記号機能は固有な感覚様相を選ぶのか>という問題がある。この言い方は分かりにくいが、要するに普通いわれている五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)のそれぞれに固有な記号機能が絶対的に結びついているかどうか、という問題である。例えば、音楽を聴いたり自分で歌ったり演奏したりすること(つまり<音楽の経験>)は聴覚なしには成立しないようにおもえる。また視覚なしには、絵画表現や写真は成立しないのではないか。触覚が麻痺したら多分彫刻などの造形は不可能になるはずだ。ところが、この種の単純な想定を許さないような事例があるのではなかろうか。それも例外的にではなく、多数の事例が。しかしそれらは本物の事例なのだろうか。
 聴覚を失った音楽家として名高いのは、ベートーヴェンスメタナである。ベートーヴェンは20代後半から始まった難聴が次第に悪化し晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。しかしそれでも音楽作品を書いている。また、スメタナは病気で完全に聴覚を失ったがその後も作曲を続けた。代表作<我が祖国>もその一例である。
 彼らは途中失聴者であるから、聞こえていた間の音の記憶はあったかもしれない。その記憶に頼って作曲したのだという理窟も成り立つかもしれない。しかしこれに対してはさしあたり二つ問題が生じる。
 第一に、いま完全に音が聴こえない者にとって<音楽>を作ることがどうして可能なのだろうか。頭の中に幻想の音が鳴り響くのだろうか。幻想の音とリアルな音はどこがどう違うのだろうか。そもそも<音楽>はどういうあり方をしているのだろうか。物理的な意味での音がないと音楽は成立しないのか――そうは思えないのである。
 二つ目に<記憶による作曲>という説であるが、記憶の再生では新しい曲を作れないという問題をどうクリアできるのか。(チョムスキーに代表される主知主義者が言語の創造性、つまり人はその都度まったく新しい言語表現を作るというinnnovativeな能力を持っていることを強調したのが想起される。)
 <手話のコーラス>が実際におこなわれているという。ある意見では、デフの人たちが手話のコーラスを演じるとき、音楽を享受しているというのは言い過ぎで、単に歌詞を手話で表現しているにすぎないという。ホントだろうか。音楽を構成する要素としてのリズムについていえば、聾唖者がこれを体感できることは容易に想像がつく。リズムは聴覚にだけ結びついているわけではない。太鼓のリズムは体全体で感じ取れるし、ワルツの三拍子を視覚的に理解することも可能である。つまりリズムは特定の感覚様相に結合してはいないのだ。それは相互様相的(intermodal)である。ではほかの要素であるメロディー(旋律)とハーモニー(和音)はどうだろう。リズムの場合と本質的な意味で事情が異なるとはおもえない。どうやら音楽は音に関係なくても成り立つようなのである。(そういえば、建築を<凍れる音楽>といったのは文学者シュレーゲルであった。)
 ただし音の質の問題が残っている。例えば篠笛の音色そのもの(クオリア)が音楽の音楽性に寄与しているとするなら(そう思える)、デフの人に笛の演奏が作り出す音楽作品は享受できないのではないのか。――この難問を解決するには、クオリアを機能主義化する以外に方途はないだろう。
 言語についてはどうだろう。デフの人たちが手話という言語をもっているのはよく知られている。いわゆる健聴者で手話を解する人がいる。手話通訳の仕事をしている人などである。しかし話に聞くと、彼らは生来のデフの人たちのように流暢に手話を「話せない」らしい。日本人の英語通訳者がネイティブに比較していくら流暢でも多少とも発音がおかしかったり語彙を知らなかったりするのと同じことではないだろうか。
 ディスエイブルな人で健聴者の言語をマスターした著名人の筆頭はヘレン・ケラーだろう。なぜ彼女が英語をマスターできたかを理論的に説明するのは依然として認識論や記号論の課題である。彼女は1歳9ヶ月の時に視覚と聴覚を病気で失った。だからそのときすでにかなりの単語は――自発的に発話できなくとも――記銘はされていたはずだ(伝承では唯一<水>を表す言語音の記憶があったとされる)。そのうえこの年齢を考慮に入れると、あるレベルの英語も習得していたと見なさざるを得ない。その後発達が停止し長らく退行状態が続いたと見るほうがいい。しかし最終的に真実がどうだったか、筆者には判断の材料が不足している。
 「エイブル・アート・ジャパン」というNPOでは、さまざまな障害を蒙った人たちの藝術運動を推進している。視覚障害者の絵画や写真などがこのNPOが開催する展覧会に出品されることもある。筆者はまだ障害者の創作に関する詳細な情報を得ていないし、断片的情報の検証をすませてもいない。理論的にいえば、<先天的な盲人が絵を描く>ことと<絵を描くふりをする>ことを第三者がどんな基準で判別できるのか――この問いに対するチューリングの考えは、そうした基準はないというものであった。筆者としては、問題を解くためにチューリングとは別の道筋をつけるべきだと考えている。
 最終結論は控えざるを得ないが、<視覚障害者の絵画>はありうるとおもう。途中の論証を端折って仮設を述べておきたい。例えば、聾唖者が音声言語をもつことができないのは、経験的な意味で聴覚がないからではなくて、音声言語が要請する<再帰的うごき>(recursive move)の回路に自己の身体性を接続することができないからではないか。経験的意味における聴覚と機能的に同型であるような感覚構造を代償的に創出して<再帰的動き>の回路を構成することができるなら、たとえ障害を特定の感覚器官に負っていても、健常者の場合その感覚器官に結合した記号機能を障害者は発揮できるのである。――以上に述べた聴覚障害のケースを他の感覚様相にも一般化できる、というのがわれわれの仮設である。
 キーコンセプトの記号系の<再帰的動き>については今までも述べてきた。簡単にいうと、①人間の知覚と行為(その展開としての表現の働き、例えば藝術や科学、もちろん日常の生活も含まれる)は記号系である、②人間はつねに単純な記号系を作り直すことを通じて新たなタイプの記号系を実現する、という考え方である。この二つを統合したところに<記号主義>が成り立つ。(①はとくにパースに、②はとくにグッドマンに負っている。)