のイメージングをやり直す(9) 論理形式の更新へ

namdoog2006-07-30

 <個体の名のリアリズム>にはさまざまな難点がある。そもそも個体名とは何であろうか。
 言語表現のなかにその候補を探すなら、前述のように、固有名詞とある種の指示表現(確定記述)が浮かび上がってくる。ここから普通名詞はひとまず除外すれば、それで個体の名を限定できると考えたいのだが、ことはそう簡単にはゆかない。固有名詞をどう定義したものだろう。
 <小泉純一郎>がふつうの意味で固有名詞であるのは明らかだ。ところで、論理形式においては表現の形式だけが出現する。<小泉純一郎>の形式は、例えばkという個体常項として表現される。kという形そのものに意義はない。それは他の個体常項(a, b, …, n)と区別がつけばそれで十分なのだ。しかし、<小泉純一郎>とkとの間には、決して埋められない隔絶があることに注意しなくてはならない。
 真に<個体常項>の資格に値する要素とは何だろうか。ラッセルは、ふつうの固有名詞(<小泉純一郎>はその一例)は装われた記述に過ぎないとして、<論理的固有名>(logically proper name)だけが論理形式の要素になりうると考えた。これはわれわれが直接に経験できる(be acquainted with)対象の標識だという。(言うまでもなく、この考え方に従えば確定記述は個体の名ではありえない。なお知識論としては、ラッセルは知識を<記述による知識>(knowledge by discription)と<見知り(直接に知っていること)による知識>(k.by acquaintance)に二分した。前者を基礎付けるのは後者である。この種の知識論はもっともらしいが、容易ならざる難点を抱え込んでいる。)
 だとすると、<夏目漱石>は論理形式のなかで相似物を持たないわけだ。なぜなら、明治のこの文人をじかに見知っている現代人はいないからである。たとえ漱石が現代に生まれあわせたとして、<漱石をじかに知る>ことが可能であろうか。他我(alter ego)をじかに知るというのは、一つの形容矛盾ではなかろうか。(ラッセルはここから<論理的原子論>を展開するのだが、いま立ち入る必要はないだろう。『論考』の思想がやはり<論理的原子論>だという解釈があるが、われわれのとるところではない。)
 この難点を回避し<個体の名>を規定するには、まず<個体>の概念規定をはっきりさせる必要がある。そこでわれわれは、<個体>について<認識の文脈におうじて<単一なもの>と数えうる任意のもの>という定義を施したい。
 例えば、レンガ造りの家があるとする。この家をある認識の文脈に置くときそれは個体として現れるが、別の文脈ではこの個体が多数の個体としてのレンガからできていることがわかる。<レンガの家>(a brick house)が個体の名であるなら、別の意味では<レンガ>(a brick)も個体の名に違いないのだ。(グッドマンは、構成的存在論とのかねあいで個体が規定されるという見地――唯名論――を唱えた。この存在論にわれわれも現時点では追随したいとおもう。構成的唯名論については別途精しい検討が必要となる。)
 いま一度ウィトゲンシュタインの言語観を参照しよう。彼は<文とは名の連鎖である>と言っていた。これを額面どおり受け入れるとき、われわれは意外にも――「素朴な」とは言えないまでも言語への密着を素直に願うという体の――表層主義の見地に立つことになる。
 「意外にも」と言ったのは、ラッセルその他の世にいう分析哲学者と並んで、ウィトゲンシュタインその人も、緻密な<分析主義>の信奉者のように思えるからだ。一例をあげるなら、ラッセルによる<確定記述分析>は表層の表現より深いレベルに存立する論理形式によって確定記述を置き換える試みとしてよく知られている。これに反して、<名の連鎖>はどこまでも表層に留まっている。それは<深層なき表層>というべき形式性なのである。
 言語学の領域で、20世紀後半以来、主導的役割を演じ続けてきたのは、チョムスキーに始まる生成文法であった。彼の文法理論は文字通り<深層への志向>を具現したものとなっている。(生成文法については語らなくてはならない論点が山ほどあるのだが、いまは<深層への志向>にのみ焦点を絞ることにする。)
 生成文法が立脚する形式主義は明らかに分析哲学における形式主義に由来するものだ。哲学者たちは、われわれが日常口にする言語を不純で曖昧な言語――いわば出来損ないの言語――と見なした上で、人工的な理想言語の表現への写像を描こうとした。これに対してチョムスキーは、日常言語を日常言語のままで形式化する規則の体系を構成しようと試みた。
 例えば、(1)a. Tom would go.
  b. Would Tom go?
この二つの文は、生起した形態をそのまま記述したものである。われわれはこの二つの文につながりを認める。つまりaの平叙文を疑問形にすればbという文が得られるのは明らかなように思える。しかしこの直観は理論的には説明がつかない。というのは、aにおけるwoluld goという連結が、bではバラバラにされているからだ。ここに何が起こっているのかを説明しなくてはならない。そこで変形文法では、<表層構造>と<深層構造>という区分を立てる。
 (1a, b)の深層構造は次のように表示される。
 (2)a. Tom past will go.
   b. Q Tom past will go.
 pastは<過去形>という文法的属性を表し、Qは<疑問文>のそれを表す。すなわち、aとbは深層構造としてはほとんど同じなのである。ここで<変形規則>が登場する。(2a)に対してpast/willという入れ替え=変形が、(2b)にはpast will/Tomの入れ替えが施される。その上で、past/willの入れ替え=変形が適用された結果として、
 (3)a. Tom will past go.
 b. Will past Tom go.
が得られる。この(3 a, b)が問題の文の<表層構造>なのである。注意すべきは、<表層構造>は発話された生の文の形そのままではなく、表面には現れない要素(例えば、past)が出現していることだ。その限りで<表層構造>は抽象的なものである。
 生成文法の分析と画像理論のそれとの共通点と相違点を確認しておこう。まず、両者で共通しているのは、<分析>の見地である。生々しい言語の形態そのものをじかに手掴みにするのではなく、俎上に載せて包丁で捌いてみせるのだ。しかしここでは違いの面のほうが重要である。生成文法では、深層から表層へと構造を変形することが文法問題のすべてである。しかしながら、画像理論では、深層構造は不在であり、それゆえ変形は問題にならない。問題なのは、言語の(深層なき)表層を構造として露にすることである。
 では<個体の名>は、このような表層構造のうちでそれ自身どのような構造をなすのだろうか。結論として言うと、性質や関係が要素のかかわりとして<示されている>というなら、個体名の論理形式における対応物(ふつうの論理学では、個体常項)は、それ自体が<例示>のしぐさとして生起すると言わなくてはならない。つまり、論理形式は幾重にも重ねられた<示し>の構造なのである。(そもそも<名>というものが示しの記号過程であることは、<言語音の機能的生成>という主題の下でそのあらましを述べた。参照を乞いたい。例えば、http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060610
 <言語地図>の比喩にもどることにしたい。例えば、「葉の下に水禽がいる」という文。ここには、個体名として「葉」と「水禽」の二つを数えることができる。(「〜の下に〜がいる」の部分も名であるが、これは<関係>を描くために地図の欄外に移されてしまう。カイトはそれを凡例記号だという。)地図を見ると、それぞれの位置に葉と水禽が描かれている。しかしながら、この二つの画像要素はリアルな像ではありえない。それぞれの位置は二つの別個の虚焦点を代表している。確かに言語空間の光学が葉や水禽を描き出すのだが、地図上のそこに画像があるのではなく、<あるように見える>に過ぎない。そして、あるように見えるからこそ、それぞれは<画像>という記号なのだ。
 このようにして、<個体名のリアリズム>はめでたく回避できるようにおもわれる。     
(つづく)