のイメージングをやり直す(8) 名のリアリズム

namdoog2006-07-27

 これについては、言葉と絵とは本質的に違うのだ、という異論が当然もちあがるだろう。われわれが「その水禽は白い」という文を書くとき、文中の「水禽」の部分を白く塗らなくてはならないという文法規則が日本語にあるのだろうか、という異論である。明らかにそのような規則などありはしない。まして話し言葉の場合、「水禽」という名を白くすることなど了解不可能ではなかろうか。音声の色について語られることがある。「黄色い声」などという。また「声優が七色の声を持つ」という言い方もあるにはある。しかしながら、この種の表現は単なる比喩にすぎない。音声が字義的に色をもつことなど考えられもしないだろう。
 だが、われわれの見るところ、この反論は記号にともなう<示し>の次元について勘違いをしている。問題の文が有意味であるためには、心理的・経験的な意味で述語が白さに類似する必要はない。鳥が赤くも青くもなく、まさしく白いという事実を、述語の「言語的役割」(セラーズ)においてこの文が示せば、それで十分なのである。さきに言及したくだりで(4.0141)、とくに「内的類似」が云々され、問題なのは形態を異にする言語のあいだの「翻訳規則」であると、ウィトゲンシュタインが言明している点を想起しなくてはならない。
 「水禽」という名が白さに類似しているということは、この名の属性のうちに<白さ>が含まれているということである。しかしこの<白さ>はあくまで比喩的な意味におけるそれにすぎないし、それで十分なのである。従って、音声が色をもつという比喩は理由のない文飾のたぐいではなく、言語の本態を言い当てた本質的比喩なのだ。
 絵画にもこれと相似な事象を確認できるだろう。問題はそもそも<類似性>の論理構造に根ざしている。画面に描かれた形態や色や明るさなど、どれ一つをとっても、それが経験的な意味で実物に類似する必要はない。そうした絵画的述語の記号論的役割の質において、この絵が対象と論理形式を共有できているか否かが肝心なのである。類似性が「内的」であるとは、これが絵画の体系に基礎付けられていること、体系内部的(intrasystematic)であることを意味している。逆に言えば、表現体系を離れた単なる「経験的類似」は有意ではない。述語は(音声や視覚デザインとして)モノであるに違いないから、さまざまな特性や関係を保有するだろう。しかしそれらがみな記号機能にとって有意であるとは限らない。どれが有意かは表現体系を生成する記号論的実践がこれを規定するのである。
 一般論としていえば、<類似性>を基礎付けるためには、二つのステップを踏む必要があるだろう。第一に、記号論的実践から表現体系が生成されるステップ。第二に、表現体系が類似性を有意にするステップ。これらステップを連結すると、記号論的実践→表現体系→類似性、という単一のプロセスが得られるだろう。
 ここまでおこなってきた観察を要約したい。ウィトゲンシュタイン――歴史的なウィトゲンシュタインではなく、われわれの解釈によって蘇ったウィトゲンシュタイン――によれば、文とは名の連鎖である。この主張はいくつかの含意をもつ。第一に、文の要素は名であるということがある。第二に、名は個体・性質・関係のいずれをも代表する。第三に、個体に対応する名は文の論理形式の要素として文によって語りだされている。第四に、ところが性質や関係は文によって語られてはいない。むしろそれらは文において示されているに過ぎない。
 こうした見地を<個体の名のリアリズム>と呼ぶことにしたい。これが根も葉もない呼び名だとは思われない。というのは、文のリアルな要素としての<個体名>は論理形式の中にも実質として温存されるからである。個体の名の扱いと性質や関係の名の扱いが公平を失しているという事実は誰の目にも明らかだろう。
 ここに伏在する問題を明らかにしなくてはならない。最初に確認しておきたいのは、性質や関係の名(それぞれ性質語と関係語)が論理形式のなかで実質的な要素として保存されないという点である。
 明らかに、名としての性質語や関係語は文の要素であるが、論理形式の実質的要素ではない。例えば、「葉の下に水禽がいる」という文を連鎖の形に構成する名は「葉」、「水禽」、「〜の下にいる」の三つである。しかし、三者のうちで論理形式を実質的に構成するのは、<葉>と<水禽>に相当する論理要素であって、<〜下にいる>には実質的な論理要素にはならない。(じつは<葉>などを単純に<論理要素>と見なすことには問題がある。<葉>が単純者かどうかは不明だからである。もしかすれば、それは複合者かもしれない。しかし当面この問題は棚上げすることにしよう。この論点が目下の議論に悪い影響を与えることはないと思えるからである。)
 次に問いたいのは、性質や関係の論理形式のうちにおける表現のありようである。
 論理形式を調べると、そこに二つの積極的な論理的要素が帰属するのが分かる。そしてこの二つの要素のかかわりがすなわち論理的要素の関係として了解されるのである。『論考』から一つの引用をおこなっておこう。「画像の成立は、その要素が互いに一定の仕方でかかわりあうことに基づく」(2.14)
 <要素のかかわり>は<要素の関係>とはそれぞれの意味機能において異なっている。論理形式自体が<要素の関係>を語ることはない。それは単に論理形式のうちに目撃されるだけなのである。あるいは<要素の関係>は論理形式のうちに示されている。他方で<要素のかかわり>は論理形式に描きこまれている。(すこし端折った言い方をすれば)言語が類比的な意味で画像であるのは、この描法が言語の本質的な表現力ないし表現法だからである。
 実在するモデルを描いた人物画があるように(例えば、ベラスケス作の「王女マルガリータテレサ像」)、もちろん言語も個別的対象の画像を描くことをする。ただし対象の性質と関係は個別者ではなくつねに一般者である。すなわち、論理形式において示された性質と関係は必然的に一般性をおびている。換言すればそれは<タイプ>という性格のものである。これはちょうど、動物図鑑の挿絵が特定のモデルの画像ではなく、一般者としての<動物種>の画像であるのと似た事態であろう。図鑑の挿絵はタイプの画像なのである。ややルーズな意味において、図鑑に登場するライオン(これはもちろん画像である)はライオンの見本にほかならない。「ややルーズな」と断ったのは、ライオン-画像はライオン-剥製とは違うからであり、ライオン-剥製は(ライオンの見本である)本物のライオン-動物*とも違うからである。
*注 ライオンを見たことのなかった江戸の住人に舶来の生きたライオンが初めて展示されたとする(当時は「ライオン」ではなく「獅子」と呼んだのだろうか)。この場合、この生物個体は<ライオン>という動物種の見本である。<展示>という記号機能が<示し>の発展形であることは言うまでもない。
 しかし陳列棚に並べられた料理の見本―それはプラスチックで出来ている――が見本であることに違いがないように、またその限りにおいて、挿絵のライオンはやはり(ルーズな言い方ながら)ライオンの見本なのである。このようにして、論理形式のうちで示される性質や関係はつねに性質や関係の見本だと言えそうである。言語についての議論として、われわれの話が首尾一貫しているのがわかる。すなわち、記号機能の<示し>はいつでもタイプや見本やカテゴリーを示す。同様に、論理形式において示されるのはタイプとしての性質や関係なのである。
 以上によって<個体の名のリアリズム>を問題化する用意が整ったことになる。