のイメージングをやり直す(7) 画像言語?

namdoog2006-07-26

 先に進む前に、主要な観念について若干の補足を施しておきたい。
 第一は、<画像言語>という観念についてである。
 われわれは、『論考』で遣われたの訳として、<像>ではなくあえて<画像>を選んだ。その理由は、『論考』に展開された言語観の底流に、たとえ黙示的であるにせよ言語と画像とのアナロジーが認められるからである。この語を単に<像>とだけ言うのでは、言語観のアナロジカルな本性が明らかにはならない。
 確かに、言語を像の比喩で捉えることはある意味で『論考』の言語思想にとって決定的な事柄だったろう。しかしながら、現実を形作る要素とは存在論的身分の異なる、ある種の存在者を導入するために、Bildという概念が必要である、というだけでは不十分ではなかろうか。モノで充満する世界にモノではないある種の空虚を持ち込むことこそ言語の働きであるということは、われわれの共有する了解である。
 古来、モノではないこの種の空虚は<表象>(Vorstellung、representation)とか<観念>(idea)という名で称されてきた。しかし、この意味でのの概念は、なるほど正鵠を射ていないわけではないが、『論考』のありのままの言語観を射抜いてはいない。換言すれば、それでは広義にすぎるのである。<表象>が単なる離散的な形態には尽くされないという暗示、あるいはそれがどこか像のような特徴を有するという点に『論考』の洞察があるのではないのか――これがわれわれの解釈である。
 第二に、『論考』における基礎的概念である<名>についての問題がある。
 『論考』を離れひろく哲学史に目を転じるとき、<名>という概念が論者によってまちまちに考えられ使用されてきたことがわかる。錯綜した用法を単純化するのは難しいが、ここではしばらく次のような整理に従っておきたい。
 まず、<名>を単に固有名に限定するという考え方がある。つまり論理学の用語で言えば、<名>は個体常項を表示するための記号カテゴリーにほかならない。だとすると、<名>が個体だけを指示するという言い方はできなくなるだろう。<月面に最初に降り立った宇宙飛行士>という指示表現は個体を指すとしか思えないからである。(これが、ラッセルの論文’On denoting’(1905)で表明された思想であった。)
 ところで、『論考』における<名>は、少なくともテクストの表層においてこの種の<名>の用法に従っているような印象がなくもない。しかし文脈から推してこうした解釈には明らかに無理がある。『論考』における<名>の範囲には、<文が名の連鎖である>という思想を前提にするとき、①固有名詞と(ラッセルの)確定記述、②普通名詞、の二種類が含まれると解するほうがいいだろう。ここで<名>の範囲から排除された主要な語は論理語である。(ちなみに、この意味での<名>(name)は<名辞>(term)と異なるところがない。<名辞>はふつう<単称名辞>と<一般名辞>に分類される。前者に固有名詞と確定記述、後者に普通名詞が対応する。)
 ウィトゲンシュタインが<名>をどういう意味で遣っていたかを理解するためには、<名>にどんな種類の語が含まれるかということよりも、<名の記号機能はどのようなものか>をはっきりさせることむしろが重要である。繰り返すことになるが、彼は文(Satz)を<名の連鎖>と捉える。ただし、否定などの論理語は名ではないのだから、ウィトゲンシュタインにとって典型的な文は肯定的平叙文であることになる。(いまコメントの余裕はないが、この<文>の理解にも(やむを得ない)錯誤を指摘せざるを得ない。)
 さて一般に、文には「この花は赤い」というタイプと「机の上に花がある」というタイプの二種類がある。形而上学的用語でいうと、対象の<特性>および<関係>を表現する文の違いである。ところで、論理形式が位置するレベルでは、言語要素を品詞に分類するという発想には有意性がない。つまり、名詞、形容詞、動詞のいずれもが特性や関係を表現することができる。(この点が論理と文法の違いの一つである。ちなみに、<特性>には対象の性質や状態に加えて、その振る舞い・行動を含めることにする。この広義の<特性>を表現する言語要素をいささか不適切ながら<性質語>と呼ぶ。これはあくまで便宜の問題であることをお断りしたい。)
 以上から、『論考』で言われた<名>が個体・性質・関係のいずれをも代表しうるということが分かる。さて、本題にもどろう。
述語の言語的役割
 しかしカイトは、結局この案(<言語地図>というアイデア)が言語の理論としては不十分であること、それに関連してウィトゲンシュタインの思想に問題が残ることを告白している。(Kyte, ‘Wittgenstein’s Picture Theory of Language,’ in Copi, I. M. and Beard, R. W. (eds.), Essays on Wittgenstein’s Tractatus, 1966; なおGochetやRosenbergも同様の指摘をしている。)
 というのは、カイトが再構成した画像理論では、一つの主語と一つの述語からなる文を取り扱えないように見えるからである。例えば、「その水禽は白い」は最小地図では表現できない。「白い」という述語は欄外に出ている以上、要素の互いのかかわりが何処にも認められないからである。しかしウィトゲンシュタインは、文は名の連鎖だと言っていた。この文は鎖の輪が一つだけしかなく、連鎖にはならない。とすると、『論考』の言語はその主張するところとに反して、あらゆる可能的事態を表現する能力がないと、結論せざるを得ないのではないだろうか。
 だが、われわれはそうは思わない。むしろ画像と言語の類比をこうした場面でこそ重視すべきだろう。絵はその水禽が白いことを難なく描写する。地図にしてもそうだろう。まず水禽の占める場所を測量してその地点を平面上にプロットし、その地点に小さな鳥を白く描けばいい。描写とは、その小さな鳥が白く描かれることによって、実際にそれが白いということである。もし言語が絵画に類似したものであるなら、言語が単項の述語を使用して描写するのに困難はないはずであろう。