のイメージングをやり直す(6) 言語地図

namdoog2006-07-20

線型性
 ここで、ソシュール記号学の第二原理すなわち言語の線型性が問題として再燃する。われわれの見るところ、ソシュールが講義で言及した二つの原理のなかで、実はこの「第二」原理こそが真の意味での<原理>(principe < princip- 第一のもの)にほかならない。後世に構造主義をもたらした根拠もこの原理にあった。(詳細については本ブログ(http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20060620)を参照していただきたい。)線形性とは、記号表現の離散的構造(ディジタル)を言い当てた比喩なのである。
 前に例としてあげた絵画「蓮と水禽」をふたたび見ることにしたい。例えば「水禽」、「葉」という要素(すなわち、『論考』の想定する体系における<名>)が、名ではない別の要素「〜は〜の右にいる」によって結び付けられて、文「水禽は葉の右にいる」になる。文とは純然たる名の連鎖である(4.22)。くどいようだが、ふつう述語と呼ばれる要素(ここでは、「の右にいる」)は、名と並ぶ文の素材ではありえない。それは何も指示しないのである。こうした成り立ちの文が、葉の下に水禽がいるという<事態>(Sachverhalt)を描写する――これが、『論考』が構想する理論の内容であった。したがって、理論の要求する言語(<画像言語>picture language)で例文を書き直すなら、例えば、(葉、水禽)と表せるかもしれない。すると、(水禽、葉)はふつうの言葉では、「葉が水禽の右にある」と言っていることになる。(ただし、二つの文で同じ(可能的)述語が実際には二様の言語表現として生起している。<ある/いる>という区別に注意していただきたい。しかし、これは日本語の問題であり、本来の「論理形式」にはかかわらない――このようにウィトゲンシュタインなら言うのではなかろうか。)
 ここまでの話なら、線型性の原理との食い違いは何も生じてはいない。しかし、もちろん二つの対象の関係はこうした位置関係にはつきない。いや、位置について言っても、<上にある>、<下にある>など限りがないし、<食べる>、<恋する>などいわゆる二項関係には無限の多様性が含まれる。画像言語はこうした豊かな表現力をもちあわせないのではないか。というのは、もし画像言語にこの程度の表現力を与えようとするなら、文字通りそれは画像に転化してしまうからであり、つまりは<言語>であることは止めてしまうからである。
言語地図
 言語の線型性を犠牲にするのを回避しつつ、なんとかこの問題に解決を図ろうとしたカイト(D. Kyte)の試みは示唆する点が多い。名は事態の要素と対応すること、あらゆる可能な事態が言語で表現しうること――こうした『論考』のいくつか重要な思想を、彼の見解は継承する。そのうえで、提案された解決策は次のようなものであった。それは述語を地図の欄外に記載された、方位、縮尺その他の、凡例記号のように見なすことである。例えば、水禽が葉の右にいることは、この種の画像言語で書き表すと、
  右にいる:水禽・葉
となり、葉の下に水禽がいることは、もちろん
  下にいる:葉・水禽
となる。ところが、この言語が有力だといえるのは、その葉を水禽が食べることをこの言語を遣って
  食べる:水禽・葉
と書くことが可能だからである。ちなみに、この・は、要素のかかわりが満たす空虚な場を意味しており、何らか対象を指示するわけではない。また冒頭の部分は、後半部の言語要素のかかわりに関する欄外の注であって、文の要素ではまったくない。つまり冒頭部分は言語の「語り」の機能を発揮してはいないのだ。
 地図の凡例記号に述語を譬えたこの説明によれば、R(x1, x2, …, xn)の形をした文(ただし、n>2)は文字通り「最小の地図」(minimum map)にほかならない。この観点から、『論考』のテクストに示された言語観のさまざまな側面が無理なく解釈されることは、ここでは逐一述べることはしないが、容易に確認できるだろう。ちなみに、カイトのいう「言語的凡例記号」とポール・ロワイヤル論理学にいう「付帯命題」や、文章の余白に印刷された小さな手の形(ラカンはこれを「コロフォン」として偽造した!)との関連は明らかである。(レカナティ『ことばの運命』新曜社、第7章を参照)
 この説の功績の一つは、述語の機能、すなわち文における名相互のかかわりを実現する働きについて洞察を与えたことだろう。
 述語が介在して初めて成立する文において「示されたもの」をウィトゲンシュタインは文の「論理形式」と呼んだ。ややもするとこの言い方は、文の意味に対立する純然たる<形式>や数学者のいう<同型>の連想を誘いがちであるだろう(その責任の一端は、もちろんウィトゲンシュタインその人にある)。レコード盤、楽譜、音波のすべてに共通する論理的構造があるという指摘(4.014)や、それぞれを関係付ける投射法則への言及(4.0141)も、この連想に油をそそぐ。
 しかし、論理形式は文の内容にもかかわりがあるし*、そこで問題にされているのは、数学的意味における同型といった関係ばかりではない。文において例示され表出されるあらゆる特性や関係が問題なのである。例えば、「葉の下に水禽がいる」という文は、カイトの理論によれば、葉や水禽を指示するとともに、何かが何かの下にいるとう関係を、地図の欄外の注として、語るのでは決してないが、この文のうちにじかに示すのである。だから逆に、文において示されうるすべてのものを、文の論理形式と呼ぶことにすればよい。
注*という文とという文は――それぞれが要素的である以上――論理的に独立である。しかし、ある場所が同時に青くてかつ赤いことは不可能ではないのか。とすると、要素文の連言<かつ>が矛盾(?)するのは、文の形式上の根拠によるのではないことになる。
 カイト流の解釈の意味するところは、しかし以上には尽きない。(ここからはわれわれの拡張解釈である。)例えば、「ヒットラーはスターリンを憎む」という文には、すでに憎しみが示されていることになる。この文はわれわれに人間心理について教授する、いわば小さな「心理学地図」あるいは「心理学的画像」なのである。
 もちろんこの文だけではその憎しみがどのようであったか、憎しみのまざまざとした様式を読み取ることはできない。「〜を憎む」という述語のさまざな振る舞いを言語表現として展開することを通じて、憎しみの表出はより鮮明になるだろう。 しかし、繰り返すと、初めの初歩的な文にもすでに憎しみはいくらかは示されているに違いない。
 他方、「葉の下に水禽がいる」と「ヒットラーはスターリンを憎む」とが両方とも論理形式をそなえているといっても、それぞれの記号機能の質には違いがある。前者では記号機能が字義的であるのにひきかえ、後者では比喩的であるという重大な差を見逃すことができない。このように、論理形式とは、文が所有し同時に自らを指示するものであるかぎりで、文が例示ないしは表出するものにほかならない。(<示し>の記号機能のこうした理解はグッドマンに負っている。)