のイメージングをやり直す(5) 言語の画像理論

namdoog2006-07-15

 われわれは、<言語>を言語-パラ言語-身体運動の三つの層からなる<構造的厚み>と捉える。このパースペクティブのもとで、<言語音>は〔分節音+プロソディー+身体運動〕という構成を具えたものとして出現する。〔後日の補遺:三層構造に対応して、言語音の構造も三つ重ねになるはずだ。例えば、ある文を笑いながら口にしたとする。<笑い>のプロソディーは音声要素であって、これが言語音に統合される点に問題はない。さて笑いは身体運動としては、表情(例えば<顔をくしゃくしゃにする>)とか姿勢(例えば、<お腹を抱えて笑う>)などがあって、これが笑い=音声と連続している。この意味で身体運動も黙示的に<言語音>の要因となるのである。ただし個別的な言語分析としては、言語音の<構造的厚み>を便宜的にいわば薄くする=抽象化することがありうる。〕
 この観察に関して、少なくとも三つの点に留意が必要である。第一に、全体としてのこの構成がソシュール記号学にいう<記号表現>(signifiant)に相当するということである。第二に、ここで<プロソディ>と名づけられた構成要素が、一方で(伝統的言語学詩学で調べられてきた)韻律・声調・ピッチ・イントネーションなどを含むとともに、(正統的言語学が、認知的価値がないとして顧なかった)ノイズ・音の質・沈黙などを含み、さらにまた(言語表現に有意な寄与を果たす限りでの)表情や姿勢などの身体運動的要素をも含むということである。最後に、分節音はデジタルな記号表現であり、プロソディは大半がアナログな記号表現から成ることに注意すべきだろう。
 言語音がデジタルとアナログとのいわば雑種であることは、<論理形式>の様態に関して、理論的可能性として三つの場合があるのではないか、という予想をもっともらしいものにしている。すなわち、①言語音の異質な構成にもかかわらず、論理形式は離散的構造をしている場合、②逆に論理形式が全体としてアナログである場合、③言語音の異質な構成に見合って、論理形式もやはりハイブリッドである場合――この三つの可能性が考えられる。
 なお、ソシュール記号学の枠組みでは、<論理形式>は<記号内容>にほぼ相当するだろう。とは言え、二つの概念が属する思考体系が異なる以上、この言い方はいわば近似値にすぎない。しかし、ウィトゲンシュタインの哲学的回心という出来事が示唆しているように、<論理形式>という概念それ自体が歴史的変容を蒙ったという事実がある。簡単に言うと、<論理形式>は当初の論理学的で純然たる形式的概念であることから、言語表現の<内容>にかかわる言語学的概念へと鋳直されたのだった。この動向を背景にしたとき、<論理形式>を<記号内容>に引き当てることには十分な理由があるだろう。
 今の段階では、上に掲げた三つの選択肢から一つを選ぶのは難しい。そうするためには一層の観察が必要なのである。しかし、ざっと考えただけでも①の可能性は乏しいと思える。すなわち、アナログな表現をデジタルなそれへと還元することは、チューリング機械の内的状態としてはありえても、人間の経験裡における<論理形式>としてはありえない気がする。画家が描く絵画は明らかにアナログである。確かにこの絵画をコンピュータ画面上でデジタル映像として再現できるにせよ、しかしそれを私が視るときの様態――知覚された限りでのデジタル画像――はアナログでしかないだろう。
 また、②の可能性も考えにくい。ふつうの意味での計算(例えば、2+3=5)を行なうとき、頭脳のなかで論理の事柄として生じている形式がデジタルではいけないとする理由をいま思いつかない。逆に、それがアナログな表現であるなら、具体的にその表記(notation)をどうすればいいのだろうか。(このnotationはグッドマンの用法ではない。認知科学でいう<表現>representationとほぼ同じであるが、実質的な記号の形態を考慮に入れたうえでの言い方になっている。)
 こうして、③の可能性がにわかに浮上してくる。しかし問題は、<ハイブリッド論理形式>なるものを精確にどういうものとして理解すべきか、という点である。今ただちにこの問題に決着をつけることはもちろんできない。だが気楽な比喩として捉えれば、③の考え方は魅力的だと言えるかもしれない。ハイブリッドエンジンを搭載した車はエネルギー効率がいいという意味で優れている。人間の思考の機構がこれに類似したものであっていけないはずはない。
 以上を予備的考察として、本論にはいりたい。<論理形式>の概念を20世紀の哲学思想に導入した当事者であるウィトゲンシュタインが問題である。彼はこの概念でどのような事態を考えたのか。それはどこまで妥当だったのか。ウィトゲンシュタインについてよく言われる<回心>からどんな教訓を学ぶべきなのか。
 お断りしたいのは、筆者には、この場所でウィトゲンシュタイン論を展開する意図など毛頭ないという点だ。どんな哲学者であれ、その議論を全体として吟味し批判し咀嚼することがどんなに時間と労力を要する大仕事であるか(これは優れた哲学者に限られた話であるのは言うまでもないが)。ここでその種の仕事をやろうという、そんな大それたことは考えていない。別のところでも明言したように、ここでウィトゲンシュタインに言及する筆者の戦略は、まず、優れた哲学者の優れた洞察を自分の鑑識眼によって発見すること、次いで、この洞察を自分の問題意識に深く結びつけてテストすることに限られている。
 ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で、文(Satz)が画像(Bild)であるという主張をおこなったことはよく知られている。そしてこの見解が多くの批判をあびたこと、ウィトゲンシュタイン自身が後にそれを放棄するに至ったことも周知のことだろう。
 ちなみに、Satzはふつう<命題>と訳される慣わしだが、ここでは敢えて<文>とした。<命題>という存在者の身分に関して厄介なことに巻きこまれるのは避けたいし、何よりもわれわれの問題意識は<言語>に集中しているからである。Bildもふつう<像>と訳されるが、絵画や配線図やダイヤグラムなどを念頭にしつつ<画像>と訳すことにした。
 彼の開陳したこの種の考え方は<言語の画像理論>(picture theory of langauge)と呼ばれることがあるが、ここでもこの呼び名を遣いたい。要するにこの理論は、言語をあたかも画像のように見なす比喩つまりアナロジーなのである。
1) 示しの記号機能
 このアナロジーのポイントは記号機能に関する洞察にある。どういうことかを説明したい。
 ここで一幅の絵「蓮と水禽」(知恩院蔵)をとりあげてみよう。この画面にわれわれはいくつもの要素を弁別する。画面の中央に大きく広げられた<葉>が描かれている。その上に<花>を開いた蓮。葉の上には白い翼をたたんだ<水禽>…。
 こうした記述がすでに比喩である。厳密に言えば、画像には言語とは異なり要素などはない。なぜなら、画面を構成するのは色彩と明暗に過ぎないからだ。確かにわれわれの知覚は、連続体をなす画面の中に、複数の・まとまりのある・形態、つまりゲシュタルト(Gestalt)を識別する。ここまでは、われわれの聴覚が音声の中に言語音を識別するのと同じプロセスである。
 しかし、言語音の核をなすのは分節音だが、画像の場合これに匹敵するものは何もない。換言すれば、ある言語(ラング)に属する分節音は一揃いの音素によって規定されるはずであるが、音素に比類する画像素などは考えることもできない。しかしながら、比喩的な意味でなら――この比喩の構造を厳密に規定することが課題として残っているが――<絵の要素>を云々してもかまわないだろう。
 かくして問わなくてはならないのは、①『論考』の思想が<言語の画像理論>であるという解釈は正しいのか、②正しいとしても、肝心のアナロジーの妥当性はどの範囲で成り立つのか――こうした点を明らかにすることである。(『論理哲学論考』からの引用はテクストの番号を添えて行なうことにする。)
 アナロジーはかなりうまくゆくように思える。すなわち、
 画像では、画像の要素に対象が対応している。(2.13)
 この引用の言わんとするところを念頭にしながら、「蓮と水禽」を見よう。その画面には、葉の下に水禽がいることが示されている。つまり画像要素のあいだの一定のかかわりが、描かれた対象のあいだの一定のかかわりを示すのである。このことをテクストはこう語っている。
 画像の成立は、その要素が互いに一定の仕方でかかわりあうことに基づく。(2.14)
 画像要素が一定の仕方で互いにかかわりあうことは、事物が互いに同じ仕方でかかわりあうことを代表する。(2.15)
 この「代表する」を、画像要素と事物の対応と混同してはならない。画像と画像が描写する(ablilden)ものとは、あるものを共有するのであり、それは二ではなく一なのである。このように「画像は現実にじかにとどいている」(2.1511)。このあるものは「論理形式」と呼ばれるが、画像はこれをただ展示しうるにすぎず、決してそれを描写できない。
 このように、画像は要素の機能とは異なる記号機能をそなえている。それが<示し>の機能にほかならない。
 画像要素が互いにどのように関係するかを「語る」のは不可能である。例えば、<蓮の葉の上に水禽がいる>という文を調べてみよう。確かに<葉>や<水禽>といった画像要素はそれぞれの対象を指示している。確かに(まったく無意味な言い方だが)対象は存在する。しかし<〜の上に〜がいる>という部分は、いわゆる共義的(syncategorematic)表現であって、これだけで意味が完結してはいない。<共義的>とは、独立した意味をもたず、他の語との関連でのみ意味をもつ表現のことである。つまりこの表現は<関係>を積極的に語っているとは見なしがたい。
 ただし、論理学者は二者以上の対象の間のかかわりをすべて<関係>と捉える。それゆえ、ふつうの意味では「共義的」とは言えない述語(例えば、二項関係<〜は〜を頭突きする>、三項関係<〜は〜を〜のために嫉妬する>など)もすべて同じやり方で解釈されることになるだろう。とはいえ、<蓮の葉の上に水禽がいる>という事態が存立することに変わりはない。
 この解釈は、<性質>と<関係>が<対象>のカテゴリーに包含されないこと、<対象>には<個体>だけが含まれること――こうした理解に立つ。これが『論考』の解釈として妥当かどうかについては研究者の間で争いがあるようだ。この論争に立ち入る余裕はないが、論点のひとつを指摘しておきたい。それは、<個体>の解釈に研究者の間でゆらぎがあるということである。<個体>を固有名で指示される存在者に限る解釈は狭すぎる。性質や関係の呼び名をウィトゲンシュタインがいう<名>に含めないのは不自然ではないか。(この点で、野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』(ちくま学芸文庫、p.63 et seq.)の言い分はもっともである。他面で、関係や性質を表現するためには、性質語や関係語が<名>として機能するかぎりで性質や関係が<対象>であるという主張については、われわれは同意しない。この点が<示し>の記号機能の機軸に触れるからである。この問題には後でまた戻ってくることにしたい。)
 <関係>や<性質>を<対象>と見なすときに持ち上がる難問は以下のとおりである。(<関係>の成立には一般に二つ以上の対象を要求されるが、単一の対象の場合に成り立つ<関係>を特に<性質>と呼ぶことにすれば、<関係>と<性質>を統一的に扱うことができる。)
 もし<関係>なるもの――ある種のプラトン主義的存在者――を対象として世界に導入するとどうなるだろう。収拾のつかない混乱を招いてしまうのではないか。すなわち、対象と関係の「関係」をどのように説明するか、という問題である。これに対処するために別の<関係>を容認すれば、われわれはただちに無限後退に陥るだろう。<性質>についても同様のデッドロックが仕組まれている。<ある対象が白い>という事態が、あらゆる特性を欠いた純粋な対象oと白さWの関係であるなら、Woを成り立たせるために別の性質Yが要請されはしないか。しかしYWoを成り立たせるために…、という具合なのである。
〔注:ここでの<対象>という言い方は、『論考』の文脈では存在論的アトムを意味する。<関係>や<性質>がプラトン主義的構成以外のやりかたで構成されたなら、つまりアトムではないのなら、導入可能であろう。〕