のイメージングをやり直す(4) 言語の三層構造

namdoog2006-07-10

<言語情報と非言語情報>:この二分法を乗り越える
 当今の標準的な言語探究は、<パラ言語>なり<プロソディー>をどのように捉えているのだろうか。とりわけ<言語>との関係でそれらがどのような機能を果たすと見なしているのか。最近、情報科学やコミュニケーション研究などの分野で<パラ言語>への関心が高まっているとの印象を拭いがたい。少しばかり文献にあたると、研究者たちが異口同音に<パラ言語>に以下に引用するような説明を施しているのがわかる。(一例として、http://www.vox.tutkie.tut.ac.jp/~taguchi/contents/lr1/para_kan/index_m.html が参考になる。)研究者たちの言い方が互いに酷似している事実は、こうした説明がどこか一定の源泉から<引用>の手続きによって広範囲に流布するに至ったことを示唆している。(ついでながら、スペルベル『表象の疫学』の方法論に依拠しつつ、アカデミック・ドグマの伝播と消長を事例に即して調べることは、興味深い研究分野を切り拓くことになるだろう。)
 「会話は言語情報の伝達だけを実現しているわけではない。音声言語に付随した声質、表情、身振りなどに発話者の態度、状態などが現れており、これが伝達されることではじめてスムーズな会話が成立する。このような言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能する情報はパラ言語情報と呼ばれる。」
 われわれが問いたいのは、言語情報/パラ言語情報、という二分法がはたして正しいかどうかである。いま持ち合わせている材料を使用しつつ、われわれの見方を述べておきたい。なお、新たな素材や概念が見出され次第、この記述を補足し改訂するつもりでいることをお断りしておく。
 もし言語がモノではなくコトであり、具体的に言って<身体のしぐさ>であるなら、言語はつねに身体運動と(言語音ないし分節音以外の)音声との二重構造と分かちがたく結びついているはずである。ポヤトスが指摘するように、私たちは<純粋な言語>を他の表現の厚みと切り離して取り出すことはできない。発話の場に見出されるのは、言語(language)−パラ言語(paralanguage)−身ぶり(kinetics)という、<言語の基本的三重構造>(the basic triple structure)であり、三重の表現が綯い交ぜにされた<厚みとしての言語>なのである。(Poyatos, F. Paralanguage: Interdisciplinary Approach to Interactive Speech and Sound, John Benjamin, 1993 )
 <三重構造>の三つの層を結びつける線(結節線)が全体としての言語に分離を持ち込むのではなく、むしろシームレスな統合を実現するように働いている点を看過すべきではない。言語はいつまでも身ぶりであり続けるのだし、身ぶりもいち早く言語として機能している。そしてパラ言語は、言語的属性を顕著に担うかぎりでいわば言語の原始的様態を示している。この意味で、パラ言語は<プロト言語>であるとさえ評しうるだろう。
 ごく幼い子が何かに心動かされ感に堪えぬごとくに<あぁ>と感嘆の声をあげるのを聴いたことがある。この<あぁ>は決して分節音ではないが、にもかかわらずどれほど豊富な内容を表現し伝達していることか。その意味でこの音声もすでに言語音であると言わなくてはならない。先に<アイロニー>の例を見たが、言語的実演としてのレトリックがパラ言語――詩歌における音数律や音韻律などのリズム、修辞疑問における抑揚、笑いなど――を重用するのは当然のことである。
 上に掲げた引用では工学的観点から説明がなされているために、<情報>のキーワードが説明中で繰り返されている。この用語法はある意味で適切である。なぜなら、このキーワードを<意味>や<表現内容>あるいは<記号内容>などにいつでも代置できるとは限らないからである。<意味>は<情報>であるが、<情報>は<意味>であるとは限らない。<情報>について誰しもが合意できる厳密な定義があるかどうか知らないが、ここではさしあたり、情報を<目だって有意な差異>(perceptibly relevant difference)という概念で規定しておきたい。(perceptibly relevant は冗長な措辞である。端的にまた単純に<差異>でも本来は十分であろう。しかし理由のない物理主義や客観主義が横行している現在、殊更に主観的表現を選んでみた。なお、これでは問題の打開に役立たないことが判明したら、ただちにこの規定を改定することとする。)さらに<意味>は<記号内容>の同義語では必ずしもないから、その意味でも<情報>の使用は安全でもあり便利でもある。
 情報は人の目をひき耳をそばだてさせるだろう。注意の向けられるものは情報をになっている。パースはここに記号の指標性(indexicality)を認めたのだった。例えばコップが割れて床に破片が散乱しているとする。この知覚内容には<有意な差異>が帰属している。床にガラス片が散らばっていることは尋常ではない。普通の状況(normal situation)にある変化がもたらされたのであり、<有意な差異>が知覚の場面に露呈したのである。それゆえにわれわれの思念は、指標性に導かれつつ、このコップを床に落としたという人称的な出来事に向かうだろう。人は、いつどうして誰が落としたのかという疑問をいだく。そしていわば複数の変数をかかえた事態の解を求めようとする。床の上に与えられたのは、<指標>(index)であり<手がかり>(cue, hint)であり、つまりは情報(information)なのである。
 「今日はひどく蒸し暑いな」と発話する。言語情報とは実質的に何をいうのだろうか。それはおおむねということだろう。しかしながら、成分として明示されたt,sへの言及は言語的指標性の実現形態であり、<言語的情報>と峻別された限りでの<パラ言語的情報>などではない。
 tにかかわる情報は、発話中で使用された「今日」という指示表現に由来しているのだが、sに関しては、この発話がなされたという事実性、つまりいわゆる<パラ言語情報>に情報の源泉がある。しかし実はこれは<言語情報>なのである。
 確かに、話し手の心理状態や態度などについての情報は直接的に<言語情報>の中に表されてはいない。しかしながら、ここで俎上にのぼせるべきなのは、表記法の問題ではないだろうか。間接的言語行為のサールによる分析に倣えば、話し手の心理状態へアクセスするための標識がもとの発話に具わっている以上、この標識を発話の命題形式に織り込むことが可能であり、そうするのにそれほど難しさはない。例えば、次のような命題が考えられる。話し手の態度や状態をpで代表させることにすれば、< tという時間規定、sという空間規定において、天候はひどく蒸し暑い、そしてp>が得られる。
 ここででもアイロニーの場合と同じ結果が明らかにされたことになる。アイロニーの意訳を作ってみたものの、それにはアイロニー効果は消えていた、つまり意訳などできないのだった。なぜ失敗してしまうのか。それは表記法(notation)の問題ではないのか。つまり離散的な表現形式に固執するからダメなのではないだろうか。ここで今どきの人のように、絵文字を遣ってみよう。の代わりに、が得られるだろう。この方がよほどましではないか。ここに伏在する論点については次回に主題的に論じる予定でいる。いま肝心なのは、次のような確認である。
 すなわち、<音声言語に付随した声質、表情、身振りなどに発話者の態度、状態などが現れている>という確認から、<このような言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能する情報はパラ言語情報と呼ばれる>という結論へと議論を進めるのには予断や飛躍があると言わなくてはならない。
 <発話者の態度>を表す記号表現は発話の構造の中へ統合することができる。その限りでこの記号表現はまさに<言語情報>を担うのである。逆に言うと、<言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能するパラ言語情報>なる独特の<情報>を想定する理由はないということだ。
 こう言うことで、われわれが言語の三重構造を無視していることにはならない。いま字義的な<身ぶり>のことはしばらく脇に置くことにして、<言語/パラ言語>の対比だけを考察しよう。われわれはこの対比が記号表現の実質に横たわることを否定しない。言語は表現としては分節音を核として成立する。パラ言語は基本的に分節音ではない。この違いは程度の差ではなく、種類の差なのである。
 一般に、<記号表現>がつねにデジタルだと決め付ける理由はない。ある種の<記号表現>はアナログである。人間はこの二種類の構造をそなえたメディアを随意に用いている。例えば、書記言語(書き言葉)の記号表現の構造は(おおむね)デジタルであり、ふつうの絵画はアナログである。デジタル/アナログという二分法を遣って言い直すと、言語音の成分である分節音はデジタルであり、もう一つの成分であるパラ言語的要素ないしプロソディは基本的にアナログである。
 さて、言語音は、分節音と非分節音――後者を誤解のない限りで<音声>と呼びたい――との統合態である。言語音が言語的情報を担うのは、定義からして、当然のことである。そして実際に例証したように、分節音だけではなく、音声もまた言語情報の担い手として機能するのである。
 重ねて確認しておきたいのは、本来の<言語情報>は<パラ言語情報>に対立しないという点である。(音の質によって、言語とパラ言語とは確かに対立する。この場合、音のゼロ度すなわち<沈黙>も音の質に数えうるし、数えなくてはならない。<沈黙>も立派な言語要素ではなかろうか。誰でも経験上知っているように、沈黙はある場合まことに雄弁である。しかし正統的言語学も論理学も、<沈黙>が表現の論理形式に寄与するとは考えてこなかった。)後者も実は<言語情報>に他ならない。それというもの、ある発話が他の発話と「論理的つながり」を保つことを支える原理が発話の<論理形式>にあるとすれば、いわゆる<パラ言語情報>も立派にこの<論理形式>の要因として作用しているからである。
 いったい<論理形式>をどのようなものとして構想すればいいのか。一方でウィトゲンシュタインとその解釈者たちに学び、また他方で認知意味論者たちにも学びながら、この原理的問題へアプローチしてみよう。