のイメージングをやり直す(3) パラ言語とレトリック

namdoog2006-07-06

2 パラ言語学とレトリック研究
 <言語の意味>の観点から、<言語>のイメージを問い直してみたい。正統的言語学に伴走するかたちで言語探究にたずさわってきた種々の試みのうち、ここではパラ言語学とレトリックを採りあげよう。どちらも、正統的言語学とは緊張にあふれた距離感を保ってきたからであり、たがいに補いあい支えあってきたからである。
 古来よりレトリック(弁論術・修辞学)は、ロジック(論理学)とならび言語探究を代表する学科として、カリキュラムの重要な一翼を担ってきた。話し言葉と書き言葉の違いは別として、レトリックとは、内容を単に伝えるにすぎない凡庸な(こう言って語弊があるなら「ふつうの」と言いなおしてもいいが)言語表現ではなく、生き生きとした効果をもち、読者や聴衆から説得をひきだす言語活動のための技法であった。
 古代に始まりその後変遷を経て今に伝承された古典的レトリックは、現代の研究者にとって有益な遺産のようにおもわれる。近年、この遺産を現代的な見地から――例えば、認知意味論や認知心理学、あるいは関連性理論やコミュニケーション論などから――新たな息吹を吹き込もうとする研究がいっせい進みつつある。こうした機運に促されて行なわれている言語探究を総じて<レトリック論>(rhetorical studies)と呼ぶことにしたい。
 レトリック論に少しでも触れたことのある者は、これらの研究が正統的言語学と折り合いをつけられそうもないことに気づいて驚愕する。読者は、レトリック論が正統的言語学に抱かれた<言語の存在了解>に異議をつきつけ、言語探究に携わる者に<もう一つの言語観>を構築するよう強く促していることをまざまざと知るのだ。まずレトリック論に豊かな手掛かりを提供している<パラ言語学>(paralinguistics)がそれ自体<もう一つの言語観>を明確に指し示している点に注意を促したい。(同時に、<パラ言語学>なるものが今どんなに誤解と歪曲の的にされているか――このパラドクシカルな理論状況にも注意が必要である。これについては後述する。)ここでは一例としてアイロニー(irony)をあげることですませたいとおもう。
 アイロニーが聞き手によって、ああ、これはアイロニーだなと了解されるのは(もちろんそれに気づかない暢気な聞き手もいるが)、アイロニーが<表情ある身ぶり>だからである。換言すれば、修辞的表現のタイプとしてのアイロニーを同一指定するためには、表現が所有するアイロニーの標識を捉えなくてはならない。例えば、昨夜の天気予報にもかかわらずひどい雨降りになった翌朝、空を見上げて「なんていい天気なんだ!」と吐き捨てるように言う。この発言の真意を知るためには、発言そのものが演じてみせる表情(それはすでに身ぶりに乗り出している)をキャッチするほかはない。この種の<アイロニー信号>を正統的言語学は無視するか他の言語学的部門――パラ言語学――に丸投げする。なぜなら、アイロニー信号の要素をなす音調、ピッチ、ノイズ、笑いなどには認知的価値がない――言語の<論理形式>に関係がない――として正統的言語学の視野から排除されるのが約束だからである。
 ところで、<論理形式>(logical form)とは何であろうか。これを異論のないよう厳密に規定するのは難しいかもしれないが、そうした概念を形成しなくてはならない動機は明らかだろう。例えば日本語の話し手は、日本語でなされた発話の内容の間に「論理的」つながりがあるという暗黙の理解をもっている。論理学者はこの「論理的つながり」を<含意>として術語化する。ある言語Lの文aが、Lの他の文の集合Xから導かれるとする。このような文の関係性を、と表現するのだが、ではいったい言語使用の問題として、含意をどのように説明したらいいのだろう。
 次のように言っても間違えではないだろう――もしLの話し手がXの要素であるすべての文を受け入れる(これはおのおのの文を理解すると同時に<その文が真である>と想定するということであって、真だと信じることではない)なら、文aをも受け入れるのにやぶさかではないだろう、と。(もちろん、この話し手は、健全な言語知識の所有者でなくてはならないし、記憶も正常でなくてはならない。)話し手が文aを受け入れた根拠のすべてが、文の集合Xを受け入れたことだけにあり、この場面に文の受け入れ以外の何か経験的根拠が介在する余地はないという点が重要である。(例えば、文aを受け入れるやすくする何か心理学的理由や経験的で統計学的な根拠などは関係しないのである。)話し手がまずある文の集合を受け入れたとして、ここに含まれた各文とあらたに受け入れた文aとの間になりたつ、純粋に「構造的関係」だけが問題なのである。
 言語にそなわる純粋な構造的関係だけを表現する記号系を<論理学>と呼ぶことにしよう。このとき、<論理形式>を次のように規定できるだろう。Lの文aの論理形式とは、この文に指定された、論理学Sのある式のことである、と。この場合、論理式を文に指定する関数fは次のように規定される。fの独立変数の集合はL、従属変数の集合はSであり、Lの文aとLの部分集合Xにとって、f(a)とf(X)を得たとき、f(a)はf(X)の<帰結>である)。(この定式については、Stanosz,‘Logical form,’ Dictionary of Logic, Martinus Nijhoff, 1981を参照。)<論理形式>とは、言語の文と文とが論理的つながりをもつ根拠であるところの、文がそなえる形式(内容にはかかわらない)のことである。
 われわれにとって気がかりであるのは、論理形式という発想そのものや論理形式を厳密に規定することであるよりは、それを規定する際に言及せざるを得ない<論理学>についてである。(ラッセルやウィトゲンシュタインを始めとして、20世紀哲学の創出に実質的寄与を果たした哲学者は、<論理形式>についてたびたび議論を重ねてきた。ここでは、研究の一例としてラッセル批判を打ち出した次の文献をあげるにとどめておく。Y. Bar-Hillel,‘Comments on Logical Form,' in Aspects of Language, The Magnes Press, 1970) ちなみに、現時点で言語の分析に適用されている標準的論理学は<第一階の述語論理>(first-order predicate logic)と呼ばれている。<第一階>とは、量化が個体変項だけに及ぼされ、述語変項を束縛しないという意味である。
〔注;本文を読み直して想いだしたことがある。哲学史上に名高いある哲学的回心のことだ。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で打ち出した<論理形式>の思想に、彼は後年ラディカルな変更を加えざるを得なかった。<要素命題>という彼の概念、そして<要素命題は互いに論理的に独立である>という思想には<論理形式>の概念が含まれている。例えば<これは赤い>と<これは青い>はこの意味で互いに独立な要素命題である。なぜなら、それぞれの<論理形式>は含意や矛盾などの<論理的つながり>の形跡を示さないからである(RaとBaとを見比べてみればよい)。だが、ある場所が同時に赤くかつ青いことは不可能ではないか、もし二つの要素命題が独立なら、それらの連言Ra・Rbが真であるはずなのに!――この難題を切り抜けるためにウィトゲンシュタインが示唆した方策には立ち入らないが、いち早くラムジーが指摘したように、それはなんら有効なものではなかった。言語の論理性を純粋な「構造的関係」に全面的に委ねることの不可能性。こうして後年のウィトゲンシュタインは、言語の<文法>を強調することになる。――この事実から当面の問題に関してどんな教訓を導くべきなのか。言語に関するソシュール主義ないし形相主義の破綻をわれわれはすでに確認している。そうであってみれば、教訓とは、従来唱えられた<論理形式>に替えいっそう限定的で内容の豊かな原理を求める必要性に尽きている。<論理形式>の思想は全面的に無効であり、ウィトゲンシュタインはこれを投げ捨てたという、よく耳にする解釈をわれわれはとらない。後期のウィトゲンシュタインに倣って、この原理を<文法>と呼ぶほうがいいのか。結論的に言えば、筆者は<論理形式>の概念を捨ててはならないとおもう。<論理>と<文法>の安直な二分法に逃げ込むのはまずいのではないか。あえて筆者は言うが、ウィトゲンシュタインは<文法>の比喩に逃避したのだ。この仕儀は<問題提起>としては許されるが、<問題解決>では全然ない。筆者は拙著『恣意性の神話』第五章で<論理形式>の問題を集中的に論じている。そこで得られた知見を改めてここでの思索へ統合しなくてはならない。著者は自分の著作をつねに読むべきだ。ともあれ、読者にはこの注を念頭に本文を読んでいただきたいと思う。〕
 さて、われわれの気がかりは、いわゆる日常言語のあらゆる「構造的関係」を果たしてこの種の論理学で表現しうるのだろうかという疑念に集中する。ふつうの言語は、真理値を担うことのできる「確言」(constative)タイプの発話(オースティン)のほかに疑問や命令といった多種多様な「実演発語」(performative)からなっている。後者のごく荒っぽい構造をサールが発話内の力+命題形式と分析したことはよく知られているが、述語論理には発語内の力がそのままの形では組み込まれていない。
 この空白を満たすために直ぐ念頭に浮かぶアイデアは、あらゆる発話行為の文を行為を明示する動詞を使用して確言タイプの表現に変換して論理学へ取り込むことであろう。例えば、「部屋からでてゆきなさい!」という<命令>は、「話し手は聞き手に出てゆくよう命令する」という具合に。この変換が首尾一貫してすべての発話行為文に対して行使できたとしよう(できると裏づけがあるわけではないが)。
 それでも、まだ大幅に空白の領域が残されている。アイロニーはまさしく取り残された表現の一例なのである。そのように判断する理由はすでに述べた。繰り返すなら、アイロニー信号の要素をなす音調、ピッチ、ノイズ、笑いなどが言語の<論理形式>の形成に寄与するはずはないと見なされるからである。もちろん、アイロニーを字義的表現に意訳することは可能かもしれない。だが意訳された表現はアイロニーの面目を喪失しているだろう。例えば、「なんていい天気なんだ!」を「話し手は、天気予報をはずした者を批判して皮肉をいう」と意訳できるかもしれない。だがここにはアイロニーの効果はまるで失われている。「〜と皮肉を言う」という発語はそれ自体ぜんぜん皮肉にはなっていないのだ。つまるところ、<意訳>などは原理的に不可能なのである。しかしながら、アイロニーアイロニーたるゆえんのもの、つまりアイロニー効果は表現の認知的価値の一部であり<論理形式>の要素をなすはずではなかろうか。
 こうして真に検討されるべき問題が浮上するだろう。すなわち、音調・ピッチなど<プロソディー>と一括される音声学的要素は本当に<論理形式>に効果を及ぼすものだろうか。
 ただちにイエスともノーとも言えない。一つには、<プロソディー>の境界画定の基準が分明ではないという点がある。第二に、たとえ境界画定がなされたとしても、「文脈規定性」がここに関与する事実を認めなくてはならないという事実がある。換言すれば、ある言語音(分節音)の機能的生成に際して、文脈上ノーマルな音素設定のメカニズムが作動しないことがあり、それでも聞き手は言語音を聴取する以上、ノーマルな場合であれば<プロソディー>として音素規定力をもたない音声の実質が意義をもつに至るのだ。これは<プロソディ>と<分節音>とがある意味で連続的であることを示している(こうして、第一の論点へ再帰してゆく)。
 心理学的用語で言い直すと、<プロソディー>の問題とは、<感情と知性の区別は絶対的であるかどうか>という問題でもある。アイロニー効果とは感情の表出がもたらす効果のことである。例えばそこでは<侮蔑>や<忌々しさ>という感情が吐露されている。これらの感情は認知的価値をもたないのだろうか。知性的表現が認知的価値をもつという意味ではもたないとしても、別の意味では十分に認知的でありえるのではないか。(少し飛躍した言い方になるが)ある風景を「陰鬱なもの」として感情価にくるんで把握することは、この風景の知覚を構成する対象認知(例えば、そこに川が流れているという知覚)と遜色のない認知の営みではないのか。
 認知に関する<感情と知性>の二項対立が相対的妥当性を有することは認めつつも、それを絶対化してはならないとわれわれは思う。感情の認知力能を明らかにする必要があろう。われわれは<示しの記号学>に依拠することによって、この課題に応じうると考えている。