のイメージングをやり直す(2) エネルゲイアとしての

namdoog2006-07-02

 われわれが現時点でなすべきは、<言語>に対して正面切って愚直な問いを立てることである。言語の存在論的身分ははたしてモノなのだろうか。
 たしかに正統的言語学へ礎石を据えたソシュール記号学においても、事柄はそう単純ではなかった。その構想には、モノではない<言語>の要素もたしかに含まれてはいた。ソシュール記号学が言語という主題に関して、<言語能力(langage)-ラング(langue)-パロール(parole)>という三つ組みを提唱したことをよく知られている。
 最初の<言語能力>とは、人間が生まれながらにそなえている、記号を産出し使用する能力である。ソシュール流の記号思想においては、記号の最たるものがいわゆる「言語」に相当するという。だがここには二つの問題が潜んでいる。 第一に、「記号の典型としての言語」という把握にどれほどの根拠があるのか――蜜蜂のダンスや小鳥の囀りなどと比較して、人間言語が「超」のつくほど有力であるのは確かであるが――必ずしも明らかではない。言い換えれば、<言語中心主義>の正否について大幅に疑念が残るのである。
 第二に、<言語能力>を単に形式的・抽象的に主張することにさしたる問題はないが、実はこの観念が<言語>という主題の残りの二つの分節とあわせ具体的・実質的に提起されている点に留意しなくてはならない。<言語能力>はラングとパロールにおいて現実化されると見なされている。われわれはこのロジックに賛成できない。なぜならば、ラング/パロールという概念区分によって表現された<言語>イメージは――言語を語る際の便利なツールであり、言語という主題への問題提起としても有益だが――理論的に言って正しくないからだ。
 以上の観察を要約すると、<モノとしての言語>という誤解は、もっぱら<ラング>の理論的構成に由来することがわかる。それゆえ、正統的言語学が<パロール>を無視してきたのも当然のことであり、また言語への新たな視界――詩学、レトリック、エスノメトドロジー、社会記号論、談話分析、統合主義など――が<パロール>へのアプローチによって、いわば<逸脱>や<異端>の装いのもとに、切り開かれてきたことも当然だといわなくてはならない。哲学の領域でこの動きに――それと知ってかどうかは別として――呼応するのが、言語哲学における語用論・言語行為論・意味の使用説などであった。この流れには、現象学的社会理論やメルロ=ポンティの言語理論なども棹差している。
 こうした言語思想史の展開をもういちどやり直す必要がある。言い方を変えてみれば、「話す主体へ帰ろう」というメルロ=ポンティの呼びかけに「真面目に」応じることが肝要なのだ。(ちなみに、メルロの<話す主体>(sujet parlant)という表現は、元来、ごくふつうのフランス語の言い方をソシュールがその講義のなかで<話し手>の意味で用いたことに遡る。)途中を端折っていえば、いま<言語>のプロトイメージとしておのずからクローズアップされるのは、<身体のしぐさ>にほかならない。
 言語を<身体のしぐさ>としてモデル化することには重要な論点が含まれている。便宜的に問題を二点に集約することにしよう。第一に、言語が基本的にコトという存在論的身分を有すること、第二に、言語のコトは身体性であることを示したい。
1 言語はモノというより、コトである。言語はまずもって働きであり、出来事であり、過程である。
 言語の形而上学は<プロセス>を基本的存在者として採りあげるべきだろう。パースの<記号過程>(semiosis)という概念が注目されるゆえんであるし、また<記号機能>を基軸とした記号学が構想されなくてはならないゆえんでもある。またグッドマンの世界制作論はこうした視点から吟味される必要がある。
 言語思想史に多少とも通じた読者は、ここでフンボルト(Humboldt, W. von; 1767-1835)の名を想起するかもしれない。ここはフンボルト論を述べる場所ではないが――文化相対主義者として、あるいは<民族>を称揚したロマン主義者として彼を葬り去ることはできない――なぜその名が思い出されるのか、その理由に触れなくてはならない。
 フンボルトの言語理論は、言語を構成する二つの原理としての<内的言語感覚>と<音声>との対立にその基礎を求めている。彼によれば、言語は出来上がった作品(エルゴン)ではなくて、活動(エネルゲイア)である。言語とは「分節音声を思考の表現たり得るものとするための、永劫に反復される精神の働きなのである。」(『言語と精神』第12節、翻訳としては、亀山健吉訳、法政大学出版局、がある。)したがって、「言語というものは、その本質に即して捉えて見ると、実は、終始中断することなく、あらゆる瞬間ごとに移ろい続けてゆくものである。文字に書き写して移ろう言語を留めようとすることでさえも、結局は、言語をミイラのような形で保存するだけの不完全なやり方に他ならず、書かれたものをもう一度、生き生きと口に出して我々の身近なものとすることがどうしても必要となってくることになる。」(第12節)
 言語音の機能的生成という観点から、われわれが注目するのは、特に次のような考え方である。「言語という思考の表現をもたらす精神の活動も、何らか所与との関わりを常にもたざるを得ない。その意味では、この活動も純粋に創造的であるというわけではなく、既にあるものを作り変えるだけにすぎないのである。」(第12節)この引用の言わんとするところは、言語の産出力が記号系の再帰的うごきであるという洞察だと思える。フンボルトと共にわれわれは、所与として原言語の働きを想定する。この働きは再帰的構造をそなえているのであり、螺旋状の永久運動(「永劫に反復される精神の働き」)をなすはずである。
 この引用に含まれた論点はさしあたり二つある。第一に、ソシュール流の<言語の恣意性>という偽概念に標榜されたような<自由>ではない、もうひとつの<創造性>を打ち出しているという点。第二に、<所与>を遡及するときに発見される<身体性のアプリオリ>への暗示である(フンボルトのいう「音声形式の支配力」つまり<エルゴン>の<エネルゲイア>への作用)。この確認は自然に次の論点に展開してゆく。(前に言ったように、ここでフンボルトの言語論を吟味するつもりはない。いまは単に、言語のイメージを革新するうえで、彼の言語論が取りこぼしてしまった一つのポイントを指摘しておくだけにしたい。すなわち、<コミュニケーションとしての言語>という論点である。<民族>や<精神>を言語理論へ組み込むことは正当だしフンボルトの記述から多くを学びうることも確かであるが、他面においてその記述がいつもどこか空疎なのは、この重要な論点が堅持されていないためではなかろうか。(事情は、当今の言語学で指導的立場にあるチョムスキー言語学についても同様である。)この点については機会を新たに考察を試みたい。
2 <身体のしぐさ>としての言語は、基本的に身体運動として把握されなくてはならない。
 これは至極当然のことではなかろうか。言語とはまずもって<音声言語>(speaking)であった。ごく少数のグループだけが<書字言語>(writing)を能くすることができたし、いまもそうである。いずれにしても、これらは身体運動であってモノを産出する点では共通している。ところが多くの言語学者そして言語哲学者はとくに、あたかも音声言語が文字表記に還元できてしまうような錯覚に陥っている。音声言語の記録形式としての文字表記(notation)と本来の<書き言葉>ないし<書記言語>とはあくまでも別物である。これは、日本語とそれをモールス信号でコード化した記号系とが別であるのと同様なのである。
 <言語>を身体のうごき(エネルゲイア)として捉えるとき、所産(エルゴン)としての<音声>がはじめて<言語>の統合的要素としてその正当な位置を与えられるだろう。正統的言語学は、所産としての音声さえ無視してきた。例えば、ラングにしても生成文法にしても純粋な形式性にすぎない。そこで思念された<言語>とは、<音のしない音声>という一個の<矛盾>であるならまだましだが――つまり意味があるのだが、精精のところ、<無矛盾性>という無意味を実現しているかどうかも疑わしいという有様である。
 <言語>を基本的に<身体のしぐさ>と押さえるとき、言語の多層構造がおのずと浮かび上がってくる。ポヤトス(Poyatos)はパラ言語学に関する体系的著述において、言語(language)−パラ言語(paralanguage)−身ぶり(kinetics)という、<言語の基本的三重構造>(the basic triple structure)を構想した。言語の意味あるいは言霊は、透明な意識が所有するわけでも、透明な意識への対応によってそれ自体透明化する「記号」が映じだすのでもなく、身体のしぐさという<構造的厚み>に宿るほかはない。簡単にいうと、意味は身体に宿るのである。こうして、もっと精しく観察すべきなのは、<言語の意味>の問題ということになる。