のイメージングをやり直す(1)  パロールの循環

namdoog2006-07-01

 <言語>のイメージはそれこそ手垢にまみれてしまっている。記号学の問題として<言語>へアプローチを開始するためには、まずもって真実味のある言語のイメージを描くことから始めなくてはならない。以下はそのための覚書である。テーマがそれなりに大きいので、これはその初回の内容(このブログの他の記事もすべて同様といえばその通りであるが)。またすでに公にした文章が利用されている点もお断りしておこう。
1 20 世紀以降の<正統的言語学>が依拠する言語イメージとその存在論的含意
 ここで<正統的言語学>と呼ぶのは、おおむねソシュールが礎石を据えた以後に展開された言語学をいう。もちろんそうは言っても、現に行われている優勢な言語学には幾とおりも種類があり、一概にそれらをひとからげに評価するわけにはゆかない。しかしソシュール言語学が創出し提示した<ラング>(langue)としての言語、つまり<言語記号のシステム>(système de signes linguistiques)としての言語、という了解はそれらの言語学に共通していると見てさしつかえない。
 さらに細かく見ると、たいていの言語学が、言語の音声部門を分析する音韻論(phonology)、言語要素を結合し変形して文を生みだす構文論(syntax)、言語の意味を扱う意味論(semantics)という三つの分析レベルを<言語システム>――<言語記号のシステム>の略である――に対して設けている点でも共通している。(その後、言語の運用を調べる<語用論>(pragmatics)の分野が著しく発展したが、この点についての評価は後に述べよう。)
 ところで、言語システムが成り立つためには、三つの分析レベルのおのおので、紛れのない基準で規定された単位的な言語要素が言語的事象(話し言葉であれば、言うまでもなくこれは<音響的出来事>(acoustic event)つまり<音声>(voice)である)から抽出できなくてはならない。なぜなら、それらの言語要素が相互に関係しあうトータルな様態に、ひとつの<言語システム>が過不足なく重なるからである。換言すれば、要素の関係性全体がひとつのシステムを同定するのである。
 こうして、<文の生成>のためのなじみ深いイメージがもたらされることになる。つまり人間は、単なる素材としての音響から言語音を濾過して取り揃え、この素材を継ぎ接ぎして語彙を形作り、さらに語彙を組み合わせて文を作るという。
 このイメージにいっそう具体性をもたせてみよう。ここに積み木のアルファベットが収められた玩具箱がある(積み木は無尽蔵であるらしい)。玩具箱の中から積み木のアルファベットを一定数選び出しそれらを正しい規則に従って並べてゆくと文が出来上がる――こうしたイメージは、<文の生成>を説明する理論モデルとしてそう的外れではないだろう。この種のイメージが正統的言語学を基本的に掣肘してきた点を看過してはならない。
 ソシュールは言語探究が<言語システム>としてのラングを研究対象にする場合にかぎって学問(discipline)になると考えた。言語の使用あるいは個別的な発話である<パロール>(parole)は個人的・偶然的などの属性のゆえに言語学本来の対象とはならない。ちなみに<パロール言語学>にソシュールが言及しなかったわけではない。ただこの種の言語学(例えば<音声学>(phonetics))には消極的役割しか与えていないし、ありのままを言えばその種の言語学は否定されたも同然なのである。
 言葉によるコミュニケーションをソシュールは<パロールの循環>としてモデル化した。彼のアイデアを理解するには、講義録に添えられた挿絵(ここにも引用したので見て欲しい)が役だつだろう。この絵にあるように、まずAという話し手が脳裏にある概念を想いうかべる(意識事象)→ この概念が聴覚イメージと連合して記号表象を構成する→ この表象にともなう生理過程によって音声が作りだされる→ 音声は音波として聞き手B の耳に達する→ 耳から脳へ達する生理的過程が生じた結果、Bの脳裏に聴覚イメージがもたらされ、それに対応する概念と連合する→ 結果として、BはAのパロールを理解する→ 今度は役割の交代が生じて、Bが脳裏に特定の概念を浮かべる→ そして……(以下略)、という具合に<コミュニケーション>の過程が進んでゆくのだという。(周知のように、このアイデアは後年コミュニケーションの「コードモデル」(code model)として洗練されることになった。)
 このコミュニケーションモデルが含意している存在論的想定を取りだしてみよう。第一に、コミュニケーションとは、ある人物の思想をなんらかの意味で物質化して他の人物に送りとどけることだ、という理解がある。後年このモデルは「導管の隠喩」(conduit metaphor )と呼ばれることになったが、コミュニケーションがまるで品物の宅配かなにかのように描かれている点に注目しなくてはならない。
 頭脳の中は視えないので観察できない。観察しうる言語の事実といえば音声以外にはないが、もちろん言語であるかぎりこの音声は意味を有している(例えば、くしゃみの音声と比較せよ)。さて問題は、この種の音声が明らかに事物ないしモノの存在性格をもつという点だ。ここでソシュールがあれほど忌避したはずの実在論へ舞い戻っているのはどうしたことか。もちろん、パロール言語学が見捨てられた限りで、このモノ=音声を<言語>と呼ぶのをソシュールはためらうかもしれない。しかしラング=可能性に依拠したその現実化としてのパロールが<言語>でないはずもない。これは、梱包され届けられた品物が歴としたモノであるのと同様である。
 さて第二に、AからBへ思想が容器に収められて配達されるためには、AとBとがあらかじめ――ソシュールの用語を遣えば――同じラングを共有しているのでなくてはならない。上記のように、おのおのの言語記号は厳密な基準によって同定されるモノである限り、それらが構成する<言語記号のシステム>としての<ラング>もまたモノでしかない。要するに、言語は――細部から全体にいたるどこのレベルでも――事物あるいはモノに過ぎないとするのである。
 これは『一般言語学講義』の読者にとってまことに意外な顛末である。なぜなら、言語記号から一切の<実質>(substance)を捨象した功績によって、後世、<構造主義>の始祖と呼ばれることになったのは、ソシュールその人であるからだ。