記号の二重性を脱構築する――ソシュールを遠く離れて

namdoog2006-06-29

 <言語記号の二重性>という存在構造を解明した点におそらくソシュール記号学の最大の功績を認めうるだろう。しかしながら、われわれはこの種の解明が―控えめに言って―画龍点睛を欠くというおもいを深くせざるを得ない。
 問題はソシュール記号学が抱え込んだ根拠のないドグマとしての<形相主義>にほかならない。周知のように、ソシュールによれば、記号なるものは、一面では記号表現、他面では記号内容という二つの面が表裏をなす統一的構造である。この場合注意すべきは、この両面がいずれも<形相>という形而上学的身分をもつことだ。
 具体的に言うと、記号表現である<聴覚映像>や記号内容である<概念>は物理的実在ではないのは当然のこととして、便宜的にそれを――実際ソシュールがそうしているように――<心的な存在者>と呼ぶとしても、この形容詞を心理主義的に解することは許されないのだ。ソシュールは緻密な哲学者ではなかったから、哲学的観点からは、彼の用語法は必ずしも適切でないことがある。他の哲学者ならここで<心的>と呼ばれた様態を<理念的>と呼ぶに違いないと思える。ソシュールの言う<心的なもの>としての<聴覚映像>と<概念>とは、心の中に浮かんだイメージ、心理学的観念、中枢神経系における物理化学的作用など、これらのいずれでもない。要するにそれは<可感的なもの>(le sensible)のカテゴリーには属さないのである。
 こうして、彼の構想する<言語記号>ならびに<記号一般>はすみからすみまで形相化される仕儀になる。(よく知られているように、後年、コペンハーゲン学派のイェルムスレフがソシュールにおける形相主義を純化し完成することになる。)
 形相主義のデメリットには数多くのものがあるが、ここではその一二を指摘しておくだけにしたい。まず、言語記号が形相化され記号のうごきが凍り付いてしまうという点がある。記号一般は体系が付値する特定の価値を受け入れるだけの、スタティックで空虚な形式性(血肉を欠いた骨格か?)になる。パロールがラングと交叉する事実性からラングの体系に導入される<ゆらぎ>が禁忌されているのだから、記号の空虚化もむべなるかな、と言わざるをえない。第二に、そもそもわれわれは言語音をあるクオリアとして聴取している。ソシュールは言語から<記号の実質>を排除したが、クオリアとしての音声とは、どう考えても、この<実質>に相当するのではないか。形相としての言語音とは、‘原理的に聴き取られない音’(le son non-audible)のことではないだろうか!
 われわれは、『一般言語学講義』が<形相・質料>という古代形而上学のカテゴリーを導入している点に着目する。そしてまたパースの<型・型代>(タイプ・トークン)の区別にも依拠する。そのうえでソシュール記号学に手直しを加えたい。
 まず音韻論のレベルにおいて、個物としての言語音を解析する。例えば、ある音声学的素材を利用しつつ、そこに含まれた有意な特徴によってこの発話の音韻型を析出する。ある事例を次のように表記したい。括弧で括られた全体がある言語音であり、その内部を見ると、一方に音声学的素材=質料があり他方に音韻の型=形相があって、両者が統合されている。
1音韻) (音声学的素材p1│音韻型π1)
 この言語音は、例えば/pin/と聴取されるが、別の機会に再び出現するかもしれないかぎりで、/pin/の型代(トークン)であるに過ぎない。しかし型代の一つに数えることができるのだから、/pin/の型(タイプ)に合致していることは明らかである。
 今度はこの言語音全体を質料とする記号が成り立つ。これは論理学者のいうメタ言語とは正反対の位相に成立する記号の形態であり、バルトのいう<内示>(connotation)の位相に出現する記号である。この位相を<語彙>と呼ぼう。それは次のように表記される。
2語彙) ((音声学的素材p1│音韻型π1)│概念P1))
 これは例えば、「ピン」という名辞である。その上の位相については省略するが、要するに、言語音からスタートして<質料・形相>の相対的階層を経由してさらに高次の言語要素を漸次構築していく方法をとっている。ソシュールの形相主義(形相の絶対化)を免れていること、言語の統語的秩序へのわれわれの自然な理解と調和的な解析であることがおわかりいただけるだろう。ソシュール記号学における言語音の取り扱いとこのやり方が違う点は、前者が形式主義を徹底するあまり言語音の質料的側面を排除してしまうのに引き換え、このやり方ではそこへも考察を行き届かせているという点である。新たな枠組みにおいては、個物(ないし型代つまりトークン)としての言語音を考察すると同時に、型つまりタイプに即して言語音を考察することもできる。要するに、ふつうの意味での具体的な言語音を、厳密な形式化を諦めることなく、考察する可能性が与えられている。
 われわれのアイデアは単純であって、要するに<音声言語>の属性である<音>の実質を言語分析のなかに取り込むにはどうしたらいいかを「真面目に」考えようというに過ぎない。ソシュール記号学は<言語の実質>を理論的理由で無視した(いや、無視できると誤認した)のだが、そうした<理論>は間違っている。
 質料を言語のなかに組み込む最大のメリットは、意義変化や多義性・言語の文脈規定性・パラ言語的要素・言語の運動学的側面などを「言語学本来の問題」として考察できるようになるという点だ。(ちなみに、こうした問題群は、ソシュール記号学においては、偶然的・個人的・通時的な言語現象あるいはパロールに帰属する現象とみなされ、それゆえ言語学埒外にあるとして無視される。)一言でいうなら、<言語のダイナミズム>が言語研究の対象領域に正当にも帰属することになる。こうした事態は、<言語>の像を明確に描こうとするにつれて、ますます明らかにされるだろう。