複数主義と世界の表情性

namdoog2006-06-27

 われわれはヴァージョンを制作しながら、同時に世界を制作する――グッドマンによる記号主義ないし世界制作論(theory of worldmaking)の核心は、こうした命題に要約することができる。ちなみに<ヴァージョン>とは、知覚・科学・藝術などの主要な記号システムの連携的働きによってもたらされるひとつの記号システムである。(その存在様態を示す標識として、社会性、歴史性、文化性、身体性などをあげうるが、ヴァージョンの存在論そのものにはここでは深入りできない。)
 われわれの見るところ、世界制作論に含まれた最大の問題点は、その<複数主義>(pluralism)であろう。例えば、天体の運動に関する地動説と天動説を考えてみよう。現在では地動説が「科学的に正しい」とされているが、かつて人々は天動説を疑いもしなかった。実際に、双方の理論をリアリティ記述の方式と見なすならば、ものは言いようの喩えどおり、二つの記述方式に、便宜的理由以外には優劣の基準は見当たらないのだ。例えば、捕虜収容所の歩哨が上官にこう命令されたとしよう、「捕虜が少しでも動いたら銃撃せよ」と。ところが、この歩哨は、身動きもせずに整列していた囚人のグループに向かってやにわに発砲したのだ!これを咎めた上官に向かって彼はこう弁明した、「連中は地軸の周りをすごい勢いで動いていたものですから」と。いったい誰が、どんな根拠で、この歩哨を処罰できるのだろうか。グッドマンはこう断定する――地動説的な世界がひとつの世界(a world)なら、天動説的な世界も世界(a world)としてリアルに成立している、と。
 問題の深刻さを知ってもらうために、平面幾何学を理論の一部に取り入れているある科学理論を考察してみたい。この幾何学は<点>を<二本の線の交点>として定義している。つまり<線>という原始概念をもとにして、<点>を構成的に定義しているのである。ところが幾何学の作り方には、別のやり方もある。この幾何学は<線>を<点の集合>として定義している。つまり前者とは異なり、<点>を原始概念として遣って<線>に構成的定義を与えているのである。注意すべきは、この二通りの幾何学が、空間の性質を記述し表現する力の点で互いに何の遜色もないということである。(二つの幾何学は、グッドマンの用語では外延的同型という関係にある。)途中を省いていうなら、われわれは同じ現象を説明する、同等に正しい、二つの科学理論を所有することになる。ふたたび途中を省いていうなら、こうしてわれわれは二つの世界に直面することになる。
 二つの世界に直面する?これは全体どういうことなのだろうか。<世界>といえば、この目の当たりにする一つの世界しかありえないのではないのか。英語でというが、この定冠詞は、世界が個別的でかつ唯一の存在であることを示唆している。古来、哲学者たちは、<世界>概念が<一者>、<無限>などに類比する<超越概念>である点でほぼ一致してきた。さて、グッドマンの場合である。ヴァージョンは確かに記述方式であるが、グッドマンの場合、それは「単なる」記述方式ではないのだ。ヴァージョンはある意味で世界そのものである。われわれはヴァージョンを制作しながら、同時に世界を制作する。
 この複数主義には、筆者同様、抵抗をおぼえる論者が多いように見受けられる。しかし彼の議論に致命的欠陥や大きな穴は無いようにも見受けられる。いや、どこにも欠陥などは見つからないというほうが正確だろう。――かくして、われわれはディレンマにぶつかる。
 このどん詰まりから抜け出るには、どうしたらいいのか。筆者はここしばらくこの問題を追跡して来たが、重大な手がかりを<世界の表情性>そして<音楽>(musics)に見出すにいたった。
 簡単に言えば、グッドマンが世界の複数性として設定した事態を、超越としての世界(the world)の複数の表情性として概念化しうるのではないか、という提案である。この場合の<表情>はもちろん比喩である。人はしばしば歴史時代(例;ヴィクトリア朝時代)や藝術様式(例;ロコロ、バロック)についてその表情を語る。この場合、<表情性>とは時代や様式の同一性の基準なのである。別の哲学者のテクストを参照するなら、この問題は<世界のスタイル>(メルロ=ポンティ)にほかならない。それと同じような意味合いで、<世界の表情>を語ることができるのではないか。
 スタイルとは何か、表情とは何か、複数の音楽とは何を意味するのか、世界の同一性とは何の謂いか…。これらの詳細についてはおいおい書いてゆくつもりである。