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namdoog2006-06-25

 パースは、生涯を通じて、記号のタイプを体系的に分類しようと、たゆまず考察を重ねた。もちろん彼から学びうるものは、この上なく大きい。しかし結局は、<記号の分類学>という問題設定そのものが――純粋な記号の存在を前提しているかぎり――誤りだと言わなくてはならない。この点はすでに拙著『恣意性の神話』勁草書房で述べたが、改めて問題点を例証しておきたい。(例の大半をシービオク「指標性」(『かたちとイメージの記号論東海大学出版会、1991、所収)から援用したことをお断りしておこう。)
 アルコール温度計は、パースによれば<インデックス>つまり<指標>というタイプの記号である。なぜなら、アルコール柱の伸び縮みが大気の温度変化を原因として生じるからである。これがアナログな記号系であるのは明らかだろう。
 ではアルコール温度計は絶対的な意味で<指標>であると言えるだろうか。そうは言えないのである。日中の最高気温が30℃以上の日のことを<真夏日>という。日本は湿度がひどいから、真夏日には大抵の人が不快を感じる。さていま、ふつうの温度計の目盛りを一度消してしまい、新たに30℃の目盛りだけを有する温度計を作るとしよう。これは、真夏日である/真夏日ではない、ということだけを表示するディジタルな記号系だ(<真夏日計>と名づけよう)。いまやこれは、<真夏日>の指標であると同時に、<真夏の暑さ>の象徴となるはずだ。―以上の観察は、任意の記号が純粋に一つのタイプに合致するとは限らないことを示している。しかも、モノとしての二つの温度計に違いはないから――それゆえに、30℃の目盛りだけしか注意しない人は他人が温度計を別のそれに取替えても文句を言わない――結局は、純粋なタイプの記号などはない、と言うべきだろう。
 このことを見やすい他の例をあげたい。それは星条旗つまりアメリカの国旗である。この旗には、少なくともアイコン性、インデックス性、象徴性の三重の記号機能が輻輳しているのだ。第一に、図柄にある 50の星が現在の州の数、13の赤白の条(すじ)は独立時の州の数を表わす限りで、星条旗はアイコンつまり類像である。第二に、この旗の使用法が問題になる。例えば、騎兵隊が突撃するとき、星条旗を標的に向けて構えて号令するという慣習があった。つまり星条旗は、人差し指(index finger)のように指標として機能している。最後に、星条旗焼き捨て事件に関するアメリ最高裁の判決は、国旗が感情のこもった象徴であることを示している(なおグッドマンの記号学では、<表出>の記号機能に相当する)。
 アルバロ・オブレゴン将軍の腕をご存知だろうか。この腕こそは、純粋な記号タイプなどないことを鮮やかに例証している。メキシコのこの将軍は、1915年、戦争中〔いわゆるメキシコ革命〕に肘から腕をもがれてしまった。1989年までこの腕はメキシコ・シティの記念碑にホルマリン漬けにされて陳列されていたという。これは<指標>である。ところが作家ガルシア・マルケスは、「別の腕を持ってきてこれに替えても変わりはあるまい」と述べたのだった。つまりそれは<象徴>でもあるということになる。
 とりわけ記号学にふさわしい例として、<フェティシュ>(fetish)を挙げなくてはならない(よくは知らないが、足フェチやら何やら色々とあるらしい)。詳細は別の機会に譲るしかないが、この種の記号系においては、明らかにインデックスが同時に性心理学的記号カテゴリーとなっている。(ここでもグッドマンの<表出>機能が認められる点を指摘したい。)
 パースは、記号タイプがそのまま純粋なトークン(型代)をもつ、という前提を設けていながら、他方ではこう述べている。「不可能とはいわないが、完全に純粋な指標、(逆に)指標性の完全に欠如した記号を見出すことは容易ではないだろう」(パース、CP 2.306)と。ようやく彼が見出した「純粋な指標」は、言語的なもの――指示代名詞と関係代名詞――であった(3.361)。なぜならそれらの言語要素は、単にモノを指示するだけで記述は何もしないからだという。だが、この断言には言語学的観察が不足しているのではないだろうか。
 パースが陥った錯誤は、<外延指示の誤謬>(denotation fallacy)にほかならない。すなわち、記号機能のプロトタイプを<外への指示>(denotation)として要請する見地である。しかしながら、グッドマンが――そもそもパースその人も!――明らかにしたように、記号機能とは、記号系の再帰的うごき(recursive move)に他ならない。すなわち<外>は記号機能が遂行された後にはじめて設けられるカテゴリーなのである。
 新たにスタートを切る決意をした者は、ここに<記号学的顛倒>を仕掛けなくてはならない。飛躍したものの言いようになるが、パースが科学にたびたび言及しながら藝術に大掛かりな考察の目を向けた形跡がないのは偶然ではないだろう。