画像の存在論のために ――リードを参照する(2)

namdoog2009-11-20

 ギブソンは、迫真性を厳密な複製から恣意的なものまでのひろがりをもつものと捉えた。後者は社会的慣習に基づくもので、記号的機能にほかならない。(同書、P.327.)
 [非記号的画像知覚と記号機能としての画像知覚、というこの二分法が、ギブソンの知覚論の根底にいつもある。前者つまり非記号的画像知覚は、「慣習」に拠らないというかぎりで「自然現象」だというのである。この二分法はじつはソシュール記号学の基本的想定にほかならない。実際これは古代にまで遡る由緒ある二分法なのだ。すなわち、古代ギリシアではノモスはピュシスに鋭く対比させられていた。筆者はグッドマンとともに、そもそもこの種の二分法には(その一定程度の妥当性は是認するものの、存在論の基礎概念としては)賛成できない。筆者に関しては、例えば、論文「「自然的記号」という誤謬」(『恣意性の神話』勁草書房、1999、所収)を参照されたい。グッドマンに関しては、例えば次の証言をあげることができる。グッドマンのLeonard誌に掲出された書簡( Leonard Vol.14(1981), p.86.)である。]


(……)わたしは慣習的(conventional)という語が厄介な用語だというカリアーの意見に賛成する。だからわたしはそれを遣わないようにしている。さらに最新著『世界制作の方法』において、わたしは、慣習的なものと事実的なものとの間に明確な線は引けないと論じている。とはいえわたしは、遠近法が描出の忠実でないやり方だと言いたいのではない。わたしはただ、遠近法が状況次第で忠実なこともそうでないこともありうる数多くの他のシステムの中のひとつに過ぎないと主張しているのである。
 リードによると、ギブソンは、画像知覚の迫真性に対して慣習の要因は(論理的に)独立であると認めたという。慣習的あるいは記号的な要因が大きく関与した画像知覚が迫真性をもつことが十分ありうる。[このくだりのギブソンの見地(あるいはリードのギブソン解釈というべきか)は少なくとも筆者にはたいへん曖昧なものに見える。迫真性と慣習との対比、あるいは知覚と記号機能との対比をギブソンはたんに程度の差と考えたのか、それとも種的な(generic)差と考えたのか――もし程度の差と考えたのなら、彼にはグッドマンに反対する理由はない。もし種的な差だと見なしたとするなら(そうだと思える)、慣習的もしくは記号的要因が大きく関与した画像知覚はどのようにして迫真性をもちうるのか。]
 投射に基づく視覚の迫真性の説明では、模擬がきわめて上手くいった場合に、それはモデルの複製であることになってしまう。だが観察者が事物と絵画を混同するようなだまし絵などは存在しない。[リードはこう述べて、このことを、ギブソンが修正デカルト主義的視覚理論から後期の理論へ自分の見地を推し進めた契機に数えている。](p.328,)
 やがてギブソンは、投射モデルないし遠近幾何学の見地から、動く観察者の視覚光学へ接近していった。(p.329.)
 この新たな見地から古典的遠近法をとらえ返すとどうなるか。古典的遠近法は、光学的構造のたんにひとつの側面に過ぎない。肌理の密度勾配や運動遠近法などの動力学的な光の構造が制限された事例として理解できる。画像的知覚に関するギブソンの基本的問いはいまや次のものになる――静止した画がどうしてリアルな情報を能動的観察者に与えることができるのか。こうして「機能的迫真性」がギブソン理論の機軸的な概念となる。(pp.330-331.)
 ただし光の投射が作りだす像と光配列とは厳に区別しなくてはならない。適切な知覚を生み出す絵画は投影された景色の複製である必要はない。絵画は、描かれた景色と同じ構造を含む光配列の扇状の部分を画面に生み出せばそれで十分なのである。(p.332.)
 ギブソンは、「絵画とは、観察点の光配列を利用できるようにした表面で、通常の環境の包囲光配列に見つけられるのと同種の情報を含む表面である」という新たな定義を構想した(1971年)。絵画は事物の模倣でも、事物の記号でもない。[邦訳では「シンボル」とある。]慣習という因子が画像知覚にどのように働くかという問題に関して、ギブソンはこう考えた。絵画が情報を利用できるようにさせる方法は、慣習や文化に相対的でありうる。例えば、遠近法には西洋のものとは異なる東洋的な「逆遠近法」もある。ただし、情報そのものは慣習的なものではない。情報はあくまでも生態学的なものである。
 [ここに筆者はすでに述べたのと同じ問題を見出す。ギブソンの「情報」は直接性、知性による構成以前という性格、記号による媒介がないという特徴などをそなえている。彼が「直接的実在論」(direct realism)を主唱するのは、この情報概念のためである。しかしここに最大の問題が横たわっている。この種の「情報」もまた人間の身体性(embodiment)という存在構造によって構成されたものに過ぎないし、どこまでも〈記号〉という存在性格を免れないのだ。話は簡単である。もしギブソンの「情報」が、あらゆる種類の記号を離れたXであるなら、それについて考えることも言葉にすることもできないはずだ。ギブソン理論における慣習の位置づけは、ときに曖昧であり、ときには誤りである。](p.333.)
(つづく)