画像の存在論のために ――リードを参照する(3)

namdoog2009-11-26

 ギブソンの絵画に対する基本的見地は、絵画を情報の表示と見なすことにある。画像知覚はこのかぎりで文字情報の理解に似たところがある。ギブソンはいう、「表現されたもの[ここでは一枚の絵画を考えればよい]を知覚することは、読んだり聞いたりして理解するよりも、見ることにより近いのは確かだ。しかし表現の知覚がふつうの世界の知覚と同じだというのは正しくない。ただし、絵画の知覚には言葉の理解より直接性がある」(1979)と。(p.334-336.)(以下[ ]の部分は、前回同様、筆者の即興的メモないしコメントである。)

[ギブソンのこの議論は「徹底性」を欠いているといわざるを得ない。作品としての絵画は記号系である――この事態は、一編の詩が言語を素材とする記号系であるのと何の違いもない。どちらの記号系も知覚されると同時に解釈(理解)されるのだ。そう言い切ることが必要なのである。ギブソンはそこを曖昧にしている。〈知覚〉と〈解釈〉は格別相反する過程ではない。
 ところでギブソンが「直観」の用語を術語として使用いているかどうか、筆者は確認していない。だが彼は認識に関する直観主義者だと思える。つまり知覚に対する記号の媒介を原理的に是認しない考え方の持ち主なのである。
 ギブソンはどこかで「世界」と「環境」を区別していた。この区別は環世界論の提唱者ユクスキュルによる「環世界」と「外界」の区別を彷彿とさせるが、しかしギブソンの曖昧さを晴らすためにこの区別は何の役にも立たない。この区別はおおむね「主観的世界」と「客観的世界」に対応するが、そもそも「主観−客観」という対概念が――常識的用法はいざしらず形而上学の基礎概念としては――いい加減な擬似概念に過ぎないからだ。
 ギブソンは絵画について「像」の観念を否定し「情報」を持ち込んだが、結局はカントの「物自体」に酷似する「鈍重な存在」(グッドマン)を偽造することになった。この種の言表しがたいモノ(存在)を想定したことがいけないのではない。この想定が形而上学にとって空疎でしかない点が問題なのである。]

 上の引用に続けてギブソンはこう述べている。「間接的でも直接的でも、全ての視知覚の基礎は情報のピックアップであり、感覚作用をもつことではない。視知覚が基づいているのは、光配列の情報で、放射光線ではない。」(p.336.)

[つまり、視知覚(風景のそれにせよ、絵画のそれにせよ)=直接性=情報のピックアップ、だという。「感覚作用」を退けているのは、直接性を言うためである。換言すれば、感覚所与への意味付与(言い方はほかにも可能だが)=知覚、という類の、知覚の二段階構成説を退けるのだ。
 私見ではこの「直接性」の概念が曖昧に思える。目を開けて対象へ向ければそれで視知覚が成り立つわけではないことをギブソンはよく知っていた。メルロ⁼ポンティ流の言い方をすれば、知覚と運動は一体の働きである。
 同様にギブソンは、知覚が探索運動と切り離せないことを強調する。このような知覚の構造とその機制は、知覚の「直接性」や「情報のピックアップ」という考え方と衝突しないだろうか。つまるところギブソンには「直接性のレベル」という一見パラドクスじみた(しかし正当な)見地が欠けているために、彼の議論に混乱が生じているのだ。「直接性」は絶対的ではありえない。人間的経験であるかぎりは、経験はただ相対的にしか直接的ではありえないのだ。そして実際、このくだりに続けてリードは知覚と探索過程の統合を強調している。]

 もう一度、絵画に関する生態光学的な捉え方を確認しておこう。リードによれば、「絵画は物や風景に似せてつくられたものではない。それは観察者に眼の前に存在していない光景を見ることができる情報を与える特別な工夫である。そこには確実に、情報の選択がある。」(p.343.)

[この「絵画の定義」には文句のつけようがない。しかしここにもわれわれがすでに「直接性」について確認したような落とし穴が仕掛けられているのではないか。「情報の選択」と言われたときの「情報」は絵画がアフォードする情報である。だとすると、実景がアフォードする情報は無選択的全体性、示差的構造を欠くのっぺらぼうだとでも言いたいのか!
 しかし、ふつうの知覚が探索過程を契機とする働きであるかぎり、知覚はいつでもすでに「選択的」でしかありえない。こうして、実物の知覚と絵画の知覚との(リード的定義による)区別はもろくも崩壊する。
 問題はむしろ、この選択のやり方、あるいは選択の規定要因の違いである。おおざっぱな話だが、選択の規定要因に関しては、実物知覚の場合、知覚主体のプラグマティックな要求(need)がものをいうが、絵画知覚の場合、美的観賞の要求が重要である。もちろん解明すべきは、この「美的観賞の要求」の内容である。] 

 画像知覚の議論の最後に、リードは「像の歴史」という問題を提起する。絵画は生物学的な機制がもたらす像の問題でもないし、文化において発達してきた象徴過程[記号過程]に参入することを通じて獲得されたものでもない。あるいは簡単にいって、文化の記号主義 対 自然の図像という対比図式では捉えられない。像が歴史を持つことがこれを証拠立てている。先史時代の絵画、鏡像、初期の宗教の像、初期の光学的像、遠近法的な像、望遠鏡による像、等々。(pp.344-345.)

[確かに像は歴史性をもつ。この論点は重要である。ギブソン=リードが主張するように、これは、像が自然-文化の二項対立を離れた存在者であることを暗示するように思える。だが彼らの批判は、奇妙なことに、自然-文化の二項対立を<前提>として確保する結果を招いている。問題なのは、この二項対立を越えることなのに。問題はそう単純ではない。まず〈像〉の現実性をあながち否定できない。だが像の知覚が(ギブソンにおけるように)機能に変換されたとしても、像はなお存続しつづけるだろう。「像の変換」が〈像〉を条件とするのは自明である。ではそもそも像とは何だろうか。このようなcriticalな問題群をギブソニアンは見ないふりをしているのだろうか。結論として、この章におけるリードの議論はいささか楽観的あるいは詰めが甘いように思われる。] (了)