直接知覚とは間接知覚である(あるいはその逆)

namdoog2009-12-01

 前回まで、リードによるギブソン理論の解説を参照しながら、画像知覚の問題を検討してきた。今回は締めくくりとして同じ資料の第16章に着目しよう。その検討を通じてかなり決定的な知見を導くことができるように思える。

 ギブソン-リードの見地からみると、環境要素の知覚(ふつうの意味での知覚)と記号系の知覚(例えば、画像知覚や言語知覚など)との相違は、これを知覚の構造とその機制とかかわせて捉え返すとき、「直接知覚」と「間接知覚」の相違にそのまま重なり合う。(リード『伝記ジェームズ・ギブソン』(佐々木正人監訳)、勁草書房、2006、p.411.)

 ギブソンは、環境についての意識が、表象や感覚作用から外的対象を推論する過程に基づく必要はないことを主張した。環境を特定する情報がリアルなものとして存在し、この情報を検知することが、すなわち〈知覚〉の働きであるのなら、検知のための行為=知覚はそれ自体が特定されるものついての意識なのだ。(ibid.)

 ギブソンの論敵は、彼の知覚理論には表象と認知過程への言及がないかのように扱ってきた。だがこれは――リードによれば――完全に誤りである。彼は、間接的で媒介された[すなわち記号系による媒介である]知覚が不可能だとは言わなかった。ただ「間接知覚」を彼は再定義したのに過ぎない。すなわち、ギブソンによれば、表象は社会的媒介物として進化したものである。社会的動物は環境を間接的にも知覚できる。

 この説の眼目は、表象とは情報選択過程の結果に過ぎないし、他者に何かを気づかせるために有用な表示であるということに存する。(Gibson, The senses considered as perceptual systems, Boston: Houghton Mifflin, 1966.)

 このポイントをやや詳しく見ることにしよう。描写、指示、信号、シンボル等、あらゆる表象は、集団が情報を分有するという動機によって進化した。ダーウィンが指摘しているように、群れで生きる魚や鳥や哺乳動物のほとんどが、情報を仲間の動物に利用できるようにする表示の能力を進化させた。(Darwin, The expressions of the emotions in animals and man, London: Murray, 1987.)

 [ギブソン-リードによる、直接知覚/間接知覚の説明ないし記述については、特に問題とすべき点はないように思える。とりわけ、表象もしくは表象能力が、生物個体ではなく、生物種のレベルにおける認知の「分有」という要因がそれらの進化を推し進めたことは自明であるようにも思える。しかしながら、筆者は、間接知覚の概念規定が直接知覚にそのまま妥当するのではないかと疑っている。少し説明しよう。]

 [ある生物個体がなんらかの環境要素ないし外的対象を知覚したとする。どのようにして当該の個体にとって、この知覚が可能になったのか。そもそも直接知覚の可能性の制約とは何か。ここで詳説のいとまはないが、「本能」はきわめて曖昧な観念である。もしそれを生物種に固有で生得的な行動パターンであって、個体の生存や種の維持にかかわる基本的なもの、というほどの意味に解したとする。
 この観念とセットにされて(対照的な意味で)多用される語が「学習」にほかならない。「本能」だけでは環境にうまく適応できない場合、生物は試行錯誤を通じて環境適応的な新しい行動を形成するのだとされる。筆者に言わせるなら、この本能−学習という対概念は致命的な限界をかかえた便宜的な観念に過ぎない。(詳しくは、筆者の『いのちの遠近法』、新曜社、1995、pp.254-263を参照していただきたい。)]

 [図式的な言い方になるが、多くの場合、ある生物種の親と子の間のコミュニケーション(身振り、鳴き声、匂い等)を通じて、外的対象の「直接知覚」が子である生物個体に機能として身につくのだ。もちろんこの「学習」を可能にするのは生得的潜在能力つまり「本能の枠組み」である。このように、「直接知覚」はいつでもすでに「間接知覚」なのである。事例としてわれわれつまりホモ・サピエンスの「直接知覚」を考察するなら、事態は明らかだろう。
 例えば「社会的参照」(一般的定義に関しては心理学事典を参照していただきたい。一例をあげておこう。赤ちゃんはつねに養育者との情動的やり取りを通じて外的対象に関する情報を獲得している。例えば赤ちゃんにとって見慣れぬ対象に手を伸ばすとき、母親がダメとかキケンだといった否定的表情をあらわに見せると、赤ちゃんはそれを「触れてはならないもの」としてカテゴリー化して手をひっこめるはずである)の研究は事柄の実態をよく示している。
 ここで強調しておきたいのは、知覚の遂行とは、古めかしい言い方をすれば、〈知覚判断)(例えば、暗黙裡になされる「これはリンゴだ」という悟性的判断)であり、近年の心理学用語を遣えば、「カテゴリー化」(categorization)だという点である。
 こうして問題は次のようになる。知覚が遂行するカテゴリー化は(いわば)主観的かつ直観的なものなのか、それとも相互主観的で媒介的なものなのか。私見では、ごく原始的なものを除けば、あらゆるカテゴリー化は相互主観的(メルロ⁼ポンティによれば、むしろ「相互身体的」)であって、コミュニケーションが媒介している。その限りで「直接知覚」はそのまま「間接知覚」なのである。]

 リードはまた別の論点を提示している。アフォーダンスの意味は、それを特定する情報が利用できるときに直接知覚できる。だがそれを間接知覚することもできる。それは、情報を誰かが選択し絵画や言語等の表象形態で表す場合である。(p.413.)

 [リードの議論は、自然な環境要素の知覚つまり彼らのいう「直接知覚」においては対象について情報の選択がなされていない、という想定を伴う。「情報の選択がなされていない」ことが知覚の「直接性」のひとつの含意なのである。しかしこれは事実に反しまた原理的にも不可能である。
 例えば、眼の前のリンゴは、色、形態、香り、重さなどいろいろな属性をもっている。原理的に属性の数は無限にいたるはずだ。色だけを取り上げても、そのリンゴの部分によって微妙に色合いが違うだろうし斑点があったりもするだろう。形態についても同じである。だが事実、われわれはこのリンゴについてそれが持つはずの無限の属性を「直接に」知覚しているのではない。
 対象を知覚するとき、われわれは、個別的で無限な属性をパターン化して捉えているのである。ここに強力な「選択」の機制が働いているのは明らかではないか。知覚の実際は、ある対象を〈リンゴ〉とカテゴリー化して画布に描くのとよく似た営みなのである。]

 リードは、さきに筆者が指摘した点を、あたかも是認するような言葉を記している。「ヒトでは、個人と社会の認知と意識の過程が完全に混ざりあっている。」そしてギブソンから「媒介された理解は、直接的な理解と結びつき、融合する」(Gibson, 1976)という証言を引用している。(p.413.)
 [だがこれは彼らのいわばリップサーヴィスに過ぎない。というのは、リードは言葉を継いでこう明言するからである。「直接知覚と間接知覚はつねに人間の意識において混ざりあっているが、まず直接知覚がある」と。換言すれば、まず「純粋な」直接知覚があるというのだ。原理的には、個人意識(=直接知覚)が最初に来るのであって、社会的認知(=間接知覚)はその後に来るのである――われわれはこの見地を受け入れることができない。]