知覚における算術の誕生 (8)

namdoog2010-11-26

 こうして見てくると、音階が音楽の<スタイル>を決定する最大の要因であることが分かるだろう。あらためてスタイルとは何だろうか。
 この概念は基本的に存在論的概念として理解されなくてはならない。styleはたいてい「様式」や「文体」などと訳されるが、語源をさかのぼれば、ラテン語のstilusつまり「蝋をひいた板に文字を刻みつけるペン」をいう言葉だった。これがひいては「記された文章」、さらに「文章を書く様式」を意味するようになったのである。
 初め作家の表現様式つまり文体を意味したスタイルは、やがて、一方では個人の行動様式や暮らし方(「ライフスタイル」)を、他方ではあらゆる藝術へと適用される概念となっていった(たとえば、ある画家のスタイル、ダンサーのスタイルなど)。さらにこの概念は個人から集団および歴史的な意味での時代まで適用範囲を拡大することになる。たとえば、「未来派のスタイル」、「バロック様式」など。
 重ねていうと、<スタイル>は基本的に存在論の用語である。つまるところスタイルとは――表現を生む主体の存在論的身分が何であれ――表現主体の同一性の顕現のことである。したがって、ある作品のスタイルを分析し解明することを通じて、原理的にはその作品を制作した主体を同定できるはずである。
 これでようやくメルロの「転調」概念の解釈をおこなう準備が整った。メルロによるこの概念の使用例をあげよう。
 人間の行動はどのようにして実現されるのだろうか。たとえばタイピストが巧みに両手の指を操作して文書を作成するときに、何が生じているのか。タイピストは自己の身体が客観的空間のなかを移動し軌跡を描くその表象をもつわけではない。いちいち自分の指の位置を空間に投射しながらタイプすることなど、ロボットでもないかぎり不可能である。
 とはいえ人間はロボットではない。メルロに言わせるなら、行動を理解するためには、観念論や主知主義を捨てると同時に機械論も捨てなくてはならない。私たちが赴くべきは身体性の存在論なのである。すなわち〈タイプを打つ〉という行動は、つねに固有な表情をともなう運動性の転調として現象するのだ(邦訳『知覚の現象学Ⅰ』、242頁)。
 ここでメルロは明らかに人間の行動を音楽になぞらえている。『行動の構造』で描かれたように〈行動〉の存在論的身分とは表情をともなうゲシュタルト構造である。音楽もやはりゲシュタルト構造から成り立っている。それゆえ行動することは運動性(motiricité)の次元における音楽の演奏にほかならない。〔追記:勿論、これは人間行動が文字通り音楽だというのではない。両者がゲシュタルト構造を共有し一方が他方の隠喩だという意味である。〕


 メルロ=ポンティはさまざまな場面あるいはさまざまな存在の水準で身体性としての実存の「転調」を語っている。転調が文字どおりには、楽曲の途中でその調(ton)を変えることであるのはすでに述べた。となると、転調が生起した前後に楽曲という同一の存在者が持続していることになる。換言すれば、転調の前後でゲシュタルト構造の経験的カテゴリー(この場合は<音楽>)が保存されたといえる。
 保存則に適合する転調の場合でも、その効果がかなりドラスティックなこともある。たとえば教会音楽スタイルの曲の途中でそれが沖縄民謡スタイルに転調したらどうだろう。(保存則が成立していないという認定の可能性さえある。この論点は別途考えたい。)
 だが一般にこの種の保存則がいつでも成り立つとはかぎらない。ある存在者にたいして転調が遂行された結果として<カテゴリー転換>がもたらされ、最初のとは種類の異なる存在者が生成することもある。
 メルロ=ポンティが論究しているおのおのの事例に深入りすることはできないので、すでに述べた事例(色彩からの絵画の生成)のほか若干の事例を念頭にしつつ、<転調>の本態を明らかにしたい。
 彼によれば、言語は実存の言語的所作への転調であり(同書、316頁)、また神話や夢や狂気の経験は覚醒した生の転調であるという(邦訳『知覚の現象学 Ⅱ』、132頁)。セザンヌの描く画の上で色彩がモノの形をとるのも紛れもない転調の事例である(同書、380頁)。
 これらの転調が、存在性の多岐にわたる水準で遂行される、存在者の構造変換であることはすでに指摘した。またこの構造変換によって新たな事物や事象のスタイルつまり同一性がもたらされ新たな存在者が生成される働きである点も指摘をした。
 以上にたいして私たちは、転調とは、ある水準おける記号系をつくり直すことによって別の記号系をもたらす働きであり、この意味で厳密には「再帰的動き」(recursive move)と呼ぶのが適切な<身体性の身振り>であるという観察を提示したい。
 転調は記号系をその外部から加工する作用ではない。転調における、記号系の記号系自身へのかかわり(再帰性)、という契機が重要である。おそらくは、メルロが、知覚と科学的認識の関係を、連続性と非連続性の両義的関係として把握した真の理由はこの〈再帰的動き〉にある。しかし、この契機をメルロは明らかに示してはいたが、定式として語ることはしなかった。また彼は、おのおのの転調に関して必ずしも周到な記述を与えなかった。第三者として見るなら、彼は問題にたいしてたんに図式的解明を差し出したに過ぎないと言えるのである。

 「転調」に近い内容をもつもう一つの比喩的概念を紹介しておく。メルロは画家の藝術家としての職分を「世界を絵画に変身させること」と捉えている。また画家自身も自分の様式を確立するまでにこの「変身」を遂げるという(前掲の『世界の散文』を参照)。
 「変身」(métamorphose)という語は多義的である。ローマ神話が物語るように、ユピテルが白鳥に姿を変える(変身)のも、錬金術師が鉛を金に変化させる(転換)のも、オタマジャクシが蛙に変化する(変態)のも、すべてメタモルフォーズである。この隠喩の概念的眼目が〈同一性の転換〉にあることは明らかだろう。また同一性に関与する以上、暗黙裡に存在者のスタイルが問題になっているのも明らかであろう。そのかぎりこの概念は「転調」とほとんど同じ内容を具えている。
 〈転調〉が変化する存在者の構造についても有意な情報を与えるのにたいして、〈変身〉にはそうした含意がない。そのかわりに別の方向で〈同一性の転換〉を描いている。いずれにしても、<転調>のほうがいっそう適切な隠喩的概念のようにおもえる。 (つづく)