臨床的眼ざしの誕生――医療の記号論

namdoog2011-02-08

〔本稿はかつての草稿に推敲を加えた改定版である。〕

記号学/記号論の構想は<医療>をとりこめるか

 医療という社会的実践そのものが、パースのいう意味での記号過程(semiosis)にほかならない。この認識を多くの人はまだ共有してはいないようにみえる。たとえば緩和医療をとってみよう。多くの人は、医療のある特定分野としての「緩和医療」をなかば認識的でなかば技術的な実践の過程として捉えつつそれが実在するのを当然のこととして想定している。その後で、この過程を言説の舞台とした、この種の医療についての記号過程(会話やコミュニケーションなど)が成り立つ、と捉えているようなのだ。
 ソシュール記号学の構想をいまいちど想いおこす必要がある。講義のなかで記号学についてソシュールが述べたことばをいささか長くなるが引用しよう。


(…)ラングはひとつの社会的制度であるが、これは他の政治的制度、法律制度などとはいくつかの特徴によって区別される。その特殊な性質を理解するには、あらたな秩序の事実を持ち出さなくてはならない。ラングは思想を表現する記号体系であり、この点で、文字や指話法(alphabet des sourds-muets)や象徴的儀礼、礼儀作法、軍用記号などと比較されうるものである。ただ言語はこれらの体系のうちもっとも重要なものである。そこで、社会生活のさなかにおける記号の営みを研究するような科学(une science qui étudie la vie des signes au sein de la vie social)を想像することができる。それは社会心理学の、それゆえに一般心理学の一部門をなすだろう。われわれはこれを<記号学>(sémiologie)(ギリシア語のsemeion「記号」から)と呼ぼうとおもう。それは、記号が何から成り立ち、どんな法則がそれらを支配するかを教えるだろう。それはまだ存在しない科学である。(…)言語学はそうした一般的科学〔=記号学〕の一部門に他ならず、記号学が発見する法則は言語学にも適用されるに違いない。後者はこうして人間の現象の総体のうちでよく定義された領域に結び付けられることになる」(『一般言語学講義』(小林英夫訳)、岩波書店、一九七二年、三三頁) 。
 この構想には曖昧な点やいまでは承服できない観念も混じっているが、明らかなのは、「ラングがひとつの社会的制度」だということ、さらにラングとの類比において言語を含めたいっそう広範な記号システムを構想しうること、さらに「社会生活のさなかにおける記号の営み」を研究する科学を「記号学」として構想可能だということ――これらのソシュール的論点である。
 もう一人の記号学を創設した大立者であるパースの場合はどうだったか。ある論者が指摘するように、「パースにとって、対話プロセスとしての記号過程という観念は、彼の思想の中心をなしていた。記号はそれを解釈する者なしでは存在せず、記号論的コードは、当然ながら社会的慣習である。」(Daniel Chandler, Semiotics for Beginners, Routledge, 2004, ‘Criticisms of Semiotic Analysis'.)ここにはソシュールと同じ趣旨の構想が認められる。
 <医療>が社会的実践(知識と行動のシステム)であるかぎり、記号学は当然ながらこれを研究対象にする。しかしこのことは、<医療>の存在様態が記号学的であることをただちに意味するわけではない。もちろん<医療>は言語や記号とかかわりをもつ。診察室で医師は問診をおこなうし、看護師にことばで指示するなど、言語行為が<治療>を構成する重要な要素となっている。あるいはレントゲンなどの画像診断は記号解釈の問題にほかならない。そのほか医療のあらゆる局面で各種の記号システムが介在することは明らかである。
 しかし繰り返すなら、<医療>に多種多様な記号過程が介在することと、<医療>そのものが記号過程である、ということはべつである。後者の見地を確立するためには、「あらゆる社会事象は人が生きる環境ないし情況の内部から遂行される当事者の認識技法を通じて生成する」という視点が必要である。そして実際、ソシュール=パースの記号学の伝統にはこの要請がともなうのだ。

徴候への眼なざし

「記号」(Σήμειω; sēmeion)にかかわる用語法がヘレニズムの伝統に初めて現れたのは、紀元前4世紀におこなわれた医療の文脈においてであったといわれる。実際に、「医聖」の名を贈られたヒポクラテス(Hippocrates , 459-350.B.Cあるいは460-377.B.C.)の文書に「記号学」に相当する語(Σήμειωτική )が見いだされる。彼はそれまでの呪術と区別がつきにくい治療技法を実証的観察と理論の基盤のうえに打ち樹てた人物として知られている。この場合のΣήμειωとは病の「徴候あるいは症状」(symptoms and symdromes)のことである。言い換えれば、Σήμειωτικήは、文字通りには「徴候学」(semeiography)あるいは診断学(pathognomy)を表わすことばだといえよう。こうして、「記号」が「徴候」として実現したことは、医療実践にたずさわる主体が、現象学メルロ=ポンティのいう<知覚物>(le perçu)――つまり患者の行動や身体の状態――をまさに<徴候>として眼ざすことできるようになったことを意味する。
 徴候を眼なざす視覚の成立は、<診断>という医術的実践が生成する条件である。この眼なざし(=記号学的機能)が成立する以前には、<診断>なるカテゴリーはなかった。ところで、日常的知覚は、煙という徴候から、火が燃えているという事態の認識を引き出すだけではない。徴候の知覚には、将来生起するかもしれない事態への認識がともなっている。たとえば、いまのところ草原のある小部分にくすぶっているだけの火は、放置すれば草原一面を焼き尽くすかもしれない。この記号認識をふたたび医療の平面にもちこんでみよう。言うまでもなく、われわれが得るのは、患者の<予後>についての認識である。この種の記号認識の総体を<医療>という実践領域に対応づけるとき、明らかに<治療>というカテゴリーが得られるだろう。

指標記号とエスノメソドロジー

 <徴候>に関する重要な問がまだ問残されている。どのようにして徴候のさまざまな形態からとくに「病気の」徴候が選り抜かれたのか、あるいは<症状>や<症候>(symptoms and symdromes)のカテゴリーはいかにして可能なのか。
パースの記号分類に従えば、徴候は<指標記号>(index)の典型である。指標記号とは、「それがある個体のかたわれであることに、その表意的特性の根拠があるような表意体(representamen)である」(Collected Papers of Charles Sanders Peirce, 2.283; ちなみに「表意体」は「記号」signの別名である)。
 ここで「かたわれ」(second)と呼ばれたものは、ある個体のいわば過剰部分である。たとえば「風見鶏は風の方向の指標記号である」(2.286)。なぜなら――と、パースはいう――第一に、風見鶏が風と同じ方向を実際にとり、その二つの個体の間には現実の結合があるからであり、第二に、われわれは一定の方向を指す風見鶏を見ると、それがわれわれの注意をその方向に惹きつけ、方向が風に結びついてことを了解せざるを得ない――そのようにわれわれ人間ができているからだ(ibid.)。
 ある方向に流れる風があることは、風見鶏という道具(風のかたわれ)があることを必然的に含意するわけではない。その限りでこのかたわれはある個体の真正な部分ではなく(もしそうなら、両者の結合には論理的な必然性があることになってしまう)、単に「過剰な部分」にすぎない(この意味で両者の結合には物理的な必然性しかない)。
 しかしながら、すべての徴候が<症状>であるわけではない。徴候は天候、景気、戦乱、地震などの天災など、さまざまな出来事を表意できるのだ。徴候がとくに病気や健康の文脈に排他的に出現するには然るべき理由がなくてはならない。
この「理由」は<眼なざす>という身体技法に求められなくてはならないだろう。たとえば、風見鶏を眼なざすときの暗黙知(身体技法)と皮膚に出現した発疹を眼なざすときの暗黙知とはいわば専門を異にしているのだ――この確認と同時に、医療の記号学的考察は医療の社会学と切り結ぶことになるだろう。社会学サイドからの試みとして、ガーフィンケル(H. Garfinkel)に始まるエスノメソドロジーethnomethodology)をあげることができる。
 「エスノメソドロジー」とは何か。ethnoという語は、ある社会のメンバーが彼の属する社会の日常的知識をいつでも使用できることを意味する。とすると、たとえばethnobotany (民族植物学)とは、ある社会のメンバーが植物を主題とする事柄を扱うための方法論(認識システム)に相当する。人類学者のように、他の社会から来た外来者には、この種の方法論はまさに植物についての認識であり、社会内部のメンバーにとっては、ethnobotanyは(「植物」をトピックとする)行動や推論のための適切な基盤である。 ――すなわち、ethnomethodologyとは、一般に任意の主題について、ある社会のメンバーが日常的行動を理解しそれを達成するために用いる方法論(a system of methods used in a particular area of study or activity)の経験的研究のことである。(「エスノメソドロジー命名の由来」、ガーフィンケルエスノメソドロジー』(山田富秋ほか訳)、せりか書房、一九八七年、所収)。

<医療の記号論>の方法論的基礎

 あらゆる種類の<医療〉は記号過程であって、人々のコミュニケーション過程のただなかで創出され維持される。言い換えるなら、一定のスタイルをもつコミュニケーション過程そのものが<医療>なのである。ここには、当然ながら、患者やその家族、医療者などのコミュニケーションの主体、そして病院あるいは看護ステーションなどの制度的機構、そして医療機器、医薬品などの物的対象なども関与している。 
こ の種のコミュニケーションを従来の言語学によって解析ないし説明することは、いくつかの点で不可能だと言わざるをえない。第一に、従来の言語学はモノフォニーの言語学でしかないか、またはせいぜい対話の言語学が試みられてきただけであるのに、緩和医療=コミュニケーション過程は明らかに多声的(ポリフォニー)だからである。たとえば「カンフェランス」(conference)を言語学的に記述するためにはそれをモノローグやダイアローグではなく、独特な(sui generis)言語的相互行為としての「会議」を解明しなくてはならない。第二に「対話」の場面に話をかぎっても、従来の言語学は言語の厚みを単一な層(言語要素のシステム)に還元してしまっている。ところが医療の現場では、たとえば医療者や患者の身振りや眼なざしなどの身体運動がやはりものを言う。
 従来の言語学は言語能力と言語運用の区別、あるいはラングとパロルの区別を立て、当面の言語学的探究を言語能力ないしラングの面に限っていた。では従来の言語学は、言語運用ないしパロルの部面に対して手をこまねいていたのだろうか。決してそうではない。全体としての言語学を構文論、意味論、語用論という三つの柱に部門立てすることが行われた。哲学理論としての「言語行為論」や日常言語派の分析さらにグライスの「意味理論」などの影響を蒙りつつ「語用論」がかなりの展開を成し遂げている。この延長上で、スペルベルとウィルソンの「有意性理論」ないし「関連性理論」(Relevance Theory; RT)は、非言語的記号機能の理論化のために「非自然的意味」(グライス)の概念に依拠しつつかなりの達成をもたらした。
 しかしながら、RTにせよほかの流儀の語用論にせよ、それが基本的に言語の「分断主義」(segregationalism)を克服していない限りにおいて、やはり致命的な限界を抱えているといわざるを得ない(このロイ・ハリス(Roy Harris)の指摘に筆者は同意する)。付言すれば、社会記号論の新たな展開として、シルヴァスティンは指標記号(インデクス)に焦点を絞った言語探究によって社会的実践を解明しつつある(シルヴァスティン『記号の思想――現代言語人類学の一軌跡』(小山亘編)、三現社、二〇〇九年)。とはいえこの試みもやはりハリスの批判を免れるわけではない。
にもかかわらず、多声的でかつ統合主義的な言語探究を学問として仕上げること――これをいま目標にすることは、記号学的探究にとって現実的ではない。また、それが何か実質的な学問体系として仕上げられる保証などないのではないか。とすれば「多声的かつ統合主義的言語探究」という理念は、記号学的探究が進む方向を誤らせないための「指針」ないし「制約」として持ちこたえるべきだろう。


<症状>の生成

 前節で出会ったいっそう重大な問題に帰ることにする。徴候への眼なざしがそれを〈症候〉と捉えること(症候の生成)はどのようにして可能だろうか。この問いに対しては眼なざしが帰属する「暗黙知」(tacit knowing)の規定性を挙げておいた。つまり症候を捉える眼なざしは、生きられたエクスパートシステム(implicit expert system)のひとつの要素なのである。エスノメソドロジストの目的は、おのおのの社会的実践(医療、教育、司法など)に対して、この種のシステムが明確化する様態を記述することだと思える。彼らは、これをもって、コミュニケーション過程において社会的実践の類的同一性が構築されるという事態の解明と見なしている。 
 実際のところ、彼らは当該の社会的実践を規定するシステムを前提しているのではないか、という疑いを払拭できない。つまり、彼らの記述の力点は当該のシステムがコミュニケーションのうちで「明確化される」ことの追跡であって、「創発される」ことの解明には至っていないのではないか。
 だが「明確化」と「創発」は同じ事態ではないだろうか。形而上学のことば遣いをすれば、潜在性が現実的なものとして顕わになることを「明確化」と押さえることができるなら、それはすなわち「創発」なのではないか。あるコミュニケーション過程が実際に発動するとき、この過程の特徴を決めるものは、この過程に特有な表現要素であるほかはない。たとえば、教師のものの言いようは、お笑い芸人のそれとは違うだろう。教師は「採点」、「説諭」、「授業」、その他まさに彼を〈教師〉にしている言語活動を営むことによって、はじめて教師になる。彼にこれらの活動を可能にしているのが、教育に関する「生きられたエクスパートシステム」である。このシステムを意識化することは、部分的には可能である。どんな教師も教師としての自覚を持っているだろうし、自分の教育実践について他人に説明できるかもしれない。 
 しかしながら、「生きられたエクスパートシステム」の全部を意識化するのは無理である。どんな言語もそれをサンドイッチにした他の二つの準言語的な層――パラ言語的(paralinguistic)要素ならびに運動学的(kinetic)要素――をあわせて統合体として成り立っている。言語のパラ言語的要素とは、言語の声調(トーン)やリズムやポーズなどのことであり、運動学的要素とは、言語に必然的に随伴する身体運動(たとえば、笑いの仕草)のことである。医療の記号論はこれまでの言語観の革新を求めている。
 言語層に関してすら、たとえば、構文論を意識化できる者は特殊な訓練を受けた専門家だけである。つまりそれができるのは、言語学者なのである。いわんやパラ言語や身体運動についての意識化は当事者にとってはなはだ困難である。それというのも、これらの層は意識化された概念知ではなく、本質的に身体知に属するからである。このように考えてくると、おのおのの「生きられたエクスパートシステム」は、制度的事象や物的対象などの創出と同期しながら、どこまでも コミュニケーション過程のただなかで創発する(emerge)と見なくてはならない。 
この創発を解明するために、一般に〈記号過程の歴史〉を解明する記号論の部門が必要となるだろう。この種の探究を<記号過程の系譜学>と呼びうるかもしれない。あるいは、生物種の進化を解明する進化論的生物学のように、記号過程の生態学的アプローチが可能かもしれない。いずれにしても、医療の記号論はその基礎にかかわる多くをまだ問い残している。