言語の実像をつくり直す

namdoog2011-02-16

――レトリック探究が哲学の現在の営みにとってどうして重要なのか――

   草稿『日本認知言語学会論文集』に掲載予定

1 伝統的言語学はレトリックを扱えない 
 ここで私たちがおこなう予定でいるのは、〈言語の意味〉の観点から、旧来の言語観を問い質すことをつうじて、然るべき新たな〈言語〉の原像をつくり直すことである。たとえその彫像を仕上げるのが叶わぬとしても、少なくとも、原像の輪郭だけは明らかにしておきたい。従来、伝統的言語学(1)に伴走するかたちで言語探究にたずさわってきた試みはいく通りもあるが、私見ではとりわけレトリックが示唆的である。
 古来よりレトリック(弁論術・修辞学)は、ロジック(論理学)とならび言語探究をになう学科として、カリキュラムの重要な一翼を担ってきた。話し言葉と書き言葉の違いを問わず、レトリックとは、内容を伝えることで役目を終える日常的言語のためではなく、生き生きとした効果をもち、読者や聴衆から〈説得〉をひきだす言語活動のための技法であった。
 古典的レトリックが言語研究にとってじつに有益な遺産であることは、伝統的言語学において、永いあいだ無視されてきた。しかしながら、ようやく20世紀も押しつまった頃、この遺産に対して、現代的な見地から――たとえば、認知意味論や認知心理学、あるいは関連性理論やコミュニケーション論などから――新しい息吹を吹き込もうとする気運が高まりをみせ、この動向はいまに継続されている。この機運に掉さす言語探究を総じて〈レトリック論〉(rhetorical studies)と呼ぶことにしたい(2)。
 レトリック論に多少とも馴染んだ読者は、そこに含まれた種々の研究が伝統的言語学と折り合いをつけられそうもないことに気づいて驚愕するのではなかろうか。実際、レトリック論者は――意識してか無意識かは問わず――伝統的言語学に抱かれた〈言語の存在了解〉に異議をつきつけ、言語探究に携わる者に〈もう一つの言語観〉を構築するよう強く促している。
 レトリック論と伝統的言語学の相克をあきらかにするために、一例として「アイロニー(irony)の解釈」という言語理論上の問題をとりあげてみよう。いったい言語主体(話し手)はどのようにしてアイロニーを解釈しているのだろうか。
早速ながら、レトリック論の見地から、アイロニー解釈について所見を述べよう。アイロニーが聞き手によって、ああ、これはアイロニーだなと了解されるのは(もちろんそれに気づかない暢気な聞き手もいるが)、言語表現としてのアイロニーが〈表情ある身ぶり〉だからである。この命題がただちにあらゆる言語表現に敷衍される点を看過してはならない。あらゆる言語表現領域にとってアイロニーはその部分的領域である。しかしアイロニーは、言語の定性分析のための標準サンプルなのである。
 アイロニーを解釈する過程はいくつかの局面から成っている。アイロニーを向けられた聞き手は、最初に、その表現が字義的なものではなく何らかのレトリックであることを察知しなくてはならない。次いで、聞き手はそれが(修辞的表現のタイプとしての)アイロニーであることを把握しなくてはならない。以上の解釈過程はもちろん無意識的にはこばれるが、いずれにしても、聞き手は、表現にそなわる〈アイロニー信号〉を捉える必要がある。
たとえば、昨夜の天気予報にもかかわらずひどい雨降りになった翌朝、空を見上げて「なんていい天気なんだ!」と吐き捨てるように言う。この発言の真意を聞き手が知るためには、発言そのものが演じてみせる表情(それはすでに身ぶりに延長されている)をキャッチするほかはない。
 しかし驚くべきことに、この種の〈アイロニー信号〉を伝統的言語学は無視するか他の言語学的部門――パラ言語学(paralinguistics)――に丸投げする。なぜなら、アイロニー信号の要素をなす音調(tone)、ピッチ(高低pitch)、抑揚(intonation)、ノイズ、笑い、などには認知的価値がない――換言すれば、言語の論理形式に関係がない――として伝統的言語学の視野から排除されるのが約束だからである。
 ちなみに、〈アイロニー信号〉とここで呼ぶのは、アイロニーに特有な声調その他の表現上の特徴のことである。かつてある言語学者がこの種の特徴の存否について疑義を述べたことがあった。しかしながら言語表現の解釈が何重もの同一化を含む認知過程だとすると、アイロニーのみならず、レトリックのおのおののタイプに然るべき標識が具わるのは理論上明らかではないだろうか(3)。

2 談話と論理形式
 ここで私たちは〈論理形式〉(logical form)という考え方について多少とも明らかにしておかなくてはならない。この概念を異論の余地のないほど厳密に規定するのはやさしいことではない。だが少なくとも、この種の概念を形成する理論上の動機は明らかだろう。
 たとえば日本語の話し手は、日本語でなされた発話の内容の間に「論理的」つながりがあるという暗黙の理解をもっている。だからこそ、ある主題について他人と真面目に議論する気になるし、議論の甲斐もあるというものだ。だが日常談話の実情をよく観察すると、発話の流れがつねに「論理的」になされているわけではないのも確かである。会話の流れはしばしば飛躍したり横道にそれたりする。それにしても、談話(discourse)に対しては、控え目に言って、〈全体として論理的に辻褄があっているほうがいい〉という要請が課されている。この要請がどの程度の強さをもつかは、談話のタイプにもよる。たとえば、科学者の講演にはこれが強く要請されるだろう。
 さて論理学者はこの「論理的つながり」を〈含意〉(implication)として術語化する。ある言語Lの文aが、Lの他の文の集合Xから導かれるとする。このような文の関係性を論理学においては〈LにおいてXはaを含意する〉と表現できる。ではいったい言語使用の問題として、〈含意〉をどのように説明したらいいのだろう。
次のように言っても間違えではないだろう――もしLの話し手がXの要素であるすべての文を受け入れる(これはおのおのの文を理解すると同時に〈その文が真である〉と想定するということであって、真だと信じることではない)なら、文aをも受け入れるのにやぶさかではないだろう、と。(もちろん、この話し手は、健全な言語知識の所有者でなくてはならないし、記憶も正常でなくてはならない。)
 話し手が文aを受け入れた根拠のすべてが、文の集合Xを受け入れたことだけにあり、この場面に文の受け入れ以外の何か経験的根拠が介在する余地はないという点が重要である。(たとえば、文aを受け入れるやすくする何か心理学的理由や経験的で統計学的な根拠などは関係しない。)話し手がまずある文の集合を受け入れたとして、ここに含まれた各文と新たに受け入れた文aとの間になりたつ純粋に「構造的関係」だけが問題なのである。
 論理学は言語にそなわる純粋な形式的で構造的な関係だけを調べる学科であるが、以上の論理学的観察を援用しながら、談話における〈論理形式〉をひとまず次のように規定できるだろう。Lの文aの論理形式とは、論理学Sによってこの文に指定された一定の式のことである、と。この場合、論理式を文に指定する関数fは次のように規定される。fの独立変数の集合はL、従属変数の集合はSであり、Lの文aとLの部分集合Xにとって、f(a)とf(X)を得たとき、f(a)はf(X)の〈帰結〉である。
 つまり〈論理形式〉とは、言語の文と文とが論理的つながりをもつ根拠であるところの、文がそなえる形式(内容にはかかわらない)のことである(4)。私たちにとっての関心事は、この〈形式〉とはなにか、これをどう捉えるかである。

3 プロソディーと論理形式
 伝統的言語学においては、言語学と論理学のたがいの関係について突きつめた考察が不足していたのではなかろうか。言語学者は論理学には一応の敬意を払いつつ、論理学の領分に足を踏み入れて言語探究のための糧を獲ようとはしなかったように見える。反対に、論理学者は、20世紀の論理実証学派のように、日常言語ないし自然言語を(論理的に)不純で不完全な言語と貶める風が顕著であった。しかしながら、日常言語のあらゆる「構造的関係」を果たして標準的な論理学(第一階の述語論理 first-order predicate logic)――〈第一階〉とは、量化が個体変項だけに及ぼされ、述語変項を束縛しないという意味である――で表現しうるとは思えない。ここで詳しく述べることはしないが、レトリックはその有力な反例である(5)。両者を折衷した中間地点に立脚するのがチョムスキー学派の言語学ではないだろうか。チョムスキーは言語の構造を論理学で表現できるとは考えなかったが、にもかかわらず、変形文法をアルゴリズムとして構想したのである(6)。
 発話行為論によれば、一般に発話は、真理値を担うことのできる「確言」(constative)タイプの発話(オースティン)のほかに疑問や命令といった多種多様な「実演発語」(performative)からなっている。発話のごく荒っぽい構造をサールが〈発話内の力+命題形式〉と分析したことはよく知られているが、述語論理には発語内の力がそのままの形では組み込まれていない。
 この空白を満たすために直ぐ念頭に浮かぶアイデアは、あらゆる発話を遂行された行為を反射的に示す動詞を使用して確言タイプの表現に変換するやり方だろう。このようにして、発話の論理形式を明らかにできないか。たとえば、「部屋からでてゆきなさい!」という〈命令〉は、「話し手は聞き手に出てゆくよう命令する」という具合に書き変えうる。この変換が首尾一貫してすべての発話行為文に対して行使できたとしよう(できると裏づけがあるわけではないが)。ところがここに立ちふさがるのがレトリックなのだ。
 アイロニーはまさしくこのやり方から取り残される表現の例である。なぜなら、繰り返すことになるが、アイロニー信号の要素をなす音調、ピッチ、ノイズ、笑いなどが言語の〈論理形式〉の形成に寄与するはずもないからである。実際、アイロニーを字義的表現に意訳することができるだろうか。だが意訳された表現はアイロニーの面目を喪失しているだろう。
 たとえば、「なんていい天気なんだ!」を「話し手は、t1における天気予報を担当したキャスターを、予報がはずれたことを理由にして、t2において批判して皮肉をいう」と意訳でしたとする。だがここにはアイロニーの効果はまるで失われている。「〜と皮肉を言う」という発語はそれ自体ぜんぜん皮肉にはなっていないのだ。しかしながら、アイロニーアイロニーたるゆえんのもの、つまりアイロニー効果は表現の認知的価値の一部(論理形式)の要素をなすはずではなかろうか。
 こうして真に検討されるべき問題が浮上する。すなわち、音調・ピッチなど〈プロソディー〉(prosody)と一括される音声学的要素は本当に〈論理形式〉に効果を及ぼすものだろうか。
ただちにイエスともノーとも言えない。一つには、〈プロソディー〉の境界画定の基準が分明ではないという点がある。第二に、たとえ境界画定がなされたとしても、「文脈規定性」がここに関与する事実を認めなくてはならない。換言すれば、ある言語音(分節音)の機能的生成に際して、文脈上ノーマルな音素設定のメカニズムが作動しないことがあり、それでも聞き手は言語音を聴取する以上、ノーマルな場合であれば〈プロソディー〉として音素規定力をもたない音声の実質が意義をもつにいたる。この現象が〈プロソディー〉と〈分節音〉とがある意味で連続的であることを示している(こうして、議論は第一の論点へ再帰してゆく)。
 心理学的用語で言い直すと、〈プロソディー〉の問題とは、〈感情と知性の区別は絶対的であるかどうか〉という問題でもある。アイロニー効果とは感情の表出がもたらす効果のことである。たとえばそこでは〈侮蔑〉や〈忌々しさ〉という感情が吐露されている。これらの感情は認知的価値をもたないのだろうか。知性的表現が認知的価値をもつという意味ではもたないとしても、別の意味では十分に認知的でありえるのではないか。(少し飛躍した言い方になるが)ある風景を「陰鬱なもの」として感情価につつんで把握することは、この風景の知覚を構成する対象認知(たとえば、そこに川が流れているという知覚)と遜色のない認知の営みではないのか。
 認知に関する〈感情と知性〉の二項対立が相対的妥当性を有することは認めつつも、それを絶対化してはならないと私たちは考える。感情に認知的力能が具わるのは明らかであり、その実現の様態を解明すると同時に、二項対立の成立条件を究明しなくてはならない。

4 パラ言語学言語学の一部である
 当今の標準的な言語探究は、〈パラ言語〉なり〈プロソディー〉をどのように捉えているのだろうか。最近、情報科学やコミュニケーション研究などの分野で〈パラ言語〉への関心が高まっているという印象をもつ。少しばかり文献にあたると、研究者たちが異口同音に〈パラ言語〉に以下に引用するような説明を施しているのがわかる。「会話は言語情報の伝達だけを実現しているわけではない。音声言語に付随した声質、表情、身振りなどに発話者の態度、状態などが現れており、これが伝達されることではじめてスムーズな会話が成立する。このような言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能する情報はパラ言語情報と呼ばれる。」
 私たちが問いたいのは、言語情報/パラ言語情報、という二分法がはたして正しいかどうかである。すでに披瀝したように、私たちは言語の原像を〈表情をともなう身体のしぐさ〉と想定している(7)。当然ながら、言語の存在論的資格はモノではなくコトである。即物的な言い方をすれば、(音声言語に関しては)発声器官を遣い呼気を吐き出すことで言語音をつくりだす身体運動である。そのかぎりで、言語はさしあたり身体運動と(言語音ないしそれ以外の)音声との二重構造として捉えることができる。
 ポヤトスが指摘するように、私たちは〈純粋な言語〉を他の表現の厚みと切り離して取り出すことはできない。発話の場に見出されるのは、言語(language)−パラ言語(paralanguage)−身ぶり(kinesics)という、〈言語の基本的三重構造〉(the basic triple structure)であり、三重の表現が綯い交ぜにされた〈厚みとしての言語〉なのである(8)。
 〈三重構造〉の三つの層を結びつける線(結節線)が全体としての言語に分離を持ち込むのではなく、むしろシームレスな統合を実現するように働いている点を看過すべきではない。言語はいつまでも身ぶりであり続けるのだし、身ぶりもいち早く言語として機能している。そしてパラ言語は、言語的属性を顕著に担うかぎりでいわば言語の原始的様態を示している。この意味で、パラ言語は〈プロト言語〉であるとさえ評しうるだろう(9)。
言語的実演(performative)としてのレトリックがパラ言語――詩歌における音数律や音韻律などのリズム、修辞疑問における抑揚、笑いなど――を重用するのは当然のことである。
 上に掲げた引用では工学的観点から説明がなされているために、〈情報〉(information)のキーワードが説明中で繰り返されている。この用語法はある意味で適切である。なぜなら、このキーワードを〈意味〉(meaning)や〈表現内容〉(signifiant)あるいは〈記号内容〉(signifié)などにいつでも代置できるとは限らないからである。〈意味〉は〈情報〉であるが、〈情報〉は〈意味〉であるとは限らない。
 そこで、〈情報〉について誰しもが合意できる厳密な定義があるかどうか知らないが、ここではさしあたり情報を〈目だって有意な差異〉(perceptibly relevant difference)という概念で規定しておきたい。(perceptibly relevant は冗長な措辞である。端的にまた単純に〈差異〉でも本来は十分であろう。しかし理由のない物理主義や客観主義が横行している現在、殊更に主観的表現を選ぶことに意義があると思える。)さらに〈意味〉は〈記号内容〉の同義語では必ずしもないから、その意味でも〈情報〉の使用は安全でもあり便利でもある。
 情報は人の目をひき、耳をそばだてさせるだろう。注意の向けられるものは情報をになっている。パースはここに記号の指標性(indexicality)を認めた。たとえばコップが割れて床に破片が散乱しているとする。この知覚内容には〈目だって有意な差異〉が帰属している。床にガラス片が散らばっていることは尋常ではない。それゆえに私たちの思念は、指標性に導かれつつ、このコップを床に落としたという人称的出来事に向かうだろう。人は、いつ・どうして・誰が落としたのか、という疑問をいだく。そしていわば複数の変数をかかえた事態の解を求めようとする。床の上に与えられたのは、〈指標〉(index)であり〈手がかり〉(cue, hint)であり、つまりは情報(information)なのである。
 アイロニーに戻ろう。さきに、「なんていい天気なんだ!」を「「話し手は、t1における天気予報を担当したキャスターを、予報がはずれたことを理由にして、t2において批判して皮肉をいう」と意訳してみたが、ここには元のアイロニーのになう情報が跡形なく失われている。先にこれを「アイロニーの効果」と呼んだのである。この意訳がやったのは、〈三重構造の厚み〉をそなえたアイロニーを一重の薄っぺらな離散的な表現形式(記号表現signifiant)に平板化したことにすぎない。
 デジタルな言語表現(ソシュールのいう線形linearな記号表現)に工夫をこらして、いまどきの人のように、顔文字を遣ってみたら、

t1における天気予報を担当したキャスターの予報はt2においてはずれたことが判明した、そして話し手は、(w(・0・☆)wウゥ・・、(≧ヘ≦) ムゥ

が得られるだろう。この方がよほどましではないか。
 この観察からはさらに次のような観察が導かれる。〈音声言語に付随した声質、表情、身振りなどに発話者の態度、状態などが現れている〉という確認から、〈このような言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能する情報はパラ言語情報と呼ばれる〉という結論を引き出してはならない。この推論には予断や飛躍が介在するからである。
 〈発話者の態度〉を表す記号表現は発話の構造の中へ統合することができる。その限りでこの記号表現はまさに〈言語情報〉を担うのである。逆に言うと、〈言語情報以外で言語情報の伝達を促進するのに機能するパラ言語情報〉なる独特の〈情報〉を想定する理由はない。

5 情報はデジタルとアナログの二形式をとる
 パラ言語は基本的に分節音ではない。この違いは程度の差ではなく、種類の差である。一般に、論理形式をつねにデジタル(離散的descrete)だと決めつける理由はなにもない。認知言語学の領域で提唱されている〈比喩的写像〉(metaphorical mapping)(レイコフ)や〈イメージスキーマ〉(image schema)(ジョンソン)また〈参照点〉(reference point)(ラネカー)などの概念は実態としてアナログである。これら認知言語学の知見はいまだに伝統的言語学の妥当な知見と統合されないまま放置されている。
 他方で、言語における指標性(indexicality)の研究あるいは音象徴(sound symbolism)の研究も進みつつあるが、これも伝統的言語学には統合できていない。(筆者が見落としている――本報告の主題に結びつく――他の言語学上の知見があるという想像が充分に可能である。)
 日常的に人間はこのデジタルとアナログと二種類の媒体を随意に用いている。たとえば、書記言語(書き言葉)の記号表現の構造は(おおむね)デジタルであり(ただし筆跡などが問題になればアナログにもかかわる)、ふつうの絵画はアナログである。デジタル/アナログという二分法を遣って言い直すと、言語音の成分である分節音はデジタルであり、もう一つの成分であるパラ言語的要素ないしプロソディーは基本的にアナログである。
 さて、言語音は、分節音と非分節音――後者を誤解のない限りで〈音声〉と呼びたい――との統合態である。(しかもそこに本来の身体運動が連結している。)言語音が言語的情報を担うのは、定義からして、当然のことである。そして例証したように、分節音だけではなく、音声もまた言語情報の担い手として機能するのである。こうして、本来の〈言語情報〉は〈パラ言語情報〉には対立しない(10)。
 後者もじつは〈言語情報〉に数えることができる。それというもの、ある発話が他の発話と「論理的つながり」を保つことを支える原理が発話の〈論理形式〉だとすれば、いわゆる〈パラ言語情報〉も立派にこの論理形式の要因として作用しているからである。それでは言語の原像について、その論理形式をいったいどのようなものとして構想すればいいのか。

6 ハイブリッドの論理形式 
 私たちは、繰り返しになるが、〈言語〉を(従来の意味での)言語-パラ言語-身体運動の三つの層からなる〈構造的厚み〉と捉える。このパースペクティヴのもとでは〈言語音〉は〔分節音+プロソディー+身体運動〕という構成を具えたものとして出現する。
 ここで〈プロソディー〉と名づけられた構成要素は、一方で(伝統的言語学詩学で調べられてきた)韻律・声調・ピッチ・イントネーションなどを含むとともに、(伝統的言語学が、認知的価値がないとして顧なかった)ノイズ・音の質・沈黙などを含み、さらにまた(言語表現に有意な寄与を果たす限りでの)表情や姿勢などの身体運動的要素をも含んでいる。
 言語音がデジタルとアナログとのいわば雑種であることは、論理形式の様態に関して、理論的可能性として三つの場合があるという予想をもっともらしいものにしている。すなわち、(1)言語音の異質な構成にもかかわらず、論理形式が離散的構造をしている場合、(2)逆に、論理形式が全体としてアナログである場合、(3)言語音の異質な構成に見合って、論理形式もやはりハイブリッドである場合――この三つの可能性が考えられる。
 ざっと考えただけでも、(3)の可能性は乏しいと思える。すなわち、アナログな表現をデジタルなそれへと還元することは、チューリング機械の内的状態としてはありえても、人間の経験裡における〈論理形式〉としてはありえない気がする。画家が描く絵画は明らかにアナログである。確かにこの絵画をコンピュータ画面上でデジタル映像として再現できるにせよ、しかしながら、それを私が知覚するときの様態――知覚された限りでのデジタル画像――はアナログでしかないだろう。
 また、(2)の可能性も考えにくい。計算(たとえば、2+3=5)を行なうとき、(数式を口にしながら生起する)言語経験にそなわる形式がデジタルではあり得ないとする理由をいま思いつかない。逆に、それがアナログなら、具体的にそれをどう表記すればいいのか。 (この〈表記〉(notation)は認知科学でいう〈表現〉(representation)とほぼ同じであるが、実質的な記号の形態を考慮した言い方になっている。)
 こうして、(3)の可能性がにわかに浮上してくる。ある意味で(3)の考え方は魅力的だと言えるかもしれない。ハイブリッドエンジンを搭載した車はエネルギー効率がいいという意味で優れている。人間の思考の機構がこれに類似したものであっていけないことはない。このオプションが妥当かどうかは経験科学にゆだねられるべき問題である。近年の認知言語学による知見はこの見地を裏書きする「経験的資料」を蓄積しつつあると言いうるのではないだろうか。
 ここで〈生成〉の問題軸をもちこむと展望がよほど明瞭になるような気がする。すなわち、人間が、系統発生のある段階で〈言語を話す動物〉(homo loquens)として出現したのが事実だとして、言語の発生そのもののうちに、論理形式がハイブリッドとなったことの事情なり根拠があるに違いない。これは、人間における言語音の生成の問いそのものである。
 (ひとつの可能性として)きわめて図式的な整理にすぎないが、プロソディーにほぼ相当する原言語(プロト言語)がアナログだった状態からそれがデジタルなものを取り込むようになった発生段階が想定される。このようにして、デジタル構造の発達はアナログなものを消去するのではなく、むしろアナログ構造に補佐されつつ人間において高度な発達を遂げたのではなかろうか。

〔注〕

(1) ここで〈伝統的言語学〉と呼ぶのは、おおむねソシュールが礎石を据えた以後に展開された言語学をいう。もちろんそうは言っても、現に行われている優勢な言語学には幾とおりも種類があり、一概にそれらをひとからげに評価するわけにはゆかない。しかしソシュール言語学が創出し提示した〈ラング〉(langue)としての言語、つまり〈言語記号のシステム〉(système de signes linguistiques)としての言語、という了解はそれらの言語学に共通していると見てさしつかえない。さらに細かく見ると、たいていの言語学が、言語の音声部門を分析する音韻論(phonology)、言語要素を結合し変形して文を生みだす構文論(syntax)、言語の意味を扱う意味論(semantics)という三つの分析レベルを〈言語システム〉――〈言語記号のシステム〉の略である――に対して設ける点でも共通している。その後、言語の運用を調べる〈語用論〉(pragmatics)の分野が著しく発展したが、レトリック論はここに接点を有している。

(2) レトリックが言語探究(言語哲学言語学など)にとって真の問題系をなすことを真面目に受けとめ、レトリックの形態としての〈隠喩〉を言語像の復興の問に堅く結びつけて多面的に議論した、拙書『メタファーの記号論』(勁草書房、1985年)を参照。伝統的言語学がレトリックを無視(あるいはその擬態)してきた経緯にも触れている。また、〈レトリック論〉という用語法については、菅野盾樹編著『レトリック論を学ぶ人のために』(世界思想社、2007年)を参照。

(3)「アイロニーにはアイロニー信号が付属している」(ヴァインリヒ)という観察を多くの言語学者が述べている。これに反対して安井稔は、アイロニーに特有の声調などはないという。アイロニーの解釈理論については、拙書『新修辞学』(世織書房、2003年)、Ⅲ部:アイロニー論、を参照。

(4) Stanosz,‘Logical form,’ in Witold Marciszewski(ed.), Dictionary of logic as applied in the study of language : concepts, methods, theories, M. Nijhoff , 1981を参照。

(5) 隠喩にせよアイロニーにせよ、それらの解釈は(その発話がなされる)文脈依存的である。レトリックを構文論プラス意味論だけでは構成できない。重要な論点は〈文脈〉が言語にとって所与ではないことである。レトリック論はすべてこの点の確認からスタートした。拙書『メタファーの記号論』、とくに第四章、参照。また拙書『新修辞学』、第1章:レトリックの思想、を参照。

(6) 数学では、ある特定領域の任意の独立変数に対してある関数の値(従属変数)を決定するための機械的手順をアルゴリズムという。たとえば、二つの自然数の和を求める(つまり加算)、あるいは二つの整数の最大公約数を見つけるためのアルゴリズムがある。アルゴリズムによって作動する自動機械をオートマトンという。オートマトンは現物としてはコンピュータであり、理論としては計算機構の数学的モデル一般のことである。チョムスキーの変形生成文法が、チューリングマシンと並び、オートマトンに形式的に等価であるのが知られている。

(7) 私たちが依拠する言語存在論をほとんど自力で提示した功績は現象学メルロ=ポンティに帰せられる。彼は『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945)において言語の原像を「言語とは表情ある身体のしぐさである」として描き出した。このテーゼから、ただちに「ことばが意味をもつ」という命題が導かれる。表情の意味はこの表情のうちに読み取られるのであって、表情の背後やどこか理念的空間に表情の意味あるいは表情の指示項(referent)を捜そうとしても無駄であろう。言語要素の意味機能は基本的に表情性なのだ。言語以前の水準で表情性として生成した〈意味〉は、身体性が言語の水準に転換されたときも、表情性の様相をおびる――このような主張は、旧来の言語探究(言語学言語哲学記号論など)の根本的見直しの要請を含んでいた。実際、認知意味論者レイコフやジョンソンはメルロ=ポンティ哲学の影響を自認している。

(8) Poyatos, F. Paralanguage: Interdisciplinary Approach to Interactive Speech and Sound, John Benjamin, 1993.

(9) ただし、言語音の生成という問題が残ることに注意を促したい。これについては、菅野盾樹・近藤和敬「言語音の機能的生成――言語が裂開するとき」、『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』、33号、2007年、pp.39-78、を参照。
(10) 音の質によって、言語とパラ言語とは確かに対立する。この場合、音のゼロ度すなわち〈沈黙〉も音の質に数えうるし、数えなくてはならない。〈沈黙〉も立派な言語要素なのだ。誰でも経験上知っているように、沈黙はある場合まことに雄弁である。しかし伝統的言語学も論理学も、〈沈黙〉が表現の論理形式に寄与するとは考えてこなかった。表現の学であるこれらの学問の限界がここにも露呈している。