記号過程としての 3

namdoog2009-06-19

 

指標記号とエスノメソドロジー

 兆候へのまなざしが<医療>という記号過程の要因であることは自明だが、これを前提におく場合、まずもって解明すべき問題があらわになる。

 どのようにして兆候のさまざまな形態からとくに「病気の」兆候つまり<症状>ないし<症候>がそうしたものとして選り抜かれカテゴライズされたのか――この問いを解明しなくてはならない。

 この問いの重要性を知るには、ここで<兆候>の記号としての特徴を確認しておく必要がある。兆候とは何だろうか。

 パースの記号分類に従えば、兆候は<指標記号>(index)の典型である。指標記号とは、パースによれば、「それがある個体のかたわれであることに、その表意的特性の根拠があるような表意体(representamen)である」(Collected Papers of Charles Sanders Peirce, 2.283; ちなみに「表意体」は「記号」signの別名である)。

 ここで「かたわれ」(second)と呼ばれたものは、ある個体のいわば過剰部分のことである。例えば「風見鶏は風の方向の指標記号である」(2.286)。なぜなら――と、パースはいう――第一に風見鶏が風と同じ方向を実際にとり、その二つの個体の間には現実の結合があるからであり、第二に、われわれは一定の方向を指す風見鶏を見ると、それがわれわれの注意をその方向に惹きつけ、方向が風に結びついてことを了解せざるを得ないようにわれわれ人間ができているからだ(ibid.)。

 ある方向に流れる風という個体があることは、風見鶏という道具(風のかたわれ)があることを必然的に含意するわけではない。その限りでこのかたわれはある個体の真正な部分ではなく(もしそうなら、両者の結合には論理的な必然性があることになってしまう)、単なる「過剰な部分」にすぎない(この意味で両者の結合には物理的な必然性しかない)。

 風見鶏について彼が指摘した点だが、一般に「注意を集中させるものはどれも指標記号である」(2.285)という洞察は貴重である。例えば、ドアをノックする音、すさまじい落雷、それに風見鶏の向きなどは、否応なしにわれわれの注意を惹く。

 ノック音は記号としては<合図>と命名するほうが自然だろう(それを「兆候」と呼ぶのはかなり奇妙である)。だが落雷は<兆候>のカテゴリーに含められる。そして風見鶏は、気圧計と同じように<計器>という名の記号である。

 このように、指標記号に含められる兆候のすべてが注意を誘いまなざしを集めるからといって、すべての兆候が<症状>であるわけではない。兆候は天候、景気、戦乱、地震などの天災など、さまざまな出来事を表意できるのだ。兆候がとくに病気や健康の文脈に排他的に出現するには他の理由がなくてはならない。

 この「理由」は<まなざす>という眼の技法にともなう暗黙知に求められなくてはならないだろう。例えば、風見鶏をまなざすときの暗黙知と皮膚に出現した発疹をまなざすときの暗黙知とはいわば専門を異にしているのだ――この確認と同時に、医療の記号学的考察は医療の社会学と切り結ぶことになるだろう。事実、上記のようにソシュール記号学はそもそも「社会記号学」として構想されたのだった。

 社会学サイドからこの際会に向き合い、それを学問として深める試みが、実際に存在する。ガーフィンケル(H. Garfinkel)に始まるエスノメソドロジーethnomethodology)である。

 「エスノメソドロジー」はガーフィンケルの造語である。この命名について彼はつぎのような主旨のことを述べている。

 ethnoという語は、ある社会のメンバーが彼の属する社会の日常的知識を任意の主題についての知識として使用できることを意味すると思える。とすると、例えばethnobotany (民族植物学)とは、ある社会のメンバーが植物を主題とする事柄を扱うための方法論(認識システム)に相当する。人類学者のように、他の社会から来た外来者には、この種の方法論はまさに植物についての認識であり、社会内部のメンバーにとっては、ethnobotanyは(「植物」をトピックとする)行動や推論のための適切な基盤である。

 だとすると、ethnomethodologyとは、一般に、任意の主題について、ある社会のメンバーが日常的行動を理解しそれを達成するために用いる方法論(a system of methods used in a particular area of study or activity)の経験的研究のことである。それは実質的には人々がコミュニケーションを行い、決定を下し、推論する方法の研究となる。

 なぜ社会的事象の研究がコミュニケーション研究として実現されるのか。メンバーが組織化された日常的出来事を設定しそれを調整する活動は、メンバーがそうした設定を「説明可能」(accountable)にする手続きだからである。言い換えれば、この活動は日常的行動に日常性を付与することによって合理化しまた報告できるものにしてゆく活動、つまりコミュニケーション活動なのである。(「エスノメソドロジー命名の由来」、ガーフィンケルエスノメソドロジー』(山田富秋ほか訳)、せりか書房、1987、所収.)

 念のため研究者による解説を参照しておこう。ライター『エスノメソドロジーとは何か』(高山眞知子訳、新曜社、1987)の「訳者あとがき」にはこう述べられている。

 「エスノメソドロジー」とは、「エスノ」、「メソド」、「ロジー」の合成語で、「人々の」、「方法」、「についての研究」と理解できる。つまり、「普通の人びとは」、「日常生活の対人関係における意思疎通行為の基盤をどのようにして組み立て意味づけ理解しているのかというそのやり方(方法)」、「についての経験的な研究」のことである、と。

 二つの論点を強調しておきたい。第一にエスノメソドロジーは社会的構築主義の立場に拠っている。換言すれば、<社会的現実>は何かしらの本質や実体あるいは「社会的事実」として人びと(研究者を含む)に与えられているのではない。そうではなく、それは、言葉を媒介とする人々の相互行為(つまりコミュニケーション)がそれに意味付与することによって、そうしたもの(=社会的現実)として構成されるのである。

 彼らが重視するのは記号の形態のうちでもとりわけ「言語」である。これが間違っているといいたいわけではない。しかし<医療>という社会的実践を調べるために単に言語的コミュニケーションだけに力点を置くのでは不十分である。いやむしろミスリーディングだといいたい。

 例えば緩和医療の現場における医療者と患者の「会話」を分析する目的にとって、従来の言語観はむしろ妨げになる。言語に厚みを加えている他の二つの準言語的な層――パラ言語的(paralinguistic)要素ならびに身体運動学的(kinesic)要素――をあわせて総合的に言語を捉え直さなくてはならない。言語の表情やリズムやポーズなどに主体の身振りをあわせた総体としての言語を直視する必要がある。

 実際、エスノメソドロジーが重視する「会話分析」(Discourse Analysis)は、この要請にそうかたちで、従来の言語観の枠をおおはばに超えつつある。   (つづく)