記号過程としての 2

namdoog2009-06-09

兆候へのまなざし

 「記号」(Σήμειω; sēmeion)にかかわる用語法がヘレニズムの伝統に初めて現れたのは、紀元前4世紀におこなわれた医療の文脈であったといわれる。「記号学」に相当する用語はギリシア語でΣήμειωτική(sēmeiōtikē) であるが、これが遣われたのは、「医学の祖」あるいは「医聖」の名を贈られたヒポクラテス(Hippocrates , 459-350.B.Cあるいは460-377.B.C.)の文書においてであった。

 彼は従来の呪術にまがう治療技法を実証的観察と理論の基盤のうえに打ち樹てた人物として知られている。この場合の Σήμειω とは病の「兆候あるいは症状」(symptoms and symdromes)をいう。

 言い換えれば、Σήμειωτικήとは文字通りには「兆候学」(semeiography)あるいは診断学(pathognomy)を構成する言葉だといえよう。

 ただし、ヒポクラテス派の医術の場合、病の兆候をとらえること(兆候の解釈としての診断(diagnosis))は、単に病気の本態あるいは病態を同一指定することだけを意味するわけではなかった。それはまた、病人の状態がこれからどのような経過を辿るか、つまり「予後」(prognosis)の認識をもともなっていた。あるいは兆候の認識は同時に、診立てする人間が健康なら、今後当人がかかるかもしれない病気の予知をともなうものでもあった。

 最近、<メタボリック症候群>について多くのことがマスコミなどで語られている。その背景には「予防医学」の重要性についての認識が進んだという事情がある。これは従来行われてきた現代医学における「診断学」の限界を物語るとともに、この点ではヒポクラテス的医術のある意味での先進性を示すと言えるかもしれない。

 こうして、「記号」が「兆候」として実現したことは、医療という実践にたずさわる主体が<知覚されたもの>(le perçu)をまさに<兆候>というカテゴリーに包摂しつつまなざすことが実現したことを意味する。

 例えば、煙は火の兆候である。草原のどこか一箇所で煙がくすぶっているのが見えたとする。(まずもって、それが<煙>であると同定すること、このことがすでに記号的認識なのだが、ここでこの問いには深入りする余裕がない。)

 この兆候から、人は<枯れ草に火がつき燃えている>という認知を引き出すかもしれない。この認知された内容が現前していないことに留意しなくてはならない。それはただ現前する兆候から推論された内容にほかならない。

 いまやヒポクラテス派の医療者は、この種の記号認識を兆候学の平面に移動させてとらえ返すことができることになった。つまり、彼らは診断すなわち兆候から病気の本態を推理するという認知の働きをなしうるようになったのである。

 注意すべきは、疾患の兆候をまなざす視覚の成立が、<診断>という医術的実践が生成する条件であるという点である。このまなざし(=記号学的機能)が成立する以前には、<診断>なるカテゴリーはなかった。そのかぎりにおいて、特定の機能を有する特定の記号的認知が新たにひとつのカテゴリーを創出したのである。

 ところで、日常的知覚は、煙という兆候から、火が燃えているという事態の認識を引き出すだけではない。兆候の知覚には、将来生起するかもしれない事態への認識がともなっている。例えばいまのところ草原のある小部分にくすぶっているだけの火が、放置すれば草原一面を焼き尽くすかもしれない。

 この記号認識をふたたび医療の平面に移動してもちこんでみよう。言うまでもなく、われわれが得るのは、患者の「予後」についての認識である。(繰り返すことになるが、こうして<予後>のカテゴリーが初めて創出される点に注意しよう。)

 さらにこの認知は知覚の主体に別の効果を生む。例えば彼は近くに小川がないかどうかを探索するかもしれないし、小川を認めて水を汲もうとするかもしれない…(以下同様にして、一連の行動の系列がもたらされるだろう。これがパースのいう「記号過程」のダイナミズムにほかならない。)

 ここでふたたびこの種の記号認識を医療という実践領域に対応づけるなら、明らかに<治療>というカテゴリーが得られるだろう。言うまでもなく、このカテゴリーもあらたに記号学的視覚によって創りだされたものである。  (つづく)