記号過程としての 1

namdoog2009-06-03

 5月16日と17日の両日、日本記号学会の第29回大会が東海大学伊勢原キャンパスで開催された。今年のメインテーマは、表題にまとめれば「いのちとからだのコミュニケーション」ということになる。しかしこのタイトルはいかにも曖昧に聞えるのではなかろうか。

 この企画の立案に筆者も参加して意見を述べたといういきさつがある。この表題についていうと、問題は助詞の「の」をどう解釈するかにあるだろう。自分としては、この助詞が主格を表すと捉えたい。つまり生命活動や身体活動そのものが記号機能の営みなのである。だから、生命や身体の状態としての「病気」に技術的にかかわる「医療」もまたそれ自身が記号機能の営みなのだ。だがこの後半の論点には確かに分かりにくい点があるかもしれない。

 今回の大会のテーマは、端的にいって「医療という社会的実践そのものが(パースのいう)記号過程にほかならない」という視点から現代社会における医療の諸問題に検討を加えてみることにあった。

 しかしこの了解が必ずしも参加者やましてゲストの方々に共有されてはいなかったきらいがある。筆者がとりわけ事前に期待をもって臨みそして実際にそこから少なからぬ示唆を汲み取ることができたのは、第一日目にもたれたセッション「からだといのちを認識することについて」であった。

 ゲストには次の方々をお願いした。1)今井裕氏(東海大学医学部・画像診断学)、小林昌廣氏(情報科学藝術大学院大学・医療人類学)、2)有賀悦子氏(帝京大学医学部・内科学/緩和医療)、近藤卓氏(東海大学文学部・心理学)の四名である。企画の具体化と人選などは実行委員長の水島久光氏がおこなった。水島氏にはこの場を借りてあらためて感謝したい。

 前半の1)では先端技術を駆使して獲得される身体認識を日常的な身体認識あるいはボディイメージとの対比において考察することが問題であった。

 後半の2)は医療専門家からあるがままの緩和医療の現状についてお話いただき、そこに伏在する問題をコミュニケーションの視点から考察することが問題であった。

 さて筆者の感触では、1)については、このテーマ(身体の認識)が記号学的考察の的になるという論点は、自覚的か否かを問わず。参加者にすなおに受け止められていたようにおもう。しかし2)については、論点の了解に微妙だが決定的なズレがあったようにおもわれる。この点をかいつまんで説明しよう。

 先に述べたように筆者は<医療>という社会的実践そのものが記号過程だと捉えている。だがそうした理解はどうやら少数者にとどまるようだ。

 もちろんこの印象を裏付けるために出席者全員にアンケートをとった訳ではない。そのかぎりではこれはあくまで印象の域をでない。それにしても、聴き手からゲストに向けてなされた質問やそれへのお答えを聞き、また懇親会の席でゲストと断片的なやりとりをした経験がこの印象を裏書するようにおもえるのだ。

 多くの人はむしろ<医療>という認識的=技術的過程がまずあって、そこをいわば言説の舞台として――「トピックとして」と言ってもいいが――医療についての記号過程(会話やコミュニケーションなど)が成り立つ、と捉えているようなのだ。しかし<医療>をこんな具合に概念化していいのだろうか。

 まずまことに迂遠なやり方かもしれないが、ソシュール記号学の構想を思い出して欲しい。有名な一般言語学の講義でソシュールは多くのことばを「記号学」に費やしてはいない。しかしきわめて圧縮されたその言挙げがソシュール以後の記号学の展開に決定的な影響を及ぼすことになる。講義のなかで彼は次のように述べていた。

(…)ラングはひとつの社会的制度であるが、これは他の政治的制度、法律制度などとはいくつかの特徴によって区別される。その特殊な性質を理解するには、あらたな秩序の事実を持ち出さなくてはならない。ラングは思想を表現する記号体系であり、この点で、文字や指話法(alphabet des sourds-muets)や象徴的儀礼、礼儀作法、軍用記号などと比較されうるものである。ただ言語はこれらの体系のうちもっとも重要なものなのだ。

 そこで、社会生活のさなかにおける記号の営みを研究するような科学(une science qui étudie la vie des signes au sein de la vie social)を想像することができる。それは社会心理学の、それゆえに一般心理学の一部門をなすだろう。われわれはこれを<記号学>(sémiologie)(ギリシア語のsemeion「記号」から)と呼ぼうとおもう。それは、記号が何から成り立ち、どんな法則がそれらを支配するかを教えるだろう。それはまだ存在しない科学である。

(…)言語学はそうした一般的科学〔=記号学〕の一部門に他ならず、記号学が発見する法則は言語学にも適用されるに違いない。後者はこうして人間の現象の総体のうちでよく定義された領域に結び付けられることになる。(『一般言語学講義』p.33.)

 この引用についてはたくさんのコメントを言いたくなるが、いまは単に彼の言語中心主義におおかたの注意を喚起しておきたい。

 ソシュール言語学を<言語記号のシステムとしてのラングの研究>と規定することによって、科学的な言語学を樹立できると考えた。言語記号はいわば記号の典型なのである。しかも「ラングはひとつの社会的制度である。」とするなら、「社会生活のさなかにおける記号の営みを研究するような科学」としての「記号学」は、ソシュールの構想の中では最初から「社会」と概念的結合をたもつ学問としてしか存立できない、と考えられていたことがわかる。

 ちなみにもう一人の記号学創設の大物であるパースの場合はどうだったろうか。チャンドラーの指摘のように「またパースにとって、対話プロセスとしての記号過程という観念は、彼の思想の中心をなしていた。記号はそれを解釈する者なしでは存在せず、記号論的コードは、当然ながら社会的慣習である。」(Daniel Chandler, Semiotics for Beginners, Routledge, 2004, ‘Criticisms of Semiotic Analysis'.)

 <医療>が社会的実践(知識と行動のシステム)であるかぎり、したがって記号学がこれを研究対象にするのは当然である。しかしながら、このことは、<医療>の存在様態が記号学的であることをただちに意味するわけではない。

 もちろん<医療>にはおおはばに言語が関与している。診察室で医師は言葉を用いてさまざまな問いを受診者に投げかけるだろう(問診)。また医師は看護師に処置の指示を言葉でおこなうなど、言語行為が<治療>という行為を構成する大きな要素となっている。あるいは、上記のように、レントゲン他の画像診断は記号解釈の問題にほかならない。そのほか、医療のあらゆる局面で各種の記号システムが介在することは明らかである。

 しかしふたたび言えば、<医療>に多種多様な記号過程が介在することと、<医療>そのものが記号過程である、ということはべつのことである。

 後者の本質的視点を確立するためには、「あらゆる社会事象は人が生きる環境ないし情況の内部から遂行される当事者の認識技法を通じて生成する」という観点が必要である。そして実際、ソシュール=パースの記号学の伝統にはこの要請が含まれていたとみなすことができる。
(つづく)