記号過程としての 4

namdoog2009-06-28

 今年の日本記号学会でシンポジウムのテーマにとりあげられた緩和医療は、たしかに、多様な記号過程がそこに介在するという点で十分記号学の考察の主題になりうる。しかし基本に遡るなら、そもそも社会的実践としての〈医療〉そのものが、それ自体、記号過程にほかならない。
 当然ながら〈緩和医療〉も記号過程であって、人々のコミュニケーション過程のただなかで創出され維持される。言い換えるなら、この特有なスタイルをもつコミュニケーション過程そのものが「緩和医療」なのである。ここには、患者やその家族、医療者などのコミュニケーションの主体は当然ながら、病院あるいは看護ステーションなどの制度的機構、そして医療機器、医薬品などの物的対象などが関与している。
 この種のコミュニケーションを従来の言語学によって解析ないし説明することは、いくつかの点で不可能だと言わざるをえない。
 第一に、従来の言語学はモノフォニーの言語学でしかないか、またはせいぜい対話の言語学が試みられてきただけであるのに、緩和医療=コミュニケーション過程は明らかに多声的(ポリフォニー)だからである。
 例えば「カンフェランス」(conference)を言語学的に記述するためにはそれをモノローグやダイアローグではなく、独特な(sui generis)言語的相互行為としての「会議」を解明しなくてはならない。すなわち、「会議の言語学」が要請されるのである。
 翻ってみれば、いわゆるモノフォニーも、この見地からすれば、ポリフォニーを孕むと見なすべきであろう。その都度のモノフォニーは同時にポリフォニーなのである。
 第二に「対話」の場面に話をかぎっても、従来の言語学は言語の厚みを単一な層に還元してしまっている。ところが医療の現場では、例えば医療者の身振りやまなざしなどの身体運動がやはりものを言う。この点は患者にしても同様である。
 時には「沈黙」という「言葉の不在」が雄弁に何かを語ることもまれではない。従来の言語学にとって「言葉の不在」が表現価値を持たないのは明らかである。それは「修辞学」で扱う言語現象に過ぎなかった。それゆえ修辞学の伝統から将来の言語学は多くを学ぶことができるだろう。
 上で述べたように、モノフォニーがそのままポリフォニーである顕著な表現が文彩(あや)つまりレトリカルな表現に代表されるのは容易に理解できる。例えば、昨夜の気象予報担当者のアナウンスとは異なり、今朝の天気が雨だったとして、「ちょ、いい天気だな」というアイロニーは到底モノフォニーとは言い得ない。(このあたりの話題については、拙著『新修辞学』、世織書房、を見ていただきたい。)
 従来の言語学は言語能力と言語運用の区別、あるいはラングとパロルの区別を立てて、当面の言語学的探究を言語能力ないしラングの面に限っていた。では、従来の言語学は、言語運用ないしパロルの部面に対して手をこまねいていたのだろうか。決してそうではない。全体としての言語学を構文論、意味論、語用論という三つの柱に部門立てすることが行われた。哲学理論としての「言語行為論」や日常言語派の分析さらにグライスの「意味理論」などの影響を蒙りつつ「語用論」がかなりの展開を成し遂げている。この延長上で、スペルベルとウィルソンの「有意性理論」ないし「関連性理論」(Relevance Theory; RT)は、非言語的記号機能の理論化のために「非自然的意味」(グライス)の概念に依拠しつつかなりの達成をもたらした。
 しかしながら、RTにせよほかの流儀の語用論にせよ、それが基本的に言語の「分断主義」(segregationalism: Roy Harris)を克服していない限りにおいて、やはり致命的な限界を抱えているといわざるを得ない。とはいえ、多声的でかつ統合主義的な言語探究を学問として仕上げること、これをいま目標にすることは、記号学的探究にとって現実的ではない。また、それが何か実質的な学問体系として仕上げられる保証などないのではないか。とすれば、「多声的かつ統合主義的言語探究」という理念は、記号学的探究が進む方向を誤らせないための「指針」ないし「制約」として持ちこたえるべきだろう。

 緩和医療=コミュニケーション過程のいくつかのシーンを実際に記述・分析するという当初の予定は後回しにしたい。気掛かりな問題にいくらかの整理を施すことが先決だからである。
 兆候への眼差しがそれを〈症候〉と捉えること(つまり、症候の生成)はどのようにして可能だろうか。この問いに対しては、眼差しが帰属する「暗黙知」(tacit knowing)の規定性を挙げておいた。つまり症候を捉える眼差しは、簡単にいえば、生きられたエクスパートシステム(implicit expert system)のひとつの要素なのである。
 エスノメソドロジストの目的は、おのおのの社会実践(医療、教育、司法など)に対して、この種のシステムが明確化する様態を記述することであるように思える。彼らは、これをもって、コミュニケーション過程のただなかでおのの社会実践の固有性が構築されるという事態の解明と見なしている。
 実際のところ、彼らは当該の社会実践を規定するシステムを前提しているのではないか、という疑いが払拭できない。つまり、彼らの記述の力点は当該のシステムがコミュニケーションのうちで「明確化される」ことの追跡であって、「創発される」ことの解明には至っていないのではないかという印象を否めない。だが最終的判定はしばらく保留しておきたい。「明確化」と「創発」が同じ事態なのかもしれない、という可能性が残るからである。形而上学の言葉遣いをすれば、潜在性が現実的なものとして顕になることを「明確化」と押さえることができるなら、それはすなわち「創発」なのではないか。
 あるコミュニケーション過程が実際に発動するとき、この過程の特徴を決めるものは、この過程に特有な表現要素であるほかはない。例えば、教師のものの言いようは、お笑い芸人のそれとは違うだろう。教師は「採点」、「説諭」、「授業」、その他まさに彼を〈教師〉にしている言語活動を営むことによって、はじめて教師になる。(ちなみに、「教師である」という意味は多義的である。資格をもち教員試験に合格したということは、「教師である」ことの貧しいながら一つの意味ではある。しかしここでは、もっと豊かないわば実質的な意味を想定している。)
 彼にこれらの活動を可能にしているのが、教育に関する「生きられたエクスパートシステム」である。このシステムが意識化されることは、部分的には十分に可能である。どんな教師も教師としての自覚を持つことができるし、教授法について説明できるかもしれない。
 しかしながら、「生きられたエクスパートシステム」の全部を意識化するのは不可能である。事実教師が常にこれを意識しているわけではないし、時間をかけて意識化できるわけでもない。
 統合体としての言語の構成をいま一度想い出してみよう。言語-パラ言語-身体運動の三層をそれは具えている。言語層に関してすら、例えば、構文論を意識化できる者は特殊な訓練を受けた専門家だけである。つまりそれができるのは、言語学者だ。況やパラ言語や身体運動について意識化は当事者にとってはなはだ困難である。(意識化が――あくまで部分的にだが――不可能というつもりはない。)それというのも、これらの層は意識化された概念知ではなく、本質的に身体性としての知あるいは身体知に属するからである。
 このように考えてくると、おのおのの「生きられたエクスパートシステム」は、制度的事象や物的対象などの創出と同期しながら、どこまでもコミュニケーション過程のただなかで創発する(emerge)と見なくてはならない。
 この創発を解明するために、一般に〈記号過程の歴史〉にアプローチする知的探究が試みられるべきだろう。ちょうど、ある生物種の進化を解明する生物学的アプローチが現におこなわれているように。
 エスノメソドロジーはすでにこの課題を成し遂げたのだろうか。あるいはエコのように、記号学の観点から「一般記号学が成立した暁には、エスノメソドロジーはその特定分野として不可欠な一章をなす」と言うべきなのだろうか(エコ『記号論』, Umbert Eco, A Theory of Semiotics, 1979)。いずれにしても、〈社会〉に関する知的探究が本質的に記号学的性格をともなうことは確かである。          (ひとまず了)