演劇論ノート  ――After Fukuda Tsuneari 1

namdoog2009-07-08

 「醒めて踊れ」と題された、福田恆存評論集・第11巻(麗澤大学出版会、2009)は、みずから戯曲を書き演出もこなした、戦後日本を代表する批評家にして思想家が構想する、演劇論あるいは演技論を集めた一冊である。
 いうまでもなく、福田は演劇について他の場所でも発言している。そのかぎりで今回の作業はあくまで予備の域を越えるものではない。それにしても、彼がその生を賭してはぐくんだ思想(大袈裟だろうか)を〈演劇的知〉と呼んでも誤りではないだろう。彼の言説そのものを思想のドラマツルギーとみなしうるのだ。
 これから、この書物からこれはと思う箇所を引用しつつそれぞれに多少のコメントを加えよう。この引用+コメントの系列から多少とも体系だった「演劇の記号学」が立ち現れることを期待したい。
 引用は読書の時間性に相関している。そのために引用の順序に理論的必然性が欠けるのは仕方ないことだ。しかしどんな読書でもそうだが、おのおのの文章を読む際、われわれはすでに読んだ文を背景に沈潜させてこれを維持し、またこれから読むだろう文を先取りしながら前進するほかはない。なぜなら、総じて人間がいま遂行する活動には、過去へ遡及するまなざし(retrospect)と未来への過剰なまなざし(prospect)がともなわざるを得ないからである。
 一般に、知的探究に課題や目標が必要であるように、この場合も、作業にとりかかるためには〈演劇〉にかかわるいくつか本質的問いを準備する必要がある。
 第一の問いはこうである。〈演劇〉とは何だろうか。そして第二に、演劇は実人生とどのような関係に立つのだろうか。最後に、演じることが身体的所作にほかならないとするなら、「正しい」演技の条件は身体性のどのような様態なのだろうか。換言すれば、〈演劇美〉を実現するには身体性を生きる(主として)俳優は何をどうすればいいのか。初めの二つの問いが「演劇論」に属するとするなら、最後の問いは「演技論」のものだといえるかもしれない。しかしながら、二つは結局、演劇なるものに関する言説を導く本質的な問いなのである。

 福田は歌舞伎における「型」についてこう述べている。「そもそも真の型というのは写実に則り、写実を殺して内面を力学的に計量された形として見せてくれる事で、約束通りの仕来りの意味ではない。」(同書、p.27, 引用については新仮名、新字体を用いている。)
 ここで厳しく咎められているのは、中村辰之助の演技だ。菊五郎劇団の「目組の喧嘩」の演技について、「三幕目、辰五郎の寝姿は全く死に体、水杯を「てめいも飲んだな」のせりふ、その腹のうちがわからぬ気の無いせりふ」と手厳しい。
 歌舞伎という伝統的演劇の形態はこのさい問題ではない。どんな演劇もそれなりの「型」のうちで演技を実現せざるをえないからだ。言い換えると、日常行動とは異なる格別な〈演技〉という「様式」をまとわざるを得ないのである。ここですでにわれわれは〈演技とは何か〉という根本的問題に逢着する。
 別の箇所で福田はこう述べている。「(シェイクスピアの主人公たちは)人間性の本質的な在り方において…「物まね」という人間の本性を演じているのだ。いいかえれば、演劇そのものを演じているのである。それが「演劇の演劇」ということ(なのである)。」(「人間・この劇的なるもの」、福田恆存評論集、第四巻、p.67.)例えば、ハムレットは「あくなき意識家として果敢な行動者」の〈典型〉を自らの言動を素材として構築し(=物まねをして)その作品を固有の身体(corps propre)において展示するのだ(=演技する)。
 すこしコメントしておこう。「物まね」ないし「模倣」はアリストテレスの『詩学』に由来する概念にほかならない。アリストテレスはいう、「物まねは人間にとってすでに幼児から自然なものである。人間が他の動物にまさるゆえんの一つは、人間が地上もっとも物まね的な生きものであり、まず物まねによって知りはじめるということである。とすれば、万人が物まねの行為に喜びを見いだすというのも、また自然である」(『詩学』第4章)。このかぎりで〈模倣〉は経験に属するのではなくむしろ経験を構成する超越論的概念である。[〈模倣〉について多少補足したい。形而上学の見地からは、〈模倣〉は「主体が対象の少なくとも一つの属性を反復すること」あるいは短く「属性の反復」と規定できる。だがこの規定には、多くの問題が伴う。第一に「属性の反復」が必ずしも経験的模倣にならないことがある。では模倣が実現するために必要な制約は何なのか。第二に「属性の反復」は経験として一通りではない。それゆえ種々の反復の様態を観察する必要があるだろう。]
 舞台の上の役者が語るのはさしあたり日常言語である。しかし彼はそれを組み替え再構成することで演技を実現する。この記号過程は記号系による記号系の再構成という意味で〈再帰的動き〉(recursive move)であり自己言及性を呈している。
 次いで、この過程のただなかから典型ないし見本としての「あくなき意識家のままでいながら果敢な行動者」が立ち現れる。もし立ち現れないのなら、その演技は失敗したのだ。それを演じた俳優は大根役者だということになる。要約すれば、〈演技〉とは、人間性(a kind of human nature)の立ち現れを意識的に企図して営まれるコミュニケーションにほかならない。

 福田は「女舞」(三越劇場、1977年3月)で主役を演じた岡田茉莉子について述べている。「…あなたは正面きって喋りましたね、そういうところに芝居の醍醐味があると思っているのではないか、…歌舞伎や新派なら正面きっても、その所作にもせりふ廻しにも型があり、そこには型として結晶しうるリアリティがある…」(前掲書、pp.29-30.)
 しかし「正面を切る」演技はこの場合には是認できない、というのだ。なぜだろうか。役者が観客に面と向かってせりふをいうのは危険である。いや、それは原則的には反則技なのだ。なぜなら、観客に向かってせりふを喋ることは、いまここでの演劇の遂行を――あるいは「そこに成立している演劇空間を」といってもいいが――頓挫させがちだからである。

 直接ことばを観客に投げることによって、〈再帰的動き〉が瓦解して単なる日常的コミュニケーションに舞い戻ってしまわないとは限らない。――しかしこれは不正確な言い方である。自明のことだが、役者のせりふは「日常的コミュニケーション」としても成り立たないからである。
 古代よりこのかた、演劇の上演のために特定の空間なり建築物が要求されてきた。ギリシアの悲劇にしてもエリザベス朝における演劇、あるいは能や歌舞伎もこの例外ではない。ホンジイガが指摘したように、日常性を遮断した空間を確保することが、プレイ(演劇)が成立するための一つの条件だからである(『ホモ・ルーデンス』(里見元一郎訳)、河出書房新社、1974、参照)。この制約を手玉にとるには俳優のがわによほどの技量が必要である。

 福田は演劇の機軸を俳優のせりふに求めている。当然のことだろう。なぜならドラマとは固有で特殊なコミュニケーションだからである。
 「…テレビや映画ではごまかせても芝居では絶対にごまかせないせりふの公理を言って置きます。それは相手側のせりふを聴いている時にこそ自分の芝居のすべてが懸かっているのだという事です。…聴きながら喋っているのである、したがって聴く事は喋る事なのです。…役者としての心得の第一は、自分のせりふを機械的に早く覚えてしまい、次にはその自分のせりふの切掛けになる相手のせりふまですっかり覚えてしまう事。その後に自他のせりふを忘れた様に自由になり、相手のせりふが毎晩舞台の上で一つ一つ初めて聴く言葉の様に新鮮に聞こえて来、自分のせりふもそれに応じて初めて口に出て来た様に新鮮に喋れる様になることです。」(同書、pp.38-39)
 ここで福田が芝居つまり舞台演劇における演技とテレビや映画における演技をきっぱりわけている点に注意を促したい。逆にいうと、テレビや映画における「演技」は本来の演技ではありえない。映像技術の発達とともに出現したそれは本来の演技とは別のドラマツルギーや演技術をともなう。
 福田の演劇観がリアリズムに立ってなされていることは明らかだろう。表現主義などいわゆる前衛演劇を彼は認めようとはしない。この話題にここでこれ以上踏み込むことはしないが、前衛の立場はあくまでリアリズムへの対抗としてしか成り立たない、という論点を指摘することで十分だろう。演劇の本来の形態は――歌舞伎であれシェイクスピア劇であれ――リアリズムでしかありえないのだ。
 福田の掲げる「せりふの公理」が日常的コミュニケーションの様態にそのままあてはまるという事実、これは奇妙なことでは全然無い。上述のように、演劇は、〈再帰的動き〉として、日常的コミュニケーションの再構築でしかありえないからである。(つづく)