演劇論ノート  ――After Fukuda Tsuneari 3

namdoog2009-07-16

 芝居の「せりふ」は「粒が立って」いなくてはならない。「粒」とはある種の物質性のことである。
 もう一度福田の言葉を引用しておこう。「芝居のせりふは語られている言葉の意味の伝達を目的とするものではない。一定の状況の下において、それを支配し、それに支配されている人物の意思や心の動きを、表情や仕草と同じく形のある「物」として表出すること、それが目的である…」(福田恆存評論集、第11巻、p.266)。
 日常言語を粒立った〈せりふ〉として再制作するために、俳優は「相手の掛っているせりふ一つ一つに鉤を附け、その都度、それを自分の心に引掛けながら言う、それは必ず動きや姿勢に出る筈のものです。あらゆるせりふは「…しながら」のせりふであり、あらゆる動きは「…言いながら」の動き」なのだ(同書、p.198)。
 すなわち、身体性としての言語の働きをある仕方で「強化」することがせりふをもたらす。
 しかし「せりふに合わせて動き、動きに即してせりふを言う」という原則――これはまさにハムレットの演技論にほかならない――は仕方話(しかたばなし)を意味するものでは全然ない。
 仕方話こそ下手な役者がしばしばしでかす「相手にせりふを直かに掛ける」最悪の例なのだ。「私はせりふを自分の心に掛けろと言っているのであり、仕方話はせりふを動きに掛けている」に過ぎない(同書、p.198)。
 なんのことはない、福田のいう「せりふ術」の根幹は、コミュニケーションとしての日常言語の運用そのものにある。言い換えれば、せりふとは日常言語の洗練された運用以外ではない。(この論点の一つの重大な含意は、日常言語を生きることに(潜在的に)自己劇化が含まれているということである。この論点には後ほど触れることになるだろう。)
 「洗練」の手法には、リズム、タイミング、イントネーション、フレイジング(句phraseの粒立て)など、主としてパラ言語的方略がある。
 リズムに関しては、シェイクスピアの戯曲における「ブランク・ヴァース」、歌舞伎における「七五調」などをただちに挙げることができる。例えば、歌舞伎の演目「三千歳直侍」(みちとせなおざむらい)における「渡りぜりふ」は、(基本的に)七五調のリズムを奏している。
 直 祝い延ばしてこの儘に、別れて行くも降る雪より、
 丑 互いに積る身の悪事に、
 直 氷柱のような槍にかかるか、
 丑 または氷の刃にかかるか、
 直 襟に冷めてえならい風、
 丑 筑波おろしに行く先の、
 直 見えぬ吹雪が天の助け、
 丑 そんなら兄貴、
 直 丑や、達者でいろよ。 
 この「渡りぜりふ」に福田はせりふの原型あるいは精髄を見ている。直次郎と丑松の「二人はいずれも同じ立場、同じ心境にあり、それぞれ一人で言うべき一つのせりふを二人で交互に支えながら組み立てている」、その点で、このせりふの形態を「渡りぜりふ」と呼び習わしているのである(同書、p.161)。
 渡りぜりふが真に効果を生み「観客を酔わせる」ためには、俳優のがわにかなりの技量が必要である。すなわち、直次郎が丑松にせりふを「渡す」にも技が必要だし、丑松がそれを巧みに「受取る」にも同様に技量がいる。
 「速球あり鈍球あり、直球、カーブ、ドロップ種々様々の投げ方があり…受けの方も、両手を突出し、グローブ越しに掌に痛みを感じるような受取り方もあれば、少し躰を斜めに捻りながら…受取り方もある」という具合である(同書、p.162)。
 渡りぜりふには、四天王や女中達が一つせりふを受継いで言う「割りぜりふ」も含まれる。いわゆる新劇にはこの種の例はない。なぜなら日常的コミュニケーションにおいてこうした発話が生じることがないからだ。
 しかし、「どんな写実的なせりふ劇でも、すべてが「渡りぜりふ」で出来上がっている」と言えるだろう(同書、p.165)。なぜなら、俳優たち(渡りぜりふの場合は原則として二人)の間には「言葉を吐き出させる関係」という動かしがたい実在物があり、それが彼らを協力させ対立させながら、一つの建物を作っていくからだ(同所)。
 演劇においては、「関係」こそが一つのリアリティにほかならない。この実在=関係をダイアログ、ダイアレクテックとして表現するものが〈せりふ〉なのである。わかりやすい例として「ヴェニスの商人」の終幕冒頭のジェシカとロレンゾーとの間に交わされる二重唱がそうである。
 コクトー「双頭の鷲」やニール・サイモン「裸足で公園を」などの戯曲から例をとりつつ披瀝される福田の分析は精緻をきわめている。これは何事を物語るのだろうか。
 第一に、福田によるせりふの分析は、ドラマの成否を決めるのは、「割りぜりふ」という構造をパフォーマンスとして遂行する俳優の演技であるという平凡な事実である。
 第二に、演技には、定型をなす手法あるいはアルゴリズムとしての「技術」ないし「演技術」などはありえないということである。ごく抽象的に言うなら、演技には言語の創造性が伴うのだ。換言すれば、言語を有限の規則の束として定式化することは不可能なのである。 
 第三に、一般に演技のアルゴリズムなどあるはずもないのだから、そこに俳優の工夫の余地があると同時に、〈演出家〉の存在理由があるということである。とはいえ、言うまでもなく、演技が言語運用の洗練であるかぎりにおいて、「演技の基本」と呼びうる言語術はあるだろう。例えば、口跡の明瞭さを会得していなければ俳優は務まらない。(つづく)