演劇論ノート  ――After Fukuda Tsuneari 4

namdoog2009-07-24

 福田はサルトルの小説『嘔吐』に登場する女の言葉を引用しながら、〈演劇〉なる人間の営みの本質に切り込んでいる。(福田恆存評論集、第4巻「人間、この劇的なるもの」、麗澤大学出版会、2009.)
 女は自分が「特権的状態」と名づけるものについて例をあげながら述べる。「特権的状態」というのは、「完璧な瞬間」を実現するのにつごうがいい条件を備えた格別な状況のことだ。
 端的に言って、人の出生は特権的状態になりえない。生まれるときの私たちはたんなる「物体」せいぜい「生物」に過ぎないからだ。出生は人間(person)にとっての「出来事」にはなりえない。
 しかしは万人にとって「特権的状態」である。死にはいつでもすでに「意識」が与っている。(念のために付言すれば、ここでいう「死」とは生理的な意味でのダイイング(dying)ではなくて、人間学的カテゴリーとしての〈死〉にほかならない。)
 死に際して人は主役になるうるのだし、芝居がかった人間なら、深刻な、あるいは軽妙なせりふの一つも吐くことができよう。(有名人の死に際の言葉を集めた本や遺訓や遺言は、こうして多くの人の関心の的になっている。)
 福田の次の指摘は問題の核心を射抜いている。なぜ多くの人は「特権的状態」を希求せざるを得ないのか。「一口にいえば、現実はままならぬということだ。私たちは私たちの生活のあるじたりえない。現実の生活においては、主役を演じることができぬ。…端役でも、それが役であればいい、なにかの役割を演じること、それが現実の生活では許されないのだ」(同書、p.14)。
 まことに、仏陀の教えのように人生は――どうにもならないこと――に満ちみちている。演劇あるいは演劇性の目的はこの苦の克服にある。もちろん真の問題は、この「克服」が現実的効果あるいは実効性をもちうるかどうかにある。これについてはすぐ後に述べよう。
 福田は同じ視点からロレンスの小説世界を解釈している。「ロレンスにとって、はあらゆる人間行為のうち、もっとも純粋な行為なのである。のみならず、断片と化した現代の複雑な社会生活において、まだそこでだけは、なんぴとも主役を演じる最後の拠りどころなのである」(同書、p.16)と。
 このようにして、演劇論は人の生き方の問題、あるいは人生論ないし人生哲学に直結する。演劇に関する福田の洞察はこの点をおいて他にはない――たとえ、彼の見解に賛成であろうとなかろうと、である。
 福田の本意には反するかもしれないが、彼の演劇論はサブカルチャー論へも部分的に敷衍しうるはずだ。なぜ若い世代はこんなにもゲームに熱中するのだろう。とりわけアドヴェンチャーゲームあるいはロールプレイングゲームの人気の秘密は、ゲームが「必然性として生の時間を生きる」仕掛けである、という点に求められるかもしれない。
 さて福田は近代の価値である〈自由〉を批判している。「…ひとはよく自由について語る。…私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならないことをしているという実感だ。…舞台のうえで快感を与えるのは、個性ではなくて役割であり、自由ではなくて必然性」なのである(同書、p.19)。
 サルトルを含めて近代の思想家の多くは〈自由〉に至上の価値を見出した。この思想的動向をさしあたり「自由主義」と呼ぶことにしよう。ヘーゲルが世界史を自由の実現の過程と認めたことはよく知られている。
 『嘔吐』のなかの女の欲した生き方は、つまり劇的に生きるということではないのか。男はたずねる、「芝居のなかの人物のように生きたかったのだね」と。それは難しいことだ。女がいうように「人間はそういつも緊張してはいられない」から。つまり自由に生きることに加えて、生きることを強烈に意識すること、味わうこと、このことが欠かせないのだ。この「人間存在の二重性」に演劇の根拠がある(同書、p.23)。
 結局、私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。もっと精確にいうなら、「私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌剌さを味わえる」のである。自己が居るべきところにいるという実感、宿命感とはそういうものである(同所)。
 この種の実感を生きるには人は多少なりとも「俳優」として振る舞わなくてはならない。そのようにして、生の現実を演劇化しなくてはならない。
 「演戯」という生き方は、いま、福田によって〈倫理〉になる。この生を生き抜くこと――死は生の一部である――はこの生を必然化することにほかならないが、その生の時間性はドラマのそれになるはずだ(同書、pp.20-21)。
 演劇に関して他にも触れるべき論点は多いが、ここでは生の現実性と演劇とのかかわりについて簡単な再確認をしてしめくくりたい。
 ことに私たち日本人は、演戯を虚偽の表現と見なしたがる。誰かの行動はパフォーマンスだと人が言うとき、この「パフォーマンス」は本来の意味を歪められた悪口でしかない。とりわけ政治の領域では、例えば「小泉劇場」の例が示すように、演戯は「悪しきもの」と決めつけられるのが大勢である。つまり「実体以上の表現過剰といでもいうべきもの、それを演戯」と解しているのだ(同書、p.26)。
 そもそも日本文化には、「表現そのものに対する伝統的な不信の念があり…はじめから表現に虚偽を見る。…「表現は虚偽」なのである」(同所)。なぜだろうか、それは「平穏な仲間うちの社会においては、ほとんどそ[=自己表現、自己主張]の必要がなかったからだ。そこでは自己は外部の現実とともに、そのなかに埋没していて、最初から、そして最後まで、それと過不足なく一致していた」(同所)。――この整理が単純化である点を押さえた上で、基本的には福田の分析を容認したい。
 しかし、これを可能とした「共同体」はとっくに崩壊した。その帰結として、私たちは外部との違和をつねに抱えることになったし、適応異常が一般化したのである。私たちは――サルトルが指摘したように――自分の<自由>への道をさえぎる「他者」を発見することになった。
 こうして、好むと好まざるとにかかわらず、現代人は自己表現に追い込まれたのである。
 自己表現は意識の真の緊張関係と結合しなくてはならない。デジャヴ(Déjà-vu 既視感)は誰にでも生じうる普通の経験である。友だちと話しているとき、ある一瞬の相手の仕草や表情を見て、ああ以前にこんなことがあったと思う。周囲の景観もその場の状況も相手との関係もすべてが同じだ、しかし記憶をたどってもこれがいつのことかは憶いだせない…。
 福田によれば、デジャヴとは意識の弛緩状態から緊張状態への移行の体験だという。この説の是非はともかく(ちなみに福田説はある心理学者の説と一致している)、いまは体験の質が問題である。
 デジャヴにおいて私たちは、まざまざと「ものを見た」という感じにおそわれる。景観や友だちの肉体が、それを眺める自分を含めて、あらゆる対象が、このときほど明確に対象として存在するときはない。「自分は純粋に意識だけになる。純粋な意識者としての快感を味わう。…純粋な意識の前では、[通俗的]時間は消滅する」(同書、p.30)。
 この純粋な意識はあくまで消極的なものであって、快癒期の患者が知る健康感に似ている。「純粋な意識の真の緊張感を呼び起こすもの、それが私のいう演戯である」(同書、p.31)。
 「消極的なもの」である演戯が、積極的に生命感ないしリアリティを創造する、という逆説。言い換えれば、字義的行動に比較すれば紛い物でしかない演戯が、むしろ現実を構成するのだ。ここでもまた、われわれは、表現の現実構成の権能あるいは記号系の再帰的動きの所在を見いだすことになる。