演劇論ノート  ――After Fukuda Tsuneari 2

namdoog2009-07-12

 福田によれば、日本の社会には「一般にフィクションと現実との混同が文化の荒廃を齎し、文化の荒廃からその両者の混同が生じているという現状」があるという。文化の底に悪循環がわだかまっているというのだ。
 その来るゆえんについて福田はいう、「今、私はフィクションと現実との混同と言ったが、それは現実もまたフィクションであるという認識が欠けている事から生じる。文化もまたフィクションである。が、今日、日本の文化の実情はフィクションとしての凝集力、結晶度が弱まり、その間隙を縫って子供だましの生の現実がフィクション面をして罷り通っているに過ぎない」と(福田恆存評論集、第11巻、麗澤大学出版会、2009、p.61.)。
 レトリシァン福田の面目が躍如する表現だが、単なるレトリックとして聞き流すべきではない。「文化がフィクションである」という命題は、文化が記号系の構築物であることに的中している。この場合の「フィクション」は原義(fictio < fic-形作る+-tion)に即した意味、つまり「創られたもの」のことである。となると、フィクションを素材にして新たにフィクションを創出することが可能になるだろう。
 高次のレベルに構築されたこの「フィクション」がふつうの意味での創作ないし虚構だとすると、その「凝集力、結晶度」の衰弱のゆえに低次のフィクションあるいは「生の現実」が前者の表現力を圧倒することがある。弱弱しいフィクションは惰性的な現実に打克つことができない。(なおこうした事例として、福田は寺山修司唐十郎のアングラ演劇を上げている。その指摘は正しいと言わざるをえない。とはいえ、福田の批判にもかかわらず、寺山や唐などが展開した演劇活動の意義を汲み取る道は残されている。)
 ただし高次のフィクションがつねに「創作ないし虚構」の実現であるとは限らない。例えば入学式での校長の訓示は高次のフィクション、つまり〈儀礼〉の一部だが、だからとはいえ〈虚構〉ではない。校長のパフォーマンスに伴う〈内容〉は字義的に解すべきものであり作り話ではないからだ。
 低次の所与としてのフィクションを加工してわれわれは高次のフィクションを創出する。しかしこのフィクションがどんな種類のものなのか、どのようにして高次のフィクションに固有なカテゴリーが付与されるのか――こうした問いに関しては別途入念な考察と観察が必要である。
 福田が信奉するレアリズム演劇は、上の視点から見直すとき明らかに「フィクションのフィクション」として現出する。ここにわれわれが目撃するのは、日常言語をドラマのせりふとして造形する(戯曲の執筆)→ 戯曲の内容を役者のことばと身体のパフォーマンスとして舞台上で実現する(演出を経ての上演)、という自乗された創作過程にほかならない。形式的に言えば、ここでもわれわれは記号系の〈再帰的動き〉を見いだすのだ。

 戯曲が演劇のファクターであるかぎり、演劇なる記号系は、グッドマンのいう「複数記号系」(multiple symbol system)に相当する。すなわち、演劇は記号制作の生産物が二つ以上ある記号システムなのである。(グッドマン『世界制作の方法』ちくま学芸文庫、参照。)ちなみに演劇のこの性格は、<戯曲>とは何かを精確に規定することが前提となる。だが、戯曲の成立に関しては先行研究があるので、当面の議論にとっては(戯曲の)常識的理解で十分であろう。

 この創作過程が〈演劇〉としてカテゴリー化される要因にはさまざまなものがある。前述のように、演劇が世俗の人間活動ではないことを担保するために、パフォーマンスの展開される時空間を世俗的なそれから分離する仕掛けが必要となる。

 たとえば能楽に例をとろう。はじめの頃、能は神社の拝殿や屋外の仮設舞台などで演じられていた。これは、能が神事と深いかかわりがあることを暗示する歴史的事実である。いずれにしても、世俗から切り離された行為としての〈演劇〉を実現するために格別な構築物(拝殿、仮設舞台など)が必要なのである。ちなみに最古の能舞台は京都の西本願寺の北舞台だという。(添付写真を参照)
 他方、〈演劇〉の時間を脱世俗化するためには、それが演じられる時間を限定することで十分である。つまり、何らかのドラマは、ある時に始まり別のある時に終了するという制約下でまさにドラマとなる。だらだらと始まり終わりのないような演劇などありえない。[福田は、人は自らの人生を劇化する動物だと捉えた。フィクションとしての人生は、確かに開幕(=誕生)と終幕(=死)によって限定されている。]

 次に福田の「せりふ」についての考察を引用したい。「芝居のせりふは語られている言葉の意味の伝達を目的とするものではない。一定の状況の下において、それを支配し、それに支配されている人物の意思や心の動きを、表情や仕草と同じく形のある「物」として表出する事、それが目的であり、意味の伝達はその為の手段にすぎぬ、そう言っては言い過ぎであろうが、むしろそう割り切っておいた方がいい」(前掲書、p.266、この引用がなされた本文「シェイクスピア劇のせりふ」は、演劇の機軸を〈せりふ〉に求めた著者のせりふ論のひとつの集成とみなすことができる)。
 ここに示された言語観を真面目に受け止めるべきだ。そのとき、従来のあらゆる言語学が「せりふ」を分析する目的に耐えない事実が暴露される。

 従来の言語学は構文論・意味論・語用論という三部門を別個に立て、それぞれがいわばバラバラに言語へのアプローチを企てた。しかし、たとえば構文論は他の部門を先取することなしに単独で成り立つのか。決して成り立つはずもない。議論の詳細は省かざるを得ないが、この種の古典的部門分けは言語探究のための便宜的手段に過ぎないからである。

 「芝居のせりふは…目的とするものではない」という指摘はまことに精確である。当世の論理学者あるいは言語学者が「命題」ないし「字義的意味」などの名目で呼ぶ概念内容をせりふの「意味」にひきあてることができるだろうか。決してそうはできない。その種の概念内容はあまりにも抽象的であり、せりふの意味的振る舞いにはついに匹敵しないのだ。福田が述べているように、せりふとは、〈エーテル状の意味〉というよりむしろ「物」なのである。言い換えれば、せりふは、言語音という物理的なものに表情や動作――これらも物理的なものに違いない――が密着したひとつの身体性の様態である。(言語の三層構造については、F. Paytos,Paralanguage: Interdiciplinary Approach to Interactive Speech and Sound. Amsterdam and Philadelpia: John Benjamins, 1993を参照。)

 発話を〈せりふ〉に変換する要因のひとつに韻律がある。福田によれば、「言うまでもなく、シェイクスピアの戯曲はブランク・ヴァースblank verseで書かれている。[ヴァースをふつう韻文と訳しているがこれは誤りで]…ヴァースはむしろ律文としたほうがいい。ブランク・ヴァースは無韻の律文である。…各行十音節づつで、それが弱・強の音節を一組とする五組の繰返しによって、律、つまりリズムを構成する。したがって、ブランク・ヴァースを弱強五歩格iambic pentameterとも呼ぶ」(同書、pp.278-279)。
 もちろんすべてのせりふがブランク・ヴァースからなるのではない。破格のヴァースもあるし散文も混じっている。しかしある種の律文が〈せりふ〉のひとつの要因であることは確かなことである。

 <セリフ>が言語表現として格別な特徴をそなえること、この点は日本の伝統的演劇、例えば歌舞伎の場合も同様である。  (つづく)