いつ贋作か――贋作の記号学メモ 9

namdoog2009-03-10

「贋作」という不純なカテゴリー

 
 作品のスタイルとはその同一性の顕現である。まず指摘しておくべきは、この命題が覆うのは(さしあたり)藝術作品の領域に限られる、という点である。

 古来、「同一性がないような存在者はない(あるものに同一性がないのなら、そのものは存在しない)」(No entity without identity)という(アプリオリで必然的真理を述べたと信じられた)箴言があった。いまはこの由緒ある形而上学を批判的に論じるいとまはない。ここではただ、いささか先走ることになるが、贋作に関する記号学的分析を通じてこの箴言の限界が露呈される見込みを述べておきたい。

 「贋作」について画家は時としてまことに不可解な正反対の態度をとることがある。
ひとつには、画家が真っ赤な贋作をなぜか「真作」と認知することがある。

 シャガールのもとにある画商が一枚の絵を持参した。それは例のマルスカートがでっちあげたシャガール風の結婚式の絵であった。「昔、あなたがお描きになった絵を見つけたのですが、残念なことに署名がないのですよ」という画商の言葉にうながされたシャガールは、いっとき眺めていたが、「よくできている。でもぼくはたくさん描いたから、この絵は思い出せない」と言い画面の一隅に自分の署名を記した。(この逸話にはすでにふれた。)

 〈署名〉の意義については簡単ながらすでに述べた。署名するという行為は、所産としての「署名」ともども、全体としてその絵のスタイルの実現に寄与する。同一性を画布に降臨させる、それは儀礼的行為なのである。そのかぎりで〈署名すること〉は同一性の顕現としてのスタイルの要素である。とりわけ近代以降の署名の意義は重いものとなった。

 これとは正反対をゆく画家のやり方があって人々はとまどう。ルノアール若い女肖像画に署名を求められたとき、一目でそれが自分の知った女性を描いた真作であると知った。無署名なのは、その出来栄えに画家自身が満足ゆかなかったからである。換金の必要があったので世に出てしまったというわけである。事情を知らない相手にルノアールはこう言ったという。「なんですって。こんなくだらない絵をわたしが描いたというのですか。」

 シャガールの場合は彼の記憶の不確かさに署名の動機があるといえるかもしれない。これに反して、ルノアールの場合、自分の記憶を偽って真作を贋作にすり替えたことになる。(以上の挿話については次を参照。長谷川公之『贋作 汚れた美の記録』アートダイジェスト、2000、280〜281頁)

 しかしながら、署名にとって画家本人の〈記憶〉が必須の条件だとはおもえない。正反対の二つの挿話が物語るのは、「スタイルの認知と作品の真贋可能性との切断」ではないのか。

 これは画家以外の鑑定家にも同じように生じる不可避の事態である。なぜならすでに詳しく述べたように、鑑定は歴史的基準に拠らなくてはならないが、「歴史的基準への適合」はつねに「不完備」だからである。

 別の言い方をしてみよう。真贋の可能性は存在論の問題である。しかし、その鑑定は認識論の問題にほかならない。真贋の可能性と鑑定された真贋の可能性との間にはつねにギャップがありこれを埋めるのは永久に不可能である。換言すれば、鑑定にはいつでも不確定性が伴うのだ。

 以上の観察を、同一性一般の問題にひろげて適用してみよう。

 同一性の存在論的問題とは、個体xとyとは、どのような条件下で同一(one and the same)だろうか、という問いである。(さらに詳しくは、拙論文、「個体について」、『我、ものに遭う』新曜社、1983、第6章、を参照していただきたい。)

 この問いを、人はいかにしてyとyが同一であるのを知りうるのか、という認識論的問いと混同してはならないし、まして、二つの指示表現xとyは同一の指示項をもつだろうか、という言語分析的問いとごっちゃにしてはならない。

 ところが、贋作問題は厄介なこの種の「混同」を不可避的に巻き添えにする。「贋作」の構成要因には何らかの形式における「鑑定」が含まれることを思い出してほしい。存在論の用語で〈贋作〉とは何かと問うべきではない。むしろ、半ば存在論的で半ばは認識論(言語論を含む)的でもある不純な問い――「いつ贋作か」と問わなくてはならないのだ。

 ここまでの観察は<贋作>がすぐれて「記号学的」な主題であることを示している。多少なりとも記号に言及することは、ある意味で存在と認識をごっちゃにすることである。これはまた、手放しのリアリズム(実在論)を放棄することも意味する。なぜというなら、基本的にいってわれわれは記号系(ヴァージョン)を制作することによって世界を制作するからである。この意味で記号系の外部はないのであり、ないものについては口を緘するほかはない。

 こうしてようやく、冒頭で述べた「同一性」という存在論的カテゴリーの曖昧さを問題にできる用意が整ったようである。
                                 (つづく)