いつ贋作か――贋作の記号学メモ 8

namdoog2009-02-25

様式の認知

 「歴史的基準」の適用は原理的に完備的(complete)ではありえない。換言すれば、与えられたすべての基準をクリアする作品がなおかつ事実上贋作であるという事態がつねに可能である。

 では美術商や鑑定家はどのようにして当該作品の「鑑定」を遂行できるのか、そして実際にどのように遂行しているのか。

 ここにフェルメールのものと想定される作品があるとする。同時にこの作品が知られている限りの「歴史的基準」をクリアしたとする。この場合、鑑定家が最大限確言できるのは、この作品が「フェルメールの贋作であるとは言えない」あるいは「贋作だという確たる証拠はない」ということである。

 ところで「鑑定」とはある種の言語行為であるほかはない。(当然ながら、古美術品に付帯する「折紙」や「極書(きわめがき)」もその種の行為に含めることができる。)従って、「フェルメールの贋作であるとは言えない」と発話することは「フェルメールの贋作ではない」という(消極的にせよ)鑑定の遂行なのである。

 だがこれだけでは「鑑定」の半面が遂行されたに過ぎない。「フェルメールの贋作ではない」ことは「フェルメールの真作である」ことを意味しない。それでは鑑定家は残りの半面をどのような手掛かりによって遂行するのだろうか。

 鑑定の現場で行われている手続きは、その作品に問題の画家の「様式」(style)がそなわるかどうかを鑑識することである。もしその作品にフェルメール様式(Vermeer-style)が歴然と認められるなら、鑑定家は自信をもって「これはフェルメールだ」と言うだろう。

 だが真の困難がここで頭をもたげることになる。すでに述べたように「様式」ないし「スタイル」とは〈同一性の顕現〉にほかならない。それゆえ、例えばフェルメール様式をそなえた画をフェルメールの描いたものだ、フェルメールの真作だ、と述べること(積極的鑑定)は、これを命題の確言(to assert that…)とおさえたとき、述べられたのはトートロジー(同義反復)以上でも以下でもない。

 すなわち積極的鑑定は、形式的にいえば無意義なのである。

 だが人は言うかもしれない、「様式」に伴う実質的問題が残っているのではないか、と。フェルメール様式を他人がそっくり模倣することが可能なのではないか。メーヘレンの贋作《エマオの食事》に専門家たちはフェルメール様式を認めたのではなかったか。(その真贋は作品が科学的鑑定にゆだねられることで初めて決着がついたのだった。)

 しかしここで二つの表現を区別しなくてはならない。
1)この作品はフェルメール様式をそなえている。
2)この作品はフェルメール様式をそなえていると鑑定される。

 前者は作品に関する端的な事実を述べた命題であるが、後者は作品ではなく作品の「鑑定」について述べた命題に過ぎない。〈鑑定〉は英語ではjudgementである。明らかにこの行為にはそれを成り立たせる構成要件が伴う。では具体的にどのような要件が揃えば、〈鑑定〉が成立するのだろうか。他の要件はともかくとして、主要な要件に鑑定家の認知(recognition)が数えられるのは明らかだろう。

 まずもって「多くの鑑定家たちは《エマオの食事》にフェルメール様式を認めた」ことが〈鑑定〉の第一要件をなすと言わなくてはならない。

ところで「認める」(to recognize)という動詞の意味論を少し観察すれば分かることだが、この動詞の使用には「その目的語の表意する対象が存在する」という含意が伴わない。この意味でこの種の動詞はintensional(=非外延的)という論理的性状を具えている。

 例えば、I recognized June by her red hair, but in fact she wasn’t June という表現は矛盾ではないだろう。私がある赤毛の人をジューンだと誤認したに過ぎないのだ。ジェーンも赤毛だったからである。

 フェルメール様式を他人がそっくり模倣することは出来ない相談である。「そっくり模倣する」には他人がフェルメールその人に成り代わらなくてはならないからだ。

 様式の認知によって真贋の鑑定をなしうる、あるいは様式の認知が作家の同定の決め手であるという見解はただしい。例えば、田中英道法隆寺とパルテノン』(祥伝社、2002)はこの見解を強調している。主張そのものが間違いだとは思わない。だが「様式の鑑定」がどのようになされるかについて、文献は多くを教えてはくれない。

 田中英道は前掲書において、様式の面から、例えば法隆寺金堂の四天王像と百済観音の作者が同一であるとした上で、作者を『日本書紀』に記載のある山口大口費(やまぐちのおおくちのあたい)と同定している。だが詳しい考証はこの本のどこにも見当たらない。(研究書ではない本書がその種の考証にページを割いていないのは当然だと著者は言うのかもしれないが。しかし本書に読めるのは「断定」やそれに近い所見だけなのである。)

 様式を捉えることは、おそらく「洞察」、「暗黙知」、「第六感」のような特殊な認識能力によるのかもしれない。そう思わせるような記述を文献に見出すことは難しいことではない。

 少し例をあげてみよう。

 アメリカの美術史家B.ベレンソンは、真贋の判定をするとき、なぜ自分が細かな欠点や矛盾に気づいてしまうのか、うまく説明できない、と仲間達につねづねこぼしていた。「…蓄積された経験があり、そのうえに霊的な感覚が無意識のうちに生じる。…絵を見たとき…私はすぐにそれが巨匠のものかどうか判定できる。」(トマス・ホーヴィング『にせもの美術史』(雨沢泰訳)、朝日新聞社、1999、10頁)

 「ニューヨーク大学美術研究所にいたクロウシーマー教授は、4世紀から5世紀にかけて建てられた煉瓦造りの教会は、モルタルをなめてみれば絶対確実にわかると言っていた。…判定は一度もまちがわなかった。」(同書、29頁)

 言うまでもないが、モルタルの味見によって教会建造の年代測定を行うのがどのような認知プロセスかはいまだに解明されていない。

 とりわけ古美術品もしくは骨董に関してこの種の特殊な「感覚」が真贋を見分けるという逸話が語られることが多い。本物だと信じて購入した名のある画家の軸を展示して鑑賞しているうちに「どうもしっくりこない」、「これはいけない」という感覚に襲われ、厳しく鑑定したら果たして贋作だった、という類の話である。

 筆者はこの種の特殊な能力があるかもしれないと考えている。それは「発見」や「アブダクション(仮設構成)」の推理にほとんど同じものではないかという見当をつけている。だがこの論点を掘り下げるために適切なデータや事例研究をまだ見出せないでいる。

 さて「様式」に関する別の問題を指摘しておきたい。  (つづく)