イメージ図式の哲学的意義 (2) 生きた身体

namdoog2006-12-13

イメージ図式が由来するその源泉はなにか
 あらゆる経験の構造に想像力が浸透していることを見抜いた点にカントの見解の正しさがある。しかしカントは純粋で自律的な――つまり経験の地平を離陸した――理性があると信じていたので、思考における想像力の決定的役割を理解しなかった。
 その後、哲学者のジェームズ、デューイ、メルロ=ポンティなどの業績や新たに勃興した認知神経科学の仕事のおかげで、人間の心が身体に具現しているという見地がますます確かなものとなった。心と身体という二つの実体があってそれらが何らかの仕方で結合する、という古風な二元論のかわりに、<心>および<身体>と呼ばれるものは、生活体と環境との不断に進行する相互作用を別々のアスペクトとして抽きだしたものに過ぎないという見地が確立されることになった。もちろん、この<生活体と環境との不断に進行する相互作用>そのものは同時に身体的(物理的)かつ心的なものと見なすほかないものである。
 心が身体に具現している(mind is embodied)ということは、意味や思考そして記号的表現のすべてが、知覚と身体運動のパターンに基礎を有することを意味する。
 ジョンソンとレイコフが<イメージ図式>という術語を合理性の理論に導入したのは、概念化と推理にそなわる種々の構造が身体的な感覚-運動的本性をそなえていることを強調するためであった。それは、カントの場合のように、形式化の純粋な能力のようなものではないし、抽象的な知識構造(Schank and Abelsonによる<スクリプト>)でもない。<イメージ図式>は人間の感覚的-運動的経験にそなわる反復されるパターンなのである。
 この種のパターンのおかげで、われわれは経験の意味を理解しそれについて推理できるようになる。さらに、原初的なひとそろいの<イメージ図式>を認知的資源として、これからわれわれは種々の抽象的概念を創出することができる。この議論が、レイコフたちの<概念メタファー論>であることは言うまでもない。
 カントの図式論に想を得ながら身体性のほうへそれを乗り越えた点に、ジョンソンとレイコフの功績がある。具体的に彼らの議論を検討するとき、彼らのいわゆる<経験中心主義>(experientialism)(これを古めかしい<経験主義>empiricismと混同すべきではない)が、例えばパースの<習慣論>と色濃い親和性を有する点におのずと気づかせられる。なぜなら、パースにおいて<経験>をそれとして構成する超越論的基礎は独特な意味での<習慣>にあるからである。
 パターン、規則性、ルール、秩序などを一言で<パターン>の語に代表させよう。人間にとってある身体動作がひとつの<運動>――例えば、<歩行>――としてカテゴリー化されることには当然ながら<パターン>が関与しているし、あるカテゴリーの運動が実行されるとき――例えば、人が実際に歩くときに、身体の動作を統御する法則にも<パターン>が介在する。このように、経験のパターンとしての<イメージ図式>という洞察からパースの習慣論を経由することによって、<論理形式>の図式論的基礎の道が拓かれるだろう。しかしこの問題はここでは放置せざるを得ない。
 ジョンソンの議論に帰ることにしたい。彼によれば、認知神経科学の用語法でいうなら、イメージ図式は、形式を生みだすための自律的な神経モジュールの所産ではない。それはむしろ、大脳のさまざまな感覚-運動領野を描いたトポロジカルな神経地図内部の、それ自体は変化しない構造を特徴づけるパターンである。ここでジョンソンは、こうした方向での研究例として、Terry Regier, The Human Semantic Potential (1996) をあげている。具体的にいうなら、「制限的コネクショニズム」のモデルである。
 筆者はこのモデルを評価する立場にないが、しかしジョンソンの図式論が単なる認知言語学の範囲にとどまるものではなく、また単に哲学的思弁と見なされるべきものでもなく、神経科学の新たな動向にむすびついている点を重く受け止めたい。
 神経科学の仮設としてジョンソンの図式論を捉えなおすと、以下のようになる。イメージ図式とは、さまざまな知覚-運動地図における不変のトポロジカルな構造にほかならない。ただし、ジョンソンはこうした仮設によって、イメージ図式が神経学的実質に還元されることを主張するものではない点を強調している。つまり大脳の神経学的機能は自律性をもたないというのである。
 もちろん経験の構成に関して大脳は中心的役割を演じるのだが、知覚、感情、行動などの全体と大脳とを切り離してはいけないという。彼によれば、「われわれはつねに以下の点を記憶すべきである。すなわち、イメージ図式は、大脳のある種のアーキテクチャーをそなえている生活体(organisms)にとってのみ存在している。この種のアーキテクチャーは、生理学的に特別な作りをそなえた身体の内部で働き、われわれのような生物に対して非常に特種な<アフォーダンス>を提供する環境と相互に作用しあっているのだ。」
 以上から、ジョンソンが<唯脳論>(養老孟司のひところの議論?ただし養老の議論を哲学的学説と見なしうるかどうかおぼつかない)には反対の見地を堅持しているのがわかる。人間に可能である認知や知識や行動は――つまり世界は――大脳の産物なのではない。端的に言うと、それらは環境と生活体の絶えざる交流から立ち現れるのである。ついでにいうと、ここでジョンソンがギブソンの<アフォーダンス>にわざわざ言及しているのには意味がある。図式論と生態学的心理学とは形而上学的基礎をほとんど同じくしていると思えるからである。
イメージ図式を同定する
 イメージ図式とは、生活体と環境との相互作用から出現するダイナミックな反復的パターンである。それゆえ、イメージ図式は、しばしば、われわれの基礎的な感覚-運動的経験のいわば輪郭としてその形をあらわにする。したがって、人間の身体経験に属するもっとも基礎的な構造的特徴を現象学的に記述することによって、イメージ図式を調べることができるだろう。
 例えば、われわれの身体がほぼ左右相称の形態をなしているとすれば、この点からただちに<左右対称>という理解が生まれる。(ちなみに、環世界論の提唱者ユクスキュルが、<作用空間>のひとつの特性として<左右>を導いている。身体図式の問題や空間性を運動能力の観点から分析した早い例として、彼の議論には注意が必要である。『生物から見た世界』岩波文庫、29頁以下を参照。)
 マーク・ターナーが指摘するように、もし人間が左右相称の身体を有しない水棲の浮遊生物だとしたら、<左右>、<上下>、<前後>などという空間性は人間にとってありえなかっただろうし、当然ながら、人間の身体経験や対象認知のありようは、いまのものとは全く異なる内容のものだったろう。
 ジョンソンが<基礎的>と称する<イメージ図式>には、上記のものに加えて、<中心-周縁>、<遠-近>、<地平HORIZEN>、<強制COMPULSION>、<誘引ATTRACTION>、<障害BLOKAGE>、<運動>などがある。このなかにTalmyが<力の動力学>(訳すと奇異な印象だが、原語は、”force dynamics”)と呼んだ図式が含まれていることに注意しよう。これらの力にかかわる図式の身体性の論理には、運動の速さ、リズムをなす波などに関する推論が含まれている。
 さて、ジョンソンはこうした基礎的なイメージ図式が著しい特色をもつ点に言及している。人間は地球表面に暮らしているがそこは重力場をなしている。しかも、人間は直立歩行する能力をもつにいたった。こうした条件のもとで、人間は、起立すること、登ること(逆に、降ること)に重要性を付与する自然の傾向をもつことになった。これらの身体運動は、<垂直性>の図式によって組織化されている。
 他方、人間は<直線運動>を経験すると同時にそれに関する推論をおこなう。一方、曲線運動や明確なゴールをもたない逸脱した運動に関しては直線運動の場合とは異なった推論をおこなっている。
 人間はつねに自分の身体的状態をモニターしてその変化を認知している。ここに、変化の程度に対して適応し、変化の強度を測るという能力が身につくことになる。身体状態の変化として際立って気づかれるのが、感情である。それゆえ感情の強さとその質についての認知が発達することになる。一般に質の強度を測るという感覚に基礎を与えるのは、自分の感情の図式的了解(スカラー性の図式あるいは数量の図式)にほかならない。
 また、われわれはつねにあらゆる形態と大きさの入れ物(容器)と相互作用をおこなうから、おのずと容器の論理(<入れ物>の図式)を習得することになる。
 こうしたジョンソンの議論は、認知に関する自然主義に依拠している。その意味では、古いタイプの経験主義と同様であるが、しかし決定的に異なる論点が彼にはある。
 経験主義は機械論的であったり、物理主義的であったり、還元主義的であったりする。一概には言えないが、存在論としては客観主義的なリアリズムの傾向が認められる。しかしながら、ジョンソンの立場(経験中心主義)はこれらのいずれでもない。自然主義ではあっても、物理主義的還元主義ではないし、機械論的というより目的論的である。
 どうしてこうした違いが同じ自然主義のなかで生じるのだろうか。筆者の解釈では、ジョンソンの見地を成り立たせている基礎概念としての<理解>があるからだとおもう。あえて言えば、世界の構成要素として、ユクスキュルがそうしたように<記号>つまり<理解されるもの>を組み込んでいるからであるとおもえる。言うまでもなく、このポイントはさらに掘り下げるべき重要な論点を提供している。        (つづく)